《 『近現代史講座』若者の問いに答えて 》
こんばんは。犯罪都教委&3悪都議と、断固、闘う増田です! 長文・重複ご容赦を。
「第2回、増田の近現代史講座」に参加した若者からの問いに、以下のように返信しましたので、ご紹介します。第3回は8月25日(土)14時~湖北台近隣センター、「帝国憲法と日清戦争」です。関心のある方は、どうぞ、ご参加ください。
○○様
長文のまとめと感想を、たいへん、ありがとうございました。3悪都議裁判があったため、レスが遅くなり、ごめんなさい。
私の授業を契機にして深く思考をめぐらせ発表してていただき、本当に、嬉しいです。そのことによって、私もまた、深く考えさせられます。こういう生徒さんに出会えることが、教員の仕事の醍醐味です。
> また、私の近しい者も「グロテスクなものはみたく無い」という思いを持つ者もいます。
> 授業では、一人ひとりの許容量や内情に配慮されるのでしょうか?
> その辺りは分限免職に処分した対都教委裁判で争点にはなっていますでしょうか?
私は映画、皇軍の「侵略」と原爆記録映画「予言」を見せるときには、必ず「あまりにも残酷すぎる場面がありますので『とても見ていられない』と言う人は、目を閉じても机に伏せていてもかまいません。」と言っておきます。
私の授業の経験から言いますと、中学生たちは、興味本位の、文字通り「グロテスクなもの」と、人間の尊厳を根底から破壊した歴史上の事実、決して未来に繰り返してはならないものとしての「グロテスクなもの」を峻別する能力を持っています。
また、映像の「グロテスクなもの」が、興味本位か、それと正反対のものかは、編集した監督の資質にもかかっていると思いますが、前者は中学校の社会科教員だった森正孝さんの編集・監督であり、後者は人も知る羽仁進さんの編集・監督によるものであり、「グロテスクなものはみたく無い」などという対象にはなり得ないものです。
私は、強制は絶対にしませんが、これを「グロテスクなものはみたく無い」として見ないのは、『真実を知る権利』を自ら放棄するものであり、「グロテスクだから、見させてはならない」と主張するものは生徒たちの『真実を知る権利』を侵害するものだと考えます。
そして、もちろん、これは、「免職取り消し」裁判の争点です。
> もはや「歴史観」の相違が問題なのではなく、「どうしても「事実」を事実として受け容れることができない、という当人の精神構造」が問題なのですね。
そうです! それで、ひとつ、○○さんにお願いなのですけど、今回の授業の初めに『異なる歴史観を学ぶ場』とおっしゃいましたが、それはやめていただきたいのです。私は、この近現代史講座を『異なる歴史観を学ぶ場』とは考えておりません。
「日本は侵略戦争をした」というのは「事実」認識、「歴史認識」の問題であって「歴史観」の相違の問題ではないのです。そもそも「歴史観」という極めてあいまいな言葉は使わない方がいいと私は思います。「歴史観」というのは、唯物史観とか皇国史観とかというように、「ある体系的な歴史の見方」をいうものですから「日清戦争~アジア太平洋戦争にいたる日本の戦争は、侵略戦争か、自衛の戦争か」というのは、「歴史観」の問題ではないでしょう。
もっとも、皇国史観によりますと「日本は何十万年も前から、太陽の子孫の天皇が統治する運命にある国だから、神聖天皇が命じた戦争は、全て聖戦なのだ」ということになるわけですが、こんな「異なる歴史観」を私は、授業で学ぶ必要はないと考えています。授業では「事実」を学んでいただきたいのです。そして「異なる歴史観」について学ぶのは、授業で学んだ「事実」を基に、一人一人が自らおこなってほしいと思います。
> 歴史認識能力、「事実を事実として認識する能力」が低い子どもと大人とでは、対応の仕方は違うのでしょうか?
