★ 人見やよい(福島県郡山市)
滅びゆく恐竜(原発)を延命させるな
私は福島県郡山市に住み、地元の情報紙に地域で活躍する人や団体のインタビュー記事を書く仕事をしていました。この仕事は30歳の頃から23年間続けてきましたが、原発事故後、地元の経済が冷え込み、今年の4月に休刊となりました。
現在は、大阪に本拠地を置くNPOの、会員向け月報を作る仕事をしております。
地元情報紙の関係では、脱原発運動をされている人たちを取材することもありました。福島県にいつの間にやら10基もの原発が建てられ、さらには軽水炉でプルトニウムを燃やすプルサーマル発電が行われようとしていることに危機感を持つようになって、自分でも強い関心を持って脱原発運動に加わるようになりました。
特に2010年は、佐藤雄平前知事がプルサーマル発電の受け入れ容認に動いた年であり、しかも電源喪失事故やケーブル差し違え事故などの人為的な過失による事故が続き、このま芝では早晩、とんでもない大事故を引き起こすのではないかと、不安を抱くようになりました。
仲間たちと県庁前で抗議活動を続け、「プルサーマルを受け入れないで。福島県を核のゴミ捨て場にしないで」と訴えていました。
そんな中で2011年3月11日が起きました。
「やはり起きてしまった」という気持ちと、私たちの市民運動が弱かったために、老朽化した福島原発を止めることができなかったことへの激しい後悔が起きました。
県にも経産省にも、もっと強く抗議し、「原発は安全ではない」ということをはっきり認めさせるべきだったと思いましたし、これからは何があっても、原発は二度と動かさない、福島の轍を踏ませない、そのことを伝えていく責務が福島県民にはあると思いました。
事故から半年が過ぎた頃(2011年9月末)、「このまま黙っているわけにはいかない」という声が、県内の従来から脱原発活動をしてきた女性たちの間からあがりました。国のエネルギー政策として、「安全神話」と共に原発を押しつけられてきたのだから、大元である「国」に文句を言わねばならないと思ったのです。
その当時は、まだ稼働中の原発もありましたので、「ずべての原発を直ちに停止させ、廃炉にせよ」「子どもたちを安全な場所に避難させろ」「避難を余儀なくされた人々に完全な補償を行え」などの要求を持って上京しようと話し合いました。
その後、抗議活動のための専用プログを立ち上げて、発足ミーティング開催と参加を呼びかけました。
10月4日に1回目のミーティング開催。ここから、脱原発運動も市民運動も初めて参加する女性たちが加わり、正式に「原発いらない福島の女たち」を結成しました。
できるだけ大勢、できれば100人規模で上京し、抗議活動として10月27日~29日、3日間の座り込みを行うことを決定しました。
座り込みを行う場所も、官邸前や国会前などさまざまな意見が出る中で、エネルギー政策と原発政策を推進し、最もこの事故に責任がある経済産業省前にしようと決めました。
その話し合いの中で、経産省前のスペースに、テントを建てて抗議活動を行っている人たちがいることを知りました。現地の様子がまったくわからない私たちは、そのテントをべースキャンプとして使わせてもらえればありがたいと考え、連絡をとってみることになりました。
すると、「女性たちのために、もうひとつのテントを建ててもいい」というありがたいお申し出をいただき、甘えさぜていただ準備をしなければならない部分を担っていただいたと思っています。
10月27日、初めて経産省を訪れた福島の女たちを、第2テントはアットホームな雰囲気で迎えてくれました。
そこで食事をとったり、休憩したり、着替えをしたり、荷物を置いたり、自由に使いました。そして何よりも、脱原発、脱被曝を願う人たちが、こんなにも熱くこんなにもたくさん集っていることに勇気付けられました。
また、第2テントを建ててくれたのは、数名の女性たちであると聞いて、一層うれしく思いました。
フクイチで何が起きているのか本当のところは知らされず、福島で希望を見失っていた私は、テントに来れば同じ志の仲間に会えることが、その後の「希望」になりました。
