● どうなってるんだ大阪地裁!
~内藤判決の耐えられない軽さ~
大阪地裁第5民事部内藤裕之裁判長による7月6日「平成26年(行ウ)第7号給与減額処分取消等請求事件」(府立学校教員辻谷さんが、卒業式「君が代」斉唱時不起立による減給処分取消を求めた訴訟)判決には根本的な欠陥がある。
それは同じ内藤裁判長による「平成25年(行ウ)第196号給与等減額処分取消等請求事件」(奥野さんが減給処分取消を求めた訴訟)の判決(昨年12月21日)に共通するものだ。
奥野裁判判決は判決としての最低限の作業がなされていない。
・事実の認定を誤っている(出されていない職務命令に「違反」した)、
・事実によらない憶測で判断している(「秩序や雰囲気を積極的に損なうような行為に積極的に及んだ」)、
・最高裁判例(「君が代不起立」で戒告を超える処分は不可)を参照していない、等
枝葉のことながら、誤記が多いのも奥野裁判判決文の特徴で、杜撰さの表れだろう。
被告主張として「(国歌の起立斉唱は)誤った知識や一方的な観念を子どもに受けつけるような内容の教育を強制的に施すためでなく・・」(「植え付けるような」のこと)としたり、
「府国旗国歌条例は,・・・・国際社会の平和と発展に寄与する態度の滋養及び・・」とわけのわからない言葉(「慈養」の誤字か)を用いたりするなど、
この判決の分析に関わる講演のなかで、憲法学者T氏が思わず「どうなっているんだろう大阪地裁!」と漏らされた程のものである。
さて、今回の辻谷裁判判決、奥野裁判判決文から一語違わず(誤記も含めて)「使い回し」をしている部分が見られたりするが、最低限の作業を怠っている点で、同じ根本的欠陥を持っている。
決定的な間違いは、「前提となる事実(争いがない事実及び後掲証拠等により容易に認められる事実)」として、「原告は、本件戒告処分を不服として、平成24年6月、大阪府人事委員会に不服審査を行ったが、同委員会は本件戒告処分を承認するとの裁決を行ったため、当庁に戒告処分取消請求訴訟を提起している(弁論の全趣旨)。」と記述していることだ。
ところが!
原告が申し立てた当該事案は、人事委員会において「裁決が行われた」どころか、今現在も審理が継続中であり、さる8月24日には本人尋問が行われたところなのだ。
一般に、原告なり被告なりが、弁論や証拠をもって事実と主張したことが、事実として認定されない、ということはあり得る。しかし、内藤判決は、そのような「争われている事実」ではなく、「争いのない事実」において、でたらめな記述をしているわけである。
もっとも、どんな事実認定の誤りがあっても結論は変わらないかもしれない。
なぜなら、内藤判決は事実の認定と無関係に結論を書いているからだ。(これが内藤判決の根本的な問題)。
奥野裁判においては、事実認定として「積極的に式典の進行を妨害したものではない」とし、評価では「秩序や雰囲気を積極的に損なうような行為に積極的に及んだ」としている。
辻谷裁判においては、何の証拠にも基づかずに、「原告が自らの世界観ないし価値観を優先させた」という認定をする。
つまり、事実や証拠に基づいて判断を導くのではなく、まあこんなもんだろうと軽い調子で、あらかじめ想定した結論を垂れ流しているだけなのだ。
しかし、そんなものは「判決」といえるのか?
