【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<4>
(4)民主社会の教育と教員の職務
教育が、国家による「恩恵」ではなく国民の「権利」であり、政府言論の一方的注入ではなく学問的自由の上に成り立つ営みであるとするなら、教員の地位も佐々木氏の言うような<教師という機関>(p66)ではありえない。
①教員は国のエージェントではない
教員は、「官報」を届ける郵便配達夫と同じように、送り手の忠実なエージェントであることが求められているのだろうか。否、教育は、届けるだけで、中味には責任を持たなくて良い、郵便配達の仕事とは違う。
まず教員が生徒に届けるものは、一義的な「官報」(政府言論)ではなく、権力から自由な「学問の成果」である(進化論も地動説も)。教員は職務として、伝えるものを取捨選択したり、伝える方法を創意工夫することを求められる。
また教育の名宛人は、個性豊かな生徒たちであり、個性に応じた提供が求められる。それに対し郵便配達は、名宛人で待遇に差をつけてはいけない仕事であり、仕事のやり方に「個性」を求められることもない。個人の人格形成には、自由と主体性を欠くことが出来ないから、教員の仕事は、受け手の個性に応じて、柔軟な幅を持つことを要求される。
民主社会における教員は、国の「機関」ではなく、むしろ非権力的・非統制的立場から、独立した人格として学問的良心に基づいて自主的・主体的に活動する自由を認められなければならない。それが、「国民全体に直接責任を負って行われる」という意味である。「公教育」とは、政府の言いなりになることでもなければ、教員が奴隷かロボットになることでもない。
②起立斉唱は「強い公共利益」か
教員を国の機関と見なし、人権を「相対化」する佐々木氏には、教員に固有の思想信条の自由を認める余地はない。「公共利益」の強さよりも、教員の「人権」の軽さを立証しようとしているだけである
<思想信条に基づく不利益取扱いの場合には、少なくとも理屈のうえでは、その特定内容の信条を捨てることによって不利益措置を避ける可能性が、その個人の手に残されているのに、人種に基づく不利益取扱いの場合には、もうひたすらその不利益措置を受忍するしか、その個人にとっては手がないわけである。>(p32)
ここで「人種に基づく不利益取扱」との比較をしているのは、生得的要件と獲得的要件の違いをいいたいのだろうが、「思想・良心」とは、学歴や職業のように個人的努力で獲得し、その気になれば捨てたり獲得したり出来るものなのだろうか。
佐々木氏は、思想・良心という精神の「自由権」が固有の権利であることに目をつぶろうとしている。犯罪とか他者の権利を侵害する場合以外は、公権力からも他の誰からも絶対的自由である。それを、佐々木氏は「不利益が嫌なら、思想・良心を捨てれば」と言っている。これは戦前特高の「転向のすすめ」と同じ理屈であり、佐々木氏は無神経にも私たちを「転向」という名の精神的拷問に追い込もうとしているのだ。
自由権を制約できるのは、「公共の福祉」(他者の権利との調和)であって「公権力」ではない。国際基準を無視して、一般的な「公共利益」という言葉で、不可侵な自由権を侵害してみせているのが彼の芸である。
佐々木氏は、「思想・良心の自由」の射程とか称して自由の限界を描き出すのに腐心しているが、「起立斉唱」がいかに「強い公共利益」かという論証の方にもっと力を注いでみせてほしいものである。
③画一化の禁止こそ、戦後教育の基本
民主国家の教育制度は、多様な価値観の共存を保障するものでなければならない。
教育の民主化とは、画一化・軍国主義化・国家主義化の否定であった。
<教基法は、… 戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものであることは、いうまでもない。>(1976/5/21最高裁旭川学テ判決)
個性、とりわけ人間性の核心に触れる自律的価値判断を尊重するとは、特別の事情を有する少数者に配慮をする以前に、制度として個性を無視する一律画一的な思考や行為の強制を行わないことである。
卒業式で憲法問題が問われるのは、「画一化」の場面であると指摘したのが、ピアノ最高裁判決における藤田反対意見である。
<「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,…「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価」…といった側面こそが,本件では重要なのではないか。>(2007/2/27最高裁ピアノ判決藤田宙靖反対意見)
教育における憲法を論じるなら、戦後教育の民主化の意義を理解した上で、行ってもらいたいものである。佐々木氏の「外面的行為」論は、戦後教育基本法で禁止されたはずの「画一的教育」の復活に、明らかに手を貸している。個人と国家が逆立ちしている根本的な間違いに、良心的不服従者の「職業選択の自由」が奪われるところまで行かないと、気付かないのであろうか。
(完)
※佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論<前>
http://wind.ap.teacup.com/people/4559.html
※佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論<後>
http://wind.ap.teacup.com/people/4560.html
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<1>
http://wind.ap.teacup.com/people/4568.html
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<2>
http://wind.ap.teacup.com/people/4569.html
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<3>
http://wind.ap.teacup.com/people/4572.html
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<4>