3日間の座り込みには、名前を記帳された人数だけでも延べ2371人が参加。「100人で座り込みたい」という私たちの計画を大きく上回るものでした。それも、テントという活動のべースがあってのことだと思います。
私たちの第2テントができたことに感謝し、その後、何度も通うようになりました。このテントが私たちのホームであることに間違いありまぜん。
国(経産省)は、「原発」という間違った判断をしました。地震大国日本に、原発を造ってはならなかったし、そこから出た放射性廃棄物を安全に保管する場所もないのです。いかなる対策を取ろうと原発の完全な安全性が保たれることはないし、「原発の安全性を確認した」などという規制委員会の主張は、楽観的過ぎると言わざるを得ません。
「原発は地震大国日本では行ってはならない、極めて危険な発電法である」という意見は、世界中の人たちが納得する話であり、理解していないのは日本のごく一部の人たちだけです。しかも、2012年の「エネルギー・環境に関する国民的議論」において、日本国民の7割以上が「原発ゼロ」を選んだことも、経産省は認めなくてはなりません。
世界が「脱原発・持続可能エネルギーへの転換」に向かう中、滅び行く恐竜(原発)を延命させるべきではありません。原発をベースロード電源と位置づけた新エネルギー基本計画をただちに撤回すべきです。
テントは、世界では当たり前のこの意見を届けるために、手弁当とカンパで動いている市民たちの活動べースです。いかなる圧力をもってしても、正当な主張を掲げているテントは、なくならないと思います。
テントを撤去したいのなら、すべての原発を廃炉にすることを、経産省が決めればいいだけです。冷静に未来を見据えて判断いただきたいものです。
※ テントひろば応援団は、裁判が始まった直後の2013年6月にスタートしました。
呼びかけ人は、落合恵子、加藤登紀子、鎌田慧、神田香織、澤地久枝、瀬戸内寂聴、中嶌哲演、広瀬隆、三上元、ミサオ・レッドウルフのみなさんです。
滅びゆく恐竜(原発)を延命させるな
私は福島県郡山市に住み、地元の情報紙に地域で活躍する人や団体のインタビュー記事を書く仕事をしていました。この仕事は30歳の頃から23年間続けてきましたが、原発事故後、地元の経済が冷え込み、今年の4月に休刊となりました。
現在は、大阪に本拠地を置くNPOの、会員向け月報を作る仕事をしております。
地元情報紙の関係では、脱原発運動をされている人たちを取材することもありました。福島県にいつの間にやら10基もの原発が建てられ、さらには軽水炉でプルトニウムを燃やすプルサーマル発電が行われようとしていることに危機感を持つようになって、自分でも強い関心を持って脱原発運動に加わるようになりました。
特に2010年は、佐藤雄平前知事がプルサーマル発電の受け入れ容認に動いた年であり、しかも電源喪失事故やケーブル差し違え事故などの人為的な過失による事故が続き、このま芝では早晩、とんでもない大事故を引き起こすのではないかと、不安を抱くようになりました。
仲間たちと県庁前で抗議活動を続け、「プルサーマルを受け入れないで。福島県を核のゴミ捨て場にしないで」と訴えていました。
そんな中で2011年3月11日が起きました。
「やはり起きてしまった」という気持ちと、私たちの市民運動が弱かったために、老朽化した福島原発を止めることができなかったことへの激しい後悔が起きました。
県にも経産省にも、もっと強く抗議し、「原発は安全ではない」ということをはっきり認めさせるべきだったと思いましたし、これからは何があっても、原発は二度と動かさない、福島の轍を踏ませない、そのことを伝えていく責務が福島県民にはあると思いました。
事故から半年が過ぎた頃(2011年9月末)、「このまま黙っているわけにはいかない」という声が、県内の従来から脱原発活動をしてきた女性たちの間からあがりました。国のエネルギー政策として、「安全神話」と共に原発を押しつけられてきたのだから、大元である「国」に文句を言わねばならないと思ったのです。
