パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

☆ 沖縄戦で徹底抗戦を煽り住民を戦火にさらした島田叡沖縄県知事

2024年10月16日 | 平和憲法

  《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
 ☆ 戦場動員を推進した沖縄県知事を賛美する教科書

林 博史(はやしひろふみ・関東学院大学名誉教授)

 ☆ 島田知事から県民への最後の呼びかけ

米兵を殺せ もし敵に捕まれば、最後には殺される。
敵は、男も女もみな殺してきた。竹槍や鍬を使ってでも米兵を殺せ。
それ以外に生き残る道はない。敵は日本の竹槍を恐れている。
サイパンや中頭地区において、敵は飴やタバコを分け与えて人々の歓心を買い、
われわれを十分に利用したうえで、人々はみな殺された。
沖縄県民は騙されるな。最後まで抵抗し、敵を殺せ。

 この言葉は、1945年5月下旬、日本軍の南部撤退にあたって島田叡沖縄県知事が県民に対して出した最後の呼びかけの一節である。当時、壕内で印刷されていた新聞『沖縄新報』に掲載されて配られた。
 この時点では沖縄本島中部で多くの住民が米軍に保護されているという情報が伝わっており、米軍に捕まれば残虐な扱いを受け殺されるという軍や県の宣伝が揺らいでいた。そこで島田知事は、民間人は米軍に利用されたうえで最後には殺されるのだから、竹槍でも何でも武器にして最後まで戦って米兵を殺せと煽ったのである。

 島田が知事に着任して最初に県民に対して発した諭告(1945年2月21日)において「県民総武装」を宣言していた。
 米軍が上陸した直後の4月6日には諭告第2号を出して、「竹槍のけいこをせよ」、竹槍のない者はほかの武器で戦うように訓示した。
 4月27日には南部の市町村長や警察署長を集めて開いた会議で、知事と荒井退造警察部長がそろって指示と訓示をおこない「敵はわれわれを皆殺しするものと心得」えよと米軍への恐怖心を煽り、「われわれは本当の意味で敵がい心を燃やし米兵と顔を合はす時が来たら必ず打殺さう」と煽った。
 これらの諭告や訓示は『沖縄新報』に掲載され、県職員や警察官、学徒隊員などがその新聞を持って壕に出向いてそこに避難している人々に読み上げ広く普及させた。

 ☆ 『沖縄県知事島田叡と沖縄戦』刊行のきっかけ

 本年春、川満彰さんと共著で『沖縄県知事島田叡と沖縄戦』(沖縄タイムス社、1500円+税)を出版した。
 すでに育鵬社の中学校歴史教科書には、島田知事が県民に「生きろ」と励ましたという記載がなされていたが、2024年度から使用される日本文教出版の小学校社会科教科書では、「命は宝だ。生きぬけ」と島田が言ったという捏造された話が記載されるようになった。それだけでなく革新系の政党の議員や労働組合、市民の間にも2人の美化論を信じ込む人々がいることに危惧したからでもあった。
 もちろんその背景には、『生きろ島田叡』や『島守の塔』という島田と荒井を美化する映画が作られ、特に後者については沖縄タイムス社と琉球新報社をはじめ沖縄のメディアが製作委員会やメディアパートナーとして加担していることがある。
 島田と荒井が何を語り、何をしたのか、史料や証言に基づき事実を詳細に明らかにしようとしたのが同書であり、くわしい資料編も付けているのでぜひご覧いただきたい。

 

 ☆ 「根こそぎ動員」と表裏一体の疎開政策

 島田知事の一貫した政策はすでに紹介した「県民総武装」だった。彼が進めた北部(やんばる)疎開は軍の要請により、役に立たない者を排除する考え方に基づいて食糧のない北部の山中に人々を追いやりながら、米軍への恐怖心を煽り米軍に保護されることを許さず、かつ北部にも警察を送り込み、住民を監視し投降しないようにさせた(これを裏付ける警察文書も収録)。
 そのことによって多くの餓死、病死を生み出し、また日本軍による虐殺など残虐行為の犠牲になった。決して疎開させたから命が救われたと言えるようなものではなかったし、疎開は島田や荒井が考えた施策ではなく、軍が提唱して進められたものである。
 そうしたことは川満さんが詳細に論証しているのでお読みいただきたい。
 役に立たない者の疎開と、少しでも役に立つ者の「根こそぎ動員」は表裏一体の政策だった。中学生らの男子学徒は兵士として鉄血勤皇隊に動員されたが、県が編成して軍事訓練をおこない、その名簿を軍に提供し、それを使って軍が召集する覚書が軍と県との間で締結されていた(同書に全文収録)。

 