http://wind.ap.teacup.com/people/4575.html
(4)民主社会の教育と教員の職務
教育が、国家による「恩恵」ではなく国民の「権利」であり、政府言論の一方的注入ではなく学問的自由の上に成り立つ営みであるとするなら、教員の地位も佐々木氏の言うような<教師という機関>(p66)ではありえない。
①教員は国のエージェントではない
教員は、「官報」を届ける郵便配達夫と同じように、送り手の忠実なエージェントであることが求められているのだろうか。否、教育は、届けるだけで、中味には責任を持たなくて良い、郵便配達の仕事とは違う。
まず教員が生徒に届けるものは、一義的な「官報」(政府言論)ではなく、権力から自由な「学問の成果」である(進化論も地動説も)。教員は職務として、伝えるものを取捨選択したり、伝える方法を創意工夫することを求められる。
また教育の名宛人は、個性豊かな生徒たちであり、個性に応じた提供が求められる。それに対し郵便配達は、名宛人で待遇に差をつけてはいけない仕事であり、仕事のやり方に「個性」を求められることもない。個人の人格形成には、自由と主体性を欠くことが出来ないから、教員の仕事は、受け手の個性に応じて、柔軟な幅を持つことを要求される。
民主社会における教員は、国の「機関」ではなく、むしろ非権力的・非統制的立場から、独立した人格として学問的良心に基づいて自主的・主体的に活動する自由を認められなければならない。それが、「国民全体に直接責任を負って行われる」という意味である。「公教育」とは、政府の言いなりになることでもなければ、教員が奴隷かロボットになることでもない。
②起立斉唱は「強い公共利益」か
教員を国の機関と見なし、人権を「相対化」する佐々木氏には、教員に固有の思想信条の自由を認める余地はない。「公共利益」の強さよりも、教員の「人権」の軽さを立証しようとしているだけである
<思想信条に基づく不利益取扱いの場合には、少なくとも理屈のうえでは、その特定内容の信条を捨てることによって不利益措置を避ける可能性が、その個人の手に残されているのに、人種に基づく不利益取扱いの場合には、もうひたすらその不利益措置を受忍するしか、その個人にとっては手がないわけである。>(p32)
ここで「人種に基づく不利益取扱」との比較をしているのは、生得的要件と獲得的要件の違いをいいたいのだろうが、「思想・良心」とは、学歴や職業のように個人的努力で獲得し、その気になれば捨てたり獲得したり出来るものなのだろうか。
佐々木氏は、思想・良心という精神の「自由権」が固有の権利であることに目をつぶろうとしている。犯罪とか他者の権利を侵害する場合以外は、公権力からも他の誰からも絶対的自由である。それを、佐々木氏は「不利益が嫌なら、思想・良心を捨てれば」と言っている。これは戦前特高の「転向のすすめ」と同じ理屈であり、佐々木氏は無神経にも私たちを「転向」という名の精神的拷問に追い込もうとしているのだ。
自由権を制約できるのは、「公共の福祉」(他者の権利との調和)であって「公権力」ではない。国際基準を無視して、一般的な「公共利益」という言葉で、不可侵な自由権を侵害してみせているのが彼の芸である。
佐々木氏は、「思想・良心の自由」の射程とか称して自由の限界を描き出すのに腐心しているが、「起立斉唱」がいかに「強い公共利益」かという論証の方にもっと力を注いでみせてほしいものである。
③画一化の禁止こそ、戦後教育の基本
民主国家の教育制度は、多様な価値観の共存を保障するものでなければならない。
教育の民主化とは、画一化・軍国主義化・国家主義化の否定であった。
<教基法は、… 戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものであることは、いうまでもない。>(1976/5/21最高裁旭川学テ判決)
個性、とりわけ人間性の核心に触れる自律的価値判断を尊重するとは、特別の事情を有する少数者に配慮をする以前に、制度として個性を無視する一律画一的な思考や行為の強制を行わないことである。
卒業式で憲法問題が問われるのは、「画一化」の場面であると指摘したのが、ピアノ最高裁判決における藤田反対意見である。
<「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,…「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価」…といった側面こそが,本件では重要なのではないか。>(2007/2/27最高裁ピアノ判決藤田宙靖反対意見)
教育における憲法を論じるなら、戦後教育の民主化の意義を理解した上で、行ってもらいたいものである。佐々木氏の「外面的行為」論は、戦後教育基本法で禁止されたはずの「画一的教育」の復活に、明らかに手を貸している。個人と国家が逆立ちしている根本的な間違いに、良心的不服従者の「職業選択の自由」が奪われるところまで行かないと、気付かないのであろうか。
(完)
※佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論<前>
http://wind.ap.teacup.com/people/4559.html
※佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論<後>
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【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<1>
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【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<2>
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【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<3>
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