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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

石原都政下の「日の丸・君が代」強制と見せしめ処分は、帝都における「錬成教育」にルーツがある

2021年05月14日 | 平和憲法
 ◆ 学術会議問題から見える「新たな戦前」 (『百万人署名運動全国通信』から)
荻野富士夫(小樽商科大学名誉教授)

 ◆ なぜ「新たな戦前」と言うのか

 2015年に安保関連法(戦争法)が成立し、17年に組織的犯罪処罰法が改悪され共謀罪法となりました。私は共謀罪法や特定秘密保護法(2013年域立)を「現代の治安維持法」と捉えています。
 法の目的・法益という点で見れば、これらと治安維持法とは明らかに違います。
 奥平康弘さん(故人、憲法学者)は道路交通法や暴力団対策法などの一般市民の通常の生活と関わるような法令が治安的な観点から運用されていることを指摘して、それらの法律群を「機能的治安法令」と言っておられました。
 そういうふうにあちこちからいろんな法令を持ってきて、かつて治安維持法が果たしていた社会を押さえつける効果を発揮させるような体制が、現代において着々と整備されている。
 そういう問題意識から、私は現在を「新たな戦前」と考えています。
 戦前の治安法、治安維持法は何のためにでき、運用されたのか。最終的には国民を統制し、動員して総力戦を遂行するためです。
 いまの時代も戦争の危機に備えるということを声高に叫ぶことで、様々な政策が打ち出され、法律が作られ、変えられたりしています。
 日本学術会議の任命拒否問題をそうした観点から見たとき、現在の学問統制、思想統制に国家権力が手を突っ込んできたと思いました。
 それは2017年に学術会議が軍事研究反対声明を出したときから、安倍政権の下で進行していたことも判明しました。
 ◆ 科学技術・イノベーション基本法

 任命拒否された6人のうちの一人の加藤陽子さん(東大教授日本近現代史)が当事者として出された抗議のメッセージの中で、大変大事な指摘をされていました。
 2020年6月、「科学技術基本法」(2011年施行)が「科学技術・イノベーション基本法」に改正され、2021年4月から施行される点です。
 加藤さんは6人が人文・社会科学領域の研究者であることを踏まえ、法改正によって自然科学に加えて人文・社会科学も新法の下で「『資金を得る引換えに政府の政策的な介入』を受ける事態が生まれ」たことに注目します。
 任命拒否「政府側がこの領域の人選に強い関心を抱いていること」を示し、ここに「この問題の核心がある」と言っておられます。
 「資金」というのは研究費のことですね。
 私は任命拒否が意味する問題を、滝川事件(1933年)、天皇機関説事件(35年)、河合栄治郎事件(38年)などの弾圧をすることと並行して、当時の文部省が学問統制・思想動員を強めていった歴史と重なると考えています。
 ◆ 思想統制、マルクス主義への対抗

 1920年代は学生らの間に社会科学研究への関心が高まりました。1928年に3.15事件という共産党への大弾圧があり、1600名もの人々が逮捕されます。
 文部省や大学などはその中に多くの学生が含まれていたことに驚愕するわけですね。赤化の恐怖、マルクス主義の脅威を何とかしなければと文部省の中に学生課(のち学生部、思想局)をつくり、そこが全国の大学や高校(旧制高校)の学生運動を押さえ込む中央指揮センターの役割を担いました。
 各県の特高課長などを歴任し、思想問題を専門に扱う官僚を内務省から出向させて学生課長などの第一線のトップに据えます。
 また帝国大学には学生主事を、官立高校などには生徒主事を設けて、学内の教育警察の役割を担わせて、思想統制・教育統制を強めました。
 その一方で、弾圧一辺倒では具合が悪いと考えた文部省は32年に「国民精神文化研究所」を創設します。
 思想には思想をもって対抗する、つまりマルクス主義を批判し克服する思想を自前で持つことを掲げました。
 文学から哲学、教育学、経済学、政治学などまで、それぞれ学問の専門家を集めて研究させる場をつくり、組織も拡充していきます。
 ただ実際にはマルキシズムに対抗する学問体系をつくることは難しく、マルクス主義の背景にあると考えられた欧米の自由主義や個人主義、あるいは民主主義、功利主義などの克服をめざして研究をおこなっていました。
 マルキシズムに対抗するものとして「日本精神を明らかにする」としばしば言われますが、「日本精神」とは何なのかということになると、これは最後まで茫漠(ぽうばく)としたままで、「惟神(かんながら)の道」(神代から伝わり、神の御心のまま人為の加わらないまことの道)というようなものの強調に終始していました。
 1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)とセットになっていたのが、翌年の教育勅語です。「日本精神」というものの直接的な源流はこの教育勅語にさかのぼります。
 そこでは忠と孝が打ち出されますが、「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」とあるとおり、最終的には天皇に対する忠義が根幹となる、結局「惟神(かんながら)の道」にしかならなかったわけです。
 「国民精神文化研究所」は本来の「研究」という点で見るべき成果をあげることはできませんでした。
 ◆ 思想再教育の実践、「教員研究科」