辻谷控訴理由書から引く。
- このような証拠に基づかない杜撰な事実認定は,原判決の重大な欠陥である。
日本国憲法が保障する三権分立のもと,司法裁判所による判断が立法権にも行政権にも優越する終局的な判断であるとされている。そして司法裁判所の判断に対する社会的信用は,裁判官が事実については証拠に基づいて客観的にこれを認定し,法律の適用については日本国憲法と自身の良心にのみ従ってこれをなすという,判断過程の公正さにより担保されている。
ところが本件の原判決は,法の適用の前提となる事実認定において,証拠に基づかない杜撰な事実認定をするものであり,司法裁判所の判断に対する社会的信頼をも毀損するものである。 -
本日(9月14日)地裁809法廷で、奥野さんや辻谷さんを含む7名が戒告処分取消を求めた共同訴訟第6回審理が内藤裁判長の下に開かれます。
三たび内藤裁判長が杜撰な誤りを繰り返すことがないよう、審理を注視して行くことを裁判所内外の方々に訴えるものです。
~内藤判決の耐えられない軽さ~
大阪地裁第5民事部内藤裕之裁判長による7月6日「平成26年(行ウ)第7号給与減額処分取消等請求事件」(府立学校教員辻谷さんが、卒業式「君が代」斉唱時不起立による減給処分取消を求めた訴訟)判決には根本的な欠陥がある。
それは同じ内藤裁判長による「平成25年(行ウ)第196号給与等減額処分取消等請求事件」(奥野さんが減給処分取消を求めた訴訟)の判決(昨年12月21日)に共通するものだ。
奥野裁判判決は判決としての最低限の作業がなされていない。
・事実の認定を誤っている(出されていない職務命令に「違反」した)、
・事実によらない憶測で判断している(「秩序や雰囲気を積極的に損なうような行為に積極的に及んだ」)、
・最高裁判例(「君が代不起立」で戒告を超える処分は不可)を参照していない、等
枝葉のことながら、誤記が多いのも奥野裁判判決文の特徴で、杜撰さの表れだろう。
被告主張として「(国歌の起立斉唱は)誤った知識や一方的な観念を子どもに受けつけるような内容の教育を強制的に施すためでなく・・」(「植え付けるような」のこと)としたり、
「府国旗国歌条例は,・・・・国際社会の平和と発展に寄与する態度の滋養及び・・」とわけのわからない言葉(「慈養」の誤字か)を用いたりするなど、
この判決の分析に関わる講演のなかで、憲法学者T氏が思わず「どうなっているんだろう大阪地裁!」と漏らされた程のものである。
さて、今回の辻谷裁判判決、奥野裁判判決文から一語違わず(誤記も含めて)「使い回し」をしている部分が見られたりするが、最低限の作業を怠っている点で、同じ根本的欠陥を持っている。
決定的な間違いは、「前提となる事実(争いがない事実及び後掲証拠等により容易に認められる事実)」として、「原告は、本件戒告処分を不服として、平成24年6月、大阪府人事委員会に不服審査を行ったが、同委員会は本件戒告処分を承認するとの裁決を行ったため、当庁に戒告処分取消請求訴訟を提起している(弁論の全趣旨)。」と記述していることだ。
ところが!
原告が申し立てた当該事案は、人事委員会において「裁決が行われた」どころか、今現在も審理が継続中であり、さる8月24日には本人尋問が行われたところなのだ。
一般に、原告なり被告なりが、弁論や証拠をもって事実と主張したことが、事実として認定されない、ということはあり得る。しかし、内藤判決は、そのような「争われている事実」ではなく、「争いのない事実」において、でたらめな記述をしているわけである。
もっとも、どんな事実認定の誤りがあっても結論は変わらないかもしれない。
なぜなら、内藤判決は事実の認定と無関係に結論を書いているからだ。(これが内藤判決の根本的な問題)。
奥野裁判においては、事実認定として「積極的に式典の進行を妨害したものではない」とし、評価では「秩序や雰囲気を積極的に損なうような行為に積極的に及んだ」としている。
辻谷裁判においては、何の証拠にも基づかずに、「原告が自らの世界観ないし価値観を優先させた」という認定をする。
つまり、事実や証拠に基づいて判断を導くのではなく、まあこんなもんだろうと軽い調子で、あらかじめ想定した結論を垂れ流しているだけなのだ。
しかし、そんなものは「判決」といえるのか?
辻谷控訴理由書から引く。
- このような証拠に基づかない杜撰な事実認定は,原判決の重大な欠陥である。
日本国憲法が保障する三権分立のもと,司法裁判所による判断が立法権にも行政権にも優越する終局的な判断であるとされている。そして司法裁判所の判断に対する社会的信用は,裁判官が事実については証拠に基づいて客観的にこれを認定し,法律の適用については日本国憲法と自身の良心にのみ従ってこれをなすという,判断過程の公正さにより担保されている。
ところが本件の原判決は,法の適用の前提となる事実認定において,証拠に基づかない杜撰な事実認定をするものであり,司法裁判所の判断に対する社会的信頼をも毀損するものである。 -
本日(9月14日)地裁809法廷で、奥野さんや辻谷さんを含む7名が戒告処分取消を求めた共同訴訟第6回審理が内藤裁判長の下に開かれます。
三たび内藤裁判長が杜撰な誤りを繰り返すことがないよう、審理を注視して行くことを裁判所内外の方々に訴えるものです。
2016年9月14日
教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク
「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク
教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク
「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク
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