子どもは「事実を事実として認識する能力」が高いです。しかし、残念ながら大人の一部に「事実を事実として認識する能力」が、あまりにも低い人たちがいるのです。それは「利害関係」「愛惜関係」が存在しているからだろうと私は思います。でも、「対応の仕方」を違わせようとは思いません。「侵略」だったのか「自衛戦争だったのか」、事実は一つですから。
> もっとも大切な、「事実」を基にして理性的に話し合うことができない大人には、どのように向き合えるでしょうか。
これには、とにかく、こちらの側は粘り強く「理性的に」、「事実」を提示していくほかないのですが、極めて困難ですね。「利害関係」「愛惜関係」が理性を排除してしまうのです。
> 民主主義制度を持つ国の教育の基礎中の基礎である「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」が公立学校で、実践できれば良いのですが。
本来、憲法・47年教育基本法下の教育の目的は、公立学校でも私立学校でも子どもたちを憲法の思想・理念を身につけた主権者に育てることであり、その基本は「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」です。
私の紙上討論授業は、いろいろ目的がありますけれども、その一つが、「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」の基礎をつくること、すなわち、他人の意見を参考にしながら自分で深く考えていく能力を育成することであり、かなり成功していた、と自負しています。
そして、子どものころから「利害関係」「愛惜関係」を超えて、「事実を事実として認識できる理性的能力」を鍛えること、それは民衆をだますことが多い支配者には絶対にやってもらいたくないことですから、理性的能力を育てる平和教育・民主教育に成功していた私は学校現場から排除されたわけです。
歴史を見れば、1924(大正13)年に川井訓導懲戒免職事件がありました。松本女子師範学校付属小学校の川井清一郎訓導が、修身(道徳)授業で森鴎外の文学作品を使ったことから国定教科書無視として問題とされたのです。これは大正デモクラシー期に高揚していた、自由に物事を考えさせていく自由主義教育の抹殺でした。そして、日本は1926年に大正15・昭和1年と移り、1927年、第一次山東出兵、1928年には京大の河上肇らが教壇を追われ、第二次山東出兵、以後、1931年満州事変から15年にわたるアジア太平洋戦争と敗北となっていったのです。
「増田免職」が「21世紀の川井訓導事件」とならぬことを私は願いますけれど・・・
> 紙上討論では皆の意見を教科書の様に一語一句大切にし、参加者それぞれの目線と口調で読み上げ、回を重ね参加者全員で考えていく斬新な討論形式であると知りました。ふに落ちます。
そのとおりです。紙上討論の目的については、私は説明しません。紙上討論の本質は「自分の頭で考える」ことですから、紙上討論の意味についても「回を重ね」る中で生徒自身に考えてもらいます。そして、最初は「めんどくさい」などと思っていた生徒たちも「ふに落ち」てくれます!
では、今後とも、どうぞ、よろしく!
こんばんは。犯罪都教委&3悪都議と、断固、闘う増田です! 長文・重複ご容赦を。
「第2回、増田の近現代史講座」に参加した若者からの問いに、以下のように返信しましたので、ご紹介します。第3回は8月25日(土)14時~湖北台近隣センター、「帝国憲法と日清戦争」です。関心のある方は、どうぞ、ご参加ください。
○○様
長文のまとめと感想を、たいへん、ありがとうございました。3悪都議裁判があったため、レスが遅くなり、ごめんなさい。
私の授業を契機にして深く思考をめぐらせ発表してていただき、本当に、嬉しいです。そのことによって、私もまた、深く考えさせられます。こういう生徒さんに出会えることが、教員の仕事の醍醐味です。
> また、私の近しい者も「グロテスクなものはみたく無い」という思いを持つ者もいます。
> 授業では、一人ひとりの許容量や内情に配慮されるのでしょうか?
> その辺りは分限免職に処分した対都教委裁判で争点にはなっていますでしょうか?
