=コントラタック2014=
◆ 岸田さん裁判第8回12月22日527法廷
☆ 岸田静枝さんから
「君が代」修正処分裁判の傍聴に来てくださり、ありがとうございます。
昨年10月の第1回ロ頭弁論で、私は意見陳述をしました。そのあとは毎回、書面のやり取りや次回日程の調整などで、あっという間に終わってしまうロ頭弁論が続きました。天候の悪い日もありました。たった5分間のロ頭弁論のために、都合をやりくりし、あるいは、1時間も2時間も、そして3時間近くかけて傍聴に駆けつけてくださる方々に、私はただただありがたく、そして申し訳ないような気持ちになりました。
そう言ったら、「たった5分間が、たった5分間だから、大切なのです」と返され、私は、そうか、裁判で共にたたかうとは、こういうことなのか、感謝して一緒に進んでゆけばいいのかと、何だか勇気がぐんぐん溢れてくる気持ちになりました。
考えてみると、私が傍聴する立場の時は、裁判所に圧力を与えるためも含めて、支援している人たちと共にいる行動の一つが、傍聴なのです。どうも私は当事者になると周りが見えなくなってしまうので、心してゆこうと思います。
今日の第8回ロ頭弁論に向けて、こちらからは私の陳述書を提出し、井田泉司祭と私の二人を証人として申請しました。相手からは、何も届いていまぜん。私の陳述書から、少し引用します。
『子どもには教育を受ける権利があって、それを手助けするのが学校教育です。強制しなければならないことも、まして命令に従わないからと処分しなければならない状況は、あり得ません。
前もって「君が代」のピアノ伴奏者が決まっていても、会場に「君が代」の生伴奏が流れても、なぜ私への職務命令が撤回されることはなかったのでしょうか。
学校教育の音楽の中で、「君が代」だけがなぜ、伴奏を断っただけで、処分が強行されてしまうのでしょうか。
退職してもなお、私は「君が代」の呪縛から解放されず、硬直した気持ちが弛むことは、なぜなかったのでしょうか。
職務命令を撤回することなく、とにかく処分まで追い込むのは、何のため、誰のためなのですか。』
『音楽は聴く時の印象と、弾く時の印象は違ってくるということです。
私が最も敬愛する作曲家ヨハネス・ブラームスの「11のコラール前奏曲」を、いつかはミサで弾きたいと練習をしています。オルガン演奏会で聴いた時も感動しましたが、自分で弾いてみると、次から次へと扉が開かれ、さまざまな静けさや動き、表情や言葉の豊かさに出会うのです。
このような音楽の限りない変容を経験すると、「職務なのだから、指だけ動かすのは可能」ではないことが、あまりにも明らかです。裏を返せば、「指だけ動かす音楽」は、音楽ではありえません。』
『自分の言葉と表現にない「音楽」を強いられることは、私にとっては、音楽への冒涜です。宗教としてのキリスト教ではなく、キリスト教の信仰を守る私の生き方にも抵触します。
私の宗教が脅かされても、私は生きてゆくことができますが、信仰が脅かされると、私は生きてゆくことができなくなります。信仰とは、そのようなことなのです。
天皇制の存続を願い天皇を賛美するウタ、「君が代」を歌う、ピアノで伴奏するとは、私の信仰を脅かす何物でもありません。』
今年もご支援ありがとうございました! 法廷での出会いが力となってこの裁判も闘い続けることができます。来年もまたお会いできますように!!
※ 次回 第9回高等弁論 2015年3月20日(月)13:30~ 東京地裁527法廷
岸田さん本人尋問(主尋問60分、反対尋問30分)
◆ 岸田さん裁判第8回12月22日527法廷
「君が代」不当処分撤回を求める会(事務局:東京都公立学校教職員組合内)
千代田区一ツ橋2-6-2 TELO3-5276-1311
千代田区一ツ橋2-6-2 TELO3-5276-1311
☆ 岸田静枝さんから
「君が代」修正処分裁判の傍聴に来てくださり、ありがとうございます。
昨年10月の第1回ロ頭弁論で、私は意見陳述をしました。そのあとは毎回、書面のやり取りや次回日程の調整などで、あっという間に終わってしまうロ頭弁論が続きました。天候の悪い日もありました。たった5分間のロ頭弁論のために、都合をやりくりし、あるいは、1時間も2時間も、そして3時間近くかけて傍聴に駆けつけてくださる方々に、私はただただありがたく、そして申し訳ないような気持ちになりました。
そう言ったら、「たった5分間が、たった5分間だから、大切なのです」と返され、私は、そうか、裁判で共にたたかうとは、こういうことなのか、感謝して一緒に進んでゆけばいいのかと、何だか勇気がぐんぐん溢れてくる気持ちになりました。
考えてみると、私が傍聴する立場の時は、裁判所に圧力を与えるためも含めて、支援している人たちと共にいる行動の一つが、傍聴なのです。どうも私は当事者になると周りが見えなくなってしまうので、心してゆこうと思います。
今日の第8回ロ頭弁論に向けて、こちらからは私の陳述書を提出し、井田泉司祭と私の二人を証人として申請しました。相手からは、何も届いていまぜん。私の陳述書から、少し引用します。
『子どもには教育を受ける権利があって、それを手助けするのが学校教育です。強制しなければならないことも、まして命令に従わないからと処分しなければならない状況は、あり得ません。
前もって「君が代」のピアノ伴奏者が決まっていても、会場に「君が代」の生伴奏が流れても、なぜ私への職務命令が撤回されることはなかったのでしょうか。
学校教育の音楽の中で、「君が代」だけがなぜ、伴奏を断っただけで、処分が強行されてしまうのでしょうか。
退職してもなお、私は「君が代」の呪縛から解放されず、硬直した気持ちが弛むことは、なぜなかったのでしょうか。
職務命令を撤回することなく、とにかく処分まで追い込むのは、何のため、誰のためなのですか。』
『音楽は聴く時の印象と、弾く時の印象は違ってくるということです。
私が最も敬愛する作曲家ヨハネス・ブラームスの「11のコラール前奏曲」を、いつかはミサで弾きたいと練習をしています。オルガン演奏会で聴いた時も感動しましたが、自分で弾いてみると、次から次へと扉が開かれ、さまざまな静けさや動き、表情や言葉の豊かさに出会うのです。
このような音楽の限りない変容を経験すると、「職務なのだから、指だけ動かすのは可能」ではないことが、あまりにも明らかです。裏を返せば、「指だけ動かす音楽」は、音楽ではありえません。』
『自分の言葉と表現にない「音楽」を強いられることは、私にとっては、音楽への冒涜です。宗教としてのキリスト教ではなく、キリスト教の信仰を守る私の生き方にも抵触します。
私の宗教が脅かされても、私は生きてゆくことができますが、信仰が脅かされると、私は生きてゆくことができなくなります。信仰とは、そのようなことなのです。
天皇制の存続を願い天皇を賛美するウタ、「君が代」を歌う、ピアノで伴奏するとは、私の信仰を脅かす何物でもありません。』
今年もご支援ありがとうございました! 法廷での出会いが力となってこの裁判も闘い続けることができます。来年もまたお会いできますように!!
※ 次回 第9回高等弁論 2015年3月20日(月)13:30~ 東京地裁527法廷
岸田さん本人尋問(主尋問60分、反対尋問30分)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます