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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

わが内なる原発体制

2011年04月30日 | フクシマ原発震災
 ▼ わが内なる原発体制
鎌田 慧(ルポライター)

 福島原発が放射能を放出しつづけている。その陸側の集落には、津波に呑み込まれた遺体が放置されたままだ。亡くなった数百のひとびとが、建物の下敷きになり、雨に打たれ、放射能をふくんだ風に曝されている。その壮絶な光景を、わたしは想像できなかった。
 「毒まんじゅう」と「モルヒネ」

 しかし、津波が原発に襲いかかるのは、「想定内」だった。海水が去って海底があらわれる。取水口がむなしく露呈して、原子炉が空だきになる。あるいは震動によって配管が破断され、緊急炉心冷却システム(ECCS)が作動せず、炉心が溶融する。
 今回は外部からの電源が切れたあと、非常用発電機が、津波によって押し流された。さらに格納器の容量がちいさかったので、ガス放出弁をあけ、爆発を防ぐため炉内に充満したガスと放射性物質とを大気中に逃がした。
 チェルノブイリでは炉心が爆発、地球規模で放射能をまき散らしたが、住民の急性死亡はなかった。トラックで消防士や兵士が動員され、背中丸出しの人海戦術で、片付け作業をした。そのドキュメンタリー映画をみて、わたしはドキッとしたが、いま、彼らのうち、どれだけが生存しているのだろうか。
 爆発しそうな原子炉に、水を掛けつづけている。汚染された廃水が海に流され、海流に棲む魚に放射能が蓄積される。臨界と暴発を防ぐためにはたらかされている、数多くの下請け、孫請け労働者たちは、やがて被曝の後遺症で苦しむことになるであろう。
 それでも、わたしたちはかれらにむかって、「原発にいくな」とは叫ばない。だれかが、家族以外のだれかが、原発の暴走を食い止めなければならないのを知っているからだ。原発が放射能を吐きつづけ、ひとびとは避難区域の境界線にたたずむ。その地域はさらにひろがり、遺体は見棄てられたままだ。
 余震が続いている。恐怖が強まっている。地震の活動期にはいったようだ。原発は地震と両立しない、といい、直下型の「東海地震」とその活断層のうえにある浜岡原発の破綻を指摘しながら、原発建設を止める行動に全力をあげなかった。
 いま、余震のたびにテレビは、原発は「異常なし」とつたえる。宮城県の女川原発、青森県の東通原発、六ヶ所村再処理工場もいまのところは、「異常なし」である。しかしそれは、ギリギリのところでの「異常なし」なのだ。いままで、音をたてることもなく、忘れられていた原発の動静が、ようやく心配されるようになった
 すでに被害は大きい。遠く離れても、野菜と牛乳が侵され、水と空気と土とが汚染されている。住民は故郷には帰れず原発暴走の危機はまだまだつづく。
 原発を動かしてきたのは、カネだった。カネ以外に、理想や夢や哲学が語られることはなかった。地域にどれだけのカネが落ちるか、それが受け入れの条件だった。農地も漁場も買収された。電力会社と国と県とが、カネにあかして原発の恐怖を圧し潰した。これほどカネまみれの事業はない。電源三法による「原発立地交付金」、周辺には「周辺立地交付金」、政府と電力の「毒まんじゅう」であり、モルヒネ注射。いったん引き受けると、「毒を食らわば皿までも」と増設に期待した
 自治体の選挙には、電力とゼネコンとが一体となって、自民党の原発容認候補を推した。電力総連、電機連合、基幹労連などの関連産業の労組が原発推進、ナショナルセンター・連合も原発賛成、その支持政党の民主党も大賛成、与野党癒着、原発翼賛体制が恐怖の原発社会をつくった。
 村や町や市の首長たちに、「安全だと思うのですか」と尋ねると、みなおなじように、「国が安全だ、といっています」と澄ました顔だった。マニュアルに書いてあるような言い方だった、というようなことを、わたしは原発地帯をまわって書いてきた。
 「ある日、テレビが金切声をあげる。『○○原発に重大事故が発生しました。全員退避して下さい』が、光も、音も、臭いも、なにもない。見えない放射能だけが確実にあなたを襲う」
  (『ガラスの檻の中で』、一九七七年刊)

 「ある鉄鋼メーカーは、その労働条件の劣悪さから、『カネと命の交換(鋼管)会社』といい伝えられてきた。というなら、原発は、その極限である。すべてをカネによって測る価値観がひろがることが、放射能汚染のように恐ろしい。『カネは一代、放射能は末代』である」
  (『日本の原発地帯』、一九八二年刊)

 「いまのわたしの最大の関心事は、大事故が発生する前に、日本が原発からの撤退を完了しているかどうか。つまり、すべての原発が休止するまでに、大事故に遭わないですむかどうかである。大事故が発生してから、やはり原発はやめよう、というのでは、あたかも二度も原爆を落とされてから、ようやく敗戦を認めたのとおなじ最悪の選択である
  (『原発列島を行く』、二〇〇一年刊)

 「なぜ、電力会社を信用できないのか。彼らは『事故などありえない』といいつづけるしかない宿命にあるからだ。というのも、原発にたいする反対論の中心は、原発はかならず事故を引き起こす、というものだから、それへの反論は『事故など絶対にありえない』という非科学的なものにならざるをえない」
  (本誌二〇〇四年八月二七日号)
 大事故が発生して、政府は「緊急事態宣言」をだしながらも、まだ未練がましく、「繰り返しますが、放射能が現に施設の外に漏れている状態ではありません。落ち着いて情報を得るようにお願いします」と強弁、被曝者を大量に発生させた。
 新聞は「今回の地震では、心臓部である原子炉に損傷が見つかっておらず放射能漏れも認められていない」(『朝日新聞』三月一二日朝刊)と東京電力の大本営発表を垂れ流した。監督官庁の経産省、原子力安全・保安院は、原発推進の国策を祀る「護国神社」にすぎない。
 総力戦だった原発推進

 原発戦争の戦犯ともいえる、日本原子力技術協会の石川迪夫最高顧問は、原子炉建屋が水素爆発で破壊され、大量の放射能が、大気中と海中に流出していた三月二五日におよんでも、記者会見で「福島原発収束の方向」(『毎日新聞』)といい張っている。
 勝俣恒久・東電会長と清水正孝社長は、原子炉への海水注入の遅れなどについても、「対応にまずさを感じていない」と突っ張っている。「原発は絶対安全」といってきた手前、なにがあっても認めない。日本は絶対負けない、という「神風神話」である。これだけの人間と社会と子どもの未来に打撃を与えてなお、人間的な反省の言葉はない。
 一九五四年、アメリカ政府の招待旅行から帰ってきた中曽根康弘代議士は、早速、ウラン235をもじった原発予算を提案、公安警察出身のメディア王・正力松太郎ともども、原発推進のラッパを吹き、与野党政治家、官僚、電力会社、財界、学者、裁判官、マスコミ一丸の総力戦となった。
 原発反対派は、かつての戦争反対派のように、弾圧され投獄されたわけではない(佐藤栄佐久・前福島県知事の例もあるが)。が、対決のこころが弱かった。行動がたりなかった。拒否の思想と行動、切迫感が弱かった。
 大量の被曝者と故郷喪失者、生業を喪った農漁民、これから発生する未来の被曝者たちから、批判されることになるであろう。原発反対といいながらも、いつしかその原発体制のなかで生きていることを、忘れていたのだ。
『週刊金曜日』(2011.4.26【臨時増刊号】)

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