 「国民精神文化研究所」で少し成果があったといえるものとして「教員研究科」があります。
 これは各府県から師範教員を1人ずつ集め、1年間集中的に思想再教育をおこない、国体観念・国民精神の熱心な鼓吹者に育成します。
 この修了生は各府県の思想再教育に取り組み、やがて各府県につくられた「国民精神文化講習所」の中心となり、県内の小学校・中学校教員の再教育に当たっていきました。
 これは初等・中等教員の教育統制という点において、実質的に役割を果たしました。

 それから「研究生指導科」というものがありました。
 各大学や高校で学生運動に関わった者は停学や退学処分などを受けたわけですが、そのなかで「転向」した学生をこの研究生指導科に集めて、今の大学院生のように各自に研究テーマを持たせて指導し、「転向」の促進を図り、修了生は各大学に復学する道を開きました。
 しかし、約6年間で74人の修了者にとどまったように、予期した成果をあげることはできませんでした。
 ◆ 天皇機関説への弾圧

 美濃部達吉の天皇機関説事件は、美濃部個人に対する抑圧だけではなかったのです。
 天皇機関説は、天皇は国家の一機関であり天皇も憲法の制限を受けるという立憲主義の憲法論でした。大正デモクラシーの下で提起されて広く受け入れられていたんですが、「天皇神権説」をたてて、天皇機関説は天皇反逆思想、不敬罪になると攻撃され、美濃部は貴族院議員の辞職に追い込まれます。
 文部省思想局は大学や高校などの法学担当者の憲法講義の内容を全部調査して、学生のノートなども調べて天皇機関説を採る教員を全て追放しました。
 1936年になると「国体明徴(めいちょう)」「日本精神の闡明(せんめい)」が社会全体を席巻し、大学には「国体学」や「日本学」という講座を作っていきました。
 1936年、文部省は人文・社会科学の8つの分野からなる「日本諸学振興委員会」を創設し(のちに自然科学も加わる)、文部次官を委員長とします。
 「国民精神文化研究所」が期待外れだったので、今度は既存の学会をテコ入れして、学会を直接支配していく仕組みを作りました。
 各分野の研究発表の学会や講演会を開催し、機関誌も刊行しました。
 戦前、自然科学の分野では1920年に「学術研究会議」が作られ、1932年には「日本学術振興会」が設立されていました。
 1930年代後半になると、軍部は軍事的な新たな技術の開発に力を入れ、大学の研究に着目しました。たとえば、中谷宇吉郎(北大)の雪の結晶の研究には軍部から研究費が出ていました。
 2015年に防衛省「安全保障技術研究推進制度」を新設して、民生用にも軍事用にも利用できるデュアルユース技術の研究開発を公募し、研究者たちに助成金を出す仕組みを作りました。
 日本学術会議は討議を重ねて17年に「軍事研究反対」声明を出しましたが、それが「任命拒否」の発端になったわけです。
 加藤陽子さんが「科学技術・イノベーション法」によって、国が研究費の面から人文・社会科学も含めて統制を強めてくると懸念を表明されたのは、戦前のやり方を考えれば大いにありえることです。
 ◆ 『国体の本義』から『臣民の道』へ

 天皇機関説事件後、文部省は「今日我が国民の思想の相剋(そうこく)、生活の動揺、文化の混乱」は、「真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」という発想の下で、37年に『国体の本義』という本を刊行します。
 41年には教学局から『臣民の道』が『国体の本義』の続編として出され、天皇に対する忠義が最優先されました。大量に発行され、国民の必読書と位置づけられます。
 こうして文部省はあるべき国家像、あるべき国民像・臣民像を提示し、同時に学問全体を徹底的に統制・動員していこうとします。
 「教学錬成」が至るところで叫ばれるようになりますが、1939年から40年にかけて「帝都」東京でおこなわれた錬成教育がその典型的な事例といえます。
 東京市では「転向」学生の塾的訓練で知られた皆川治広(元司法次官)を教育局長に据えて、その下で錬成教育に遙進しました。
 「皇国日本に在りては、惟神の大道(だいどう)を以て国民教育の基礎たらしむべきなり。肇国(ちょうこく・建国)の精神を昂揚して」「八紘一宇(全世界を一つの家にすること)を顕現するために」として、東京市の1万7千人の小学校の教職員全員を東伏見の稲荷神社を会場の一つに2泊3日の「塾的鍛錬」に動員をしていくわけですね。
 禊(みそぎ)からはじまり、食事も清掃も「行(ぎょう)」としておこなわれました。
 私は石原都政の下における、卒業式や入学式などでの「日の丸・君が代」の強制や見せしめ処分というあの異常な教育統制は、この「東京における錬成教育」にルーツがあると思いました。
 アジア太平洋戦争下の1944年に文部省の文政研究会が『文教維新の綱領』という本を出しましたが、その中には「時には児童の能力や心理を無視しても、或いはその個人的納得如何(いかん)を無視しても、日本人錬成のための厳しい修練が施されねばならぬ」という発想がありました。
 それは教育統制の行きついた先の教育の崩壊を意味します。
 敗戦後の社会や教育は、戦前と断絶するものももちろんありますが、戦前から現在まで連続しているところも多く、学術会議の任免問題にもつながっています。(文責:事務局)
『百万人署名運動全国通信 第280号』(2021年3月1日)


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