▼ 脱原発ひろば (東京新聞【本音のコラム】)
二十日午前七時すぎ、淵上太郎は自力でトイレに行き、帰ってきてベッド下に倒れ込んだ。
それでも帰り際の訪問看護師に、いつものように手を振ってあいさつした。そして息を引き取った。妻正子さんの証言である。七十六歳。末期胆道がんで闘病中だった。
淵上太郎が東京・霞が関の経済産業省前に、友人たちと突如としてテントを張ったのは、福島原発爆発事故から半年後、二〇一一年九月十一日だった。
それから強制撤去されるまでの丸五年、テントは脱原発のシンボルとして「原子力村の総本山」経産省の鼻先に立ち続けた。座り込みはいまも続けられている。
二十三日の土曜日、東海道線に面したある駅近くの斎場で通夜があった。背広にネクタイ、野球帽の白鬚(ひげ)、およそ運動家らしくないいつもの独自なスタイルで、彼はお棺に納まっていた。すっきりした、やり切った表情で、安らかだった。
念願の原発ゼロの日をついに見ることはできなかった。が、あらかた決着が着いたことを彼は知ることができた。
経産省前テントは、脱原発のひろばだった。
廃炉作業もふくめて、どのようにして早く安全に、原発社会から脱却するか。経産省ばかりか、経団連とも日本の将来を巡って話し合う。そんなひろばをつくって、死者たちの想(おも)いを拡(ひろ)げていきたい。
『東京新聞』(2019年3月26日【本音のコラム】)
鎌田 慧(かまたさとし・ルポライター)
二十日午前七時すぎ、淵上太郎は自力でトイレに行き、帰ってきてベッド下に倒れ込んだ。
それでも帰り際の訪問看護師に、いつものように手を振ってあいさつした。そして息を引き取った。妻正子さんの証言である。七十六歳。末期胆道がんで闘病中だった。
淵上太郎が東京・霞が関の経済産業省前に、友人たちと突如としてテントを張ったのは、福島原発爆発事故から半年後、二〇一一年九月十一日だった。
それから強制撤去されるまでの丸五年、テントは脱原発のシンボルとして「原子力村の総本山」経産省の鼻先に立ち続けた。座り込みはいまも続けられている。
二十三日の土曜日、東海道線に面したある駅近くの斎場で通夜があった。背広にネクタイ、野球帽の白鬚(ひげ)、およそ運動家らしくないいつもの独自なスタイルで、彼はお棺に納まっていた。すっきりした、やり切った表情で、安らかだった。
念願の原発ゼロの日をついに見ることはできなかった。が、あらかた決着が着いたことを彼は知ることができた。
経産省前テントは、脱原発のひろばだった。
廃炉作業もふくめて、どのようにして早く安全に、原発社会から脱却するか。経産省ばかりか、経団連とも日本の将来を巡って話し合う。そんなひろばをつくって、死者たちの想(おも)いを拡(ひろ)げていきたい。
『東京新聞』(2019年3月26日【本音のコラム】)
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