その当時は、まだ稼働中の原発もありましたので、「ずべての原発を直ちに停止させ、廃炉にせよ」「子どもたちを安全な場所に避難させろ」「避難を余儀なくされた人々に完全な補償を行え」などの要求を持って上京しようと話し合いました。
その後、抗議活動のための専用プログを立ち上げて、発足ミーティング開催と参加を呼びかけました。
10月4日に1回目のミーティング開催。ここから、脱原発運動も市民運動も初めて参加する女性たちが加わり、正式に「原発いらない福島の女たち」を結成しました。
できるだけ大勢、できれば100人規模で上京し、抗議活動として10月27日~29日、3日間の座り込みを行うことを決定しました。
座り込みを行う場所も、官邸前や国会前などさまざまな意見が出る中で、エネルギー政策と原発政策を推進し、最もこの事故に責任がある経済産業省前にしようと決めました。
その話し合いの中で、経産省前のスペースに、テントを建てて抗議活動を行っている人たちがいることを知りました。現地の様子がまったくわからない私たちは、そのテントをべースキャンプとして使わせてもらえればありがたいと考え、連絡をとってみることになりました。
すると、「女性たちのために、もうひとつのテントを建ててもいい」というありがたいお申し出をいただき、甘えさぜていただ準備をしなければならない部分を担っていただいたと思っています。
10月27日、初めて経産省を訪れた福島の女たちを、第2テントはアットホームな雰囲気で迎えてくれました。
そこで食事をとったり、休憩したり、着替えをしたり、荷物を置いたり、自由に使いました。そして何よりも、脱原発、脱被曝を願う人たちが、こんなにも熱くこんなにもたくさん集っていることに勇気付けられました。
また、第2テントを建ててくれたのは、数名の女性たちであると聞いて、一層うれしく思いました。
フクイチで何が起きているのか本当のところは知らされず、福島で希望を見失っていた私は、テントに来れば同じ志の仲間に会えることが、その後の「希望」になりました。
3日間の座り込みには、名前を記帳された人数だけでも延べ2371人が参加。「100人で座り込みたい」という私たちの計画を大きく上回るものでした。それも、テントという活動のべースがあってのことだと思います。
私たちの第2テントができたことに感謝し、その後、何度も通うようになりました。このテントが私たちのホームであることに間違いありまぜん。
国(経産省)は、「原発」という間違った判断をしました。地震大国日本に、原発を造ってはならなかったし、そこから出た放射性廃棄物を安全に保管する場所もないのです。いかなる対策を取ろうと原発の完全な安全性が保たれることはないし、「原発の安全性を確認した」などという規制委員会の主張は、楽観的過ぎると言わざるを得ません。
「原発は地震大国日本では行ってはならない、極めて危険な発電法である」という意見は、世界中の人たちが納得する話であり、理解していないのは日本のごく一部の人たちだけです。しかも、2012年の「エネルギー・環境に関する国民的議論」において、日本国民の7割以上が「原発ゼロ」を選んだことも、経産省は認めなくてはなりません。
世界が「脱原発・持続可能エネルギーへの転換」に向かう中、滅び行く恐竜(原発)を延命させるべきではありません。原発をベースロード電源と位置づけた新エネルギー基本計画をただちに撤回すべきです。
テントは、世界では当たり前のこの意見を届けるために、手弁当とカンパで動いている市民たちの活動べースです。いかなる圧力をもってしても、正当な主張を掲げているテントは、なくならないと思います。
テントを撤去したいのなら、すべての原発を廃炉にすることを、経産省が決めればいいだけです。冷静に未来を見据えて判断いただきたいものです。
※ テントひろば応援団は、裁判が始まった直後の2013年6月にスタートしました。
呼びかけ人は、落合恵子、加藤登紀子、鎌田慧、神田香織、澤地久枝、瀬戸内寂聴、中嶌哲演、広瀬隆、三上元、ミサオ・レッドウルフのみなさんです。
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