私は映画、皇軍の「侵略」と原爆記録映画「予言」を見せるときには、必ず「あまりにも残酷すぎる場面がありますので『とても見ていられない』と言う人は、目を閉じても机に伏せていてもかまいません。」と言っておきます。
私の授業の経験から言いますと、中学生たちは、興味本位の、文字通り「グロテスクなもの」と、人間の尊厳を根底から破壊した歴史上の事実、決して未来に繰り返してはならないものとしての「グロテスクなもの」を峻別する能力を持っています。
また、映像の「グロテスクなもの」が、興味本位か、それと正反対のものかは、編集した監督の資質にもかかっていると思いますが、前者は中学校の社会科教員だった森正孝さんの編集・監督であり、後者は人も知る羽仁進さんの編集・監督によるものであり、「グロテスクなものはみたく無い」などという対象にはなり得ないものです。
私は、強制は絶対にしませんが、これを「グロテスクなものはみたく無い」として見ないのは、『真実を知る権利』を自ら放棄するものであり、「グロテスクだから、見させてはならない」と主張するものは生徒たちの『真実を知る権利』を侵害するものだと考えます。
そして、もちろん、これは、「免職取り消し」裁判の争点です。
> もはや「歴史観」の相違が問題なのではなく、「どうしても「事実」を事実として受け容れることができない、という当人の精神構造」が問題なのですね。
そうです! それで、ひとつ、○○さんにお願いなのですけど、今回の授業の初めに『異なる歴史観を学ぶ場』とおっしゃいましたが、それはやめていただきたいのです。私は、この近現代史講座を『異なる歴史観を学ぶ場』とは考えておりません。
「日本は侵略戦争をした」というのは「事実」認識、「歴史認識」の問題であって「歴史観」の相違の問題ではないのです。そもそも「歴史観」という極めてあいまいな言葉は使わない方がいいと私は思います。「歴史観」というのは、唯物史観とか皇国史観とかというように、「ある体系的な歴史の見方」をいうものですから「日清戦争~アジア太平洋戦争にいたる日本の戦争は、侵略戦争か、自衛の戦争か」というのは、「歴史観」の問題ではないでしょう。
もっとも、皇国史観によりますと「日本は何十万年も前から、太陽の子孫の天皇が統治する運命にある国だから、神聖天皇が命じた戦争は、全て聖戦なのだ」ということになるわけですが、こんな「異なる歴史観」を私は、授業で学ぶ必要はないと考えています。授業では「事実」を学んでいただきたいのです。そして「異なる歴史観」について学ぶのは、授業で学んだ「事実」を基に、一人一人が自らおこなってほしいと思います。
> 歴史認識能力、「事実を事実として認識する能力」が低い子どもと大人とでは、対応の仕方は違うのでしょうか?
子どもは「事実を事実として認識する能力」が高いです。しかし、残念ながら大人の一部に「事実を事実として認識する能力」が、あまりにも低い人たちがいるのです。それは「利害関係」「愛惜関係」が存在しているからだろうと私は思います。でも、「対応の仕方」を違わせようとは思いません。「侵略」だったのか「自衛戦争だったのか」、事実は一つですから。
> もっとも大切な、「事実」を基にして理性的に話し合うことができない大人には、どのように向き合えるでしょうか。
これには、とにかく、こちらの側は粘り強く「理性的に」、「事実」を提示していくほかないのですが、極めて困難ですね。「利害関係」「愛惜関係」が理性を排除してしまうのです。
> 民主主義制度を持つ国の教育の基礎中の基礎である「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」が公立学校で、実践できれば良いのですが。
本来、憲法・47年教育基本法下の教育の目的は、公立学校でも私立学校でも子どもたちを憲法の思想・理念を身につけた主権者に育てることであり、その基本は「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」です。
私の紙上討論授業は、いろいろ目的がありますけれども、その一つが、「事実を基にして理性的に話し合う能力を育成すること」の基礎をつくること、すなわち、他人の意見を参考にしながら自分で深く考えていく能力を育成することであり、かなり成功していた、と自負しています。
そして、子どものころから「利害関係」「愛惜関係」を超えて、「事実を事実として認識できる理性的能力」を鍛えること、それは民衆をだますことが多い支配者には絶対にやってもらいたくないことですから、理性的能力を育てる平和教育・民主教育に成功していた私は学校現場から排除されたわけです。
歴史を見れば、1924(大正13)年に川井訓導懲戒免職事件がありました。松本女子師範学校付属小学校の川井清一郎訓導が、修身(道徳)授業で森鴎外の文学作品を使ったことから国定教科書無視として問題とされたのです。これは大正デモクラシー期に高揚していた、自由に物事を考えさせていく自由主義教育の抹殺でした。そして、日本は1926年に大正15・昭和1年と移り、1927年、第一次山東出兵、1928年には京大の河上肇らが教壇を追われ、第二次山東出兵、以後、1931年満州事変から15年にわたるアジア太平洋戦争と敗北となっていったのです。
「増田免職」が「21世紀の川井訓導事件」とならぬことを私は願いますけれど・・・
> 紙上討論では皆の意見を教科書の様に一語一句大切にし、参加者それぞれの目線と口調で読み上げ、回を重ね参加者全員で考えていく斬新な討論形式であると知りました。ふに落ちます。
そのとおりです。紙上討論の目的については、私は説明しません。紙上討論の本質は「自分の頭で考える」ことですから、紙上討論の意味についても「回を重ね」る中で生徒自身に考えてもらいます。そして、最初は「めんどくさい」などと思っていた生徒たちも「ふに落ち」てくれます!
では、今後とも、どうぞ、よろしく!
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