 ☆ 男女を問わない徹底した戦場動員一義勇隊

 それだけでなく、島田知事は兵士として召集できない男女を1945年2月に義勇隊に編成して動員した。内務省はそれを島田の「独創」として高く評価した。
 この義勇隊は竹槍やナタ、鎌など身近な武器を使って戦うことが最初から想定されて訓練がおこなわれ、そこに男女を問わず駆り出された。
 米軍が沖縄本島に上陸してからも、首里以南では壕内に役場が文書を持ち込んで、ガマごとに住民と避難民の名簿を作り、それを使って役場吏員や警察官、軍担当者らがガマを回って、防衛隊(軍人)や義勇隊に人々を駆り出していった。その業務は5月末の南部撤退まで続けられた。
 4月27日に開かれた市町村長警察署長会議は、南部にいた第24師団と独立混成第44旅団を中部戦線に進出させるうえで南部に保管していた物資を前線に運ぶ必要が出てきたために住民を動員する態勢を指示する会議だった。
 当時、警部だった山川泰邦は、これによって、「元気な男女は、洞くつからかり出され、『義勇隊』と称して鉄火の荒れ狂う山野を、弾薬や糧秣の運搬に従事……そのために砲爆撃により多数の住民が死んでいった」と証言している。
 この義勇隊は法的な根拠はまったくないもので、のちにこの経験が国民義勇戦闘隊(45年6月義勇兵役法制定)につながっていく。知事と警察部長は「県民総武装」を掲げて最後まで県民を戦闘に駆り出し続けた。
 前任の泉知事が軍と対立して戦場動員が進まなかったために、軍と「協調」して行政をおこなうために任命されたのが島田知事であり、彼は与えられた任務を最後まで忠実に果たし続けたのである。

 

 ☆ 社会運動の弾圧、中国侵略を推進した島田と荒井

 忘れてならないことは二人は内務省のキャリア官僚だったことである。二人の経歴を見ると警察畑を長く務めた警察官僚であり、特に荒井は警視庁で警察署長などを長く勤め、特高警察にも従事していた。社会運動を弾圧し、一般の庶民の言動までも監視し取り締っていた。
 侵略戦争をおこなうことは軍だけではできない。社会運動の弾圧、思想言論の統制、国民を地域から動員していくうえで内務省の役割は決定的だった。沖縄戦においても県民を戦場動員していくために県市町村や警察の役割は大きかった。

 戦後の日本社会では軍にだけ責任を押し付けて官僚たちは責任を逃れ、責任のあった内務官僚の多くは自民党の国会議員・閣僚になっていった。沖縄でも日本軍だけを悪者にすることによって、行政や警察の果たした役割には見て見ぬふりをしてきた(その中には多くの沖縄の官吏・警察官がいた)。沖縄戦の認識もそうした枠組みに沿ってとらえられてきた。

 私は『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)以来、そうした行政の責任を取り上げてきたが、その点は軽視されてきた。そうした沖縄戦認識の歪みが今の問題を生んでいるだろう。
 さらに、島田は上海で、荒井は「満州」で警察幹部として軍と一体となって中国の抗日運動や朝鮮の独立運動などを取り締まり、中国侵略を推進したことも指摘しておきたい(詳細は同書参照)。

 

 ☆ 公職にある者の責任

 島田は、南部撤退後、県庁機能が失われた後に、回りの個人的な知り合いに生きるように言ったことがいくつかの証言に残っている(ただし「命こそ宝」と言ったという証言はない)。しかしその言葉を聞いた人は何人いるだろうか。一桁かせいぜい二桁程度だろう
 島田は知事として県民に対して米軍に捕まると残忍に殺されると恐怖心を煽り、竹槍でもなんでも武器を持って米兵を殺せ、戦えと一貫して煽動し続けた。知事の諭告・訓示は新聞に掲載され吏員や警察官などによって人々に徹底されていった。その人々は少なくとも何万人にも及ぶだろう。

 公職にある者や教員が、みんなには国のために命を捧げよ、武器を取って戦えと煽動していながら、身近な知り合いにはこっそりと早く逃げなさいと言ったとしよう。その人物をどう評価するだろうか。立派な人だった、いい人だったと誉めるのだろうか。

 

 ☆ 沖縄を自分たちの癒しの対象にしてはならない

 沖縄は本土の人々の癒しの対象として消費されている。沖縄戦も自分たちは平和でよかったと確認する材料にされてしまっているのではないか。特に郷里の出身者が沖縄の人々の命を救ったという物語ほど心地よいものはない。
 「命どう宝」という言葉は、沖縄の人々が米軍の圧政と、日本軍を正当化しようとする日本政府への抗議を通じて1980年代ごろから獲得し広まっていた言葉であり思想である。
 それを国家官僚が沖縄の人々に与えた言葉であるかのように逆転させる物語は(それを安易に受け入れるような者も)、沖縄の人々の苦難と努力を財め、踏みにじるものでしかない。

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 157号』(2024.8)


コメント    この記事についてブログを書く
«  ★ 『犯罪報道の犯罪』40年... | トップ | ☆ 朝雲紙、自衛隊の外国軍と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

平和憲法」カテゴリの最新記事