《10・1 東京「君が代」裁判第3次訴訟原告意見陳述》
◎ 早く卒業式を養護学校に返して欲しい

1,養謹学校に勤務して
私は1979年、中学校理科の教員として入都し、養護学校へ配属されました。勤め始めは早く中学校へ移ろうと思う教員でしたが、眼前で壮絶な闘病の果てに亡くなる子どもたち、ウソ偽りなく直裁にとびこんでくる子どもたちと接するうちに、教育の根源は生命の燃焼のお手伝いだと悟り、なによりもおもしろさにひかれ、30年余、養護学校、特に肢体不自由学校で働いてきました。
2,大切にしてきたもの
この年月の中で私は、子どもたちの成長と人生には自我を育てること、他者との関係を深めること、自ら決定権をもつことがとても大切である、と考え、関わってきました。
‘07年に出会ったAさんは、気道閉塞のため、呼吸介助、姿勢転換を頻繁に必要とし、鼻腔にチューブを留置し栄養補給していました。私も栄養注入の医療的ケアを行ないました。保護者はA君の側から片時も離れず、A君の生活は母親と一体化していました。
どんな小さなことでもよい、Aさんが自分で決めて何かをやる、自分独自の時間がもてないか。私は車椅子に幼児用の車を連結し、手元スイッチを押すと前進するというしかけを作りました。
偶然に手がスイッチに触れ、車椅子が動いた時、Aさんは何事がおきたのかとボウ然としていました。偶然にスイッチを押す瞬間を気長に待ち、くりかえしていく内に、Aさんは自分が押すと進むらしいとわかり、これを境に、自分からスイッチを探して押し、嬉々として前進するようになりました。
生まれて初めて自分で移動できたことの喜び、行為の主人公になったことの喜びだったと思います。
「この子は渡辺先生にはよくしゃべる(発声のみ)」と母親に信頼が芽生え、一定時間教室から離れてくれるようになり、Aさん独自の世界が立ち上がってきました。
‘09年に受けもったBさんは気持ちと関係なく首振りや手足のばたつきがあり、5cmと離れていない目の前の呼びかけに気づくことが難しい、という生徒でした。
私は、ツリーチャイムという楽器でコミュニケーションをとろうと考え、歌いかけながら至近距離に差し出す取り組みをしました。
はじめは、バタつく手足や頭で、偶然に音が鳴っただけのことでしたが、私はその音を、かえってきた音のボールだととらえ、再び私の歌や音で、投げ返しました。
これを気長に、相手のペースにあわせて繰り返していくうちに、Bさんは私の音を待つ、早く音を鳴らせと要求するしぐさをするようになる、ついには音を交互に鳴らす、いわば音を通したやり取りの関係が芽生えてきたのです。すばらしい成長でした。
自我、他者性、そして決定権を大切にすることは誰にとっても大変重要なのです。私の毎日は、こうした1mmを1年かけて歩くものであったり、夭折のため、共有する時間がとてつもなく大切なものであったりしています.
3,卒業式の工夫
卒業式は以上述べた、毎日の授業の延長であり、ともに過ごした時間を慈しみ、生徒の新たな出発を祝う最後の授業です。
自分で車椅子で活動するため、フロア形式にしましたし、安全面・一体感・見やすさから考えた対面方式、証書台の中央設置、鉢植え花での導線誘導など、卒業生の実情に合わせ一番よい流れを、会場図を創りました。
各学校、年度ごとに違って当たり前のものでした。
4.10・23通達による破壊
ところが10・23通達は、そうして積み上げてきた卒業式を破壊しました。壇上使用しなければならない、「日の丸」に正対して終わらなければならないなど、教育委員会が細部にわたって決めたとおりの式しかしてはならないことになり、一人一人にそった卒業式はくだかれました。
そればかりか、教員を起立させることに躍起となった校長たちは、生徒の人権を侵害してはばかりません。
城北養護学校では、生徒の人工呼吸器の緊急音が鳴り、処置しようとかがみこんだ保健室スタッフにあろうことか、副校長は起立を命じました。
また、生徒間のケンカの仲裁に入ったところ、副校長は教員に動かず起立し続けろと叱責しました。
大泉養護学校では、予行時にトイレサインを出した生徒を教員がトイレへ連れ出したところ、本番では出ないようオムツをつけうと副校長が命じました。
教員への起立強要のかげで、生徒の生命、安全、生理現象等々が侵害されているのです。
南大沢学園養護学校では、すわる可能性のあった生徒の側に主任教諭を配置し、後ろから両手で支えるようにして立たせました。このことは当時の副校長が人事委員会で証言しました。
国旗国歌法制定の際の「尊重義務」がはずされ、「強制するものではない」とくりかえされた政府高官発言が、わずか4年後、東京で捨てられました。
思想良心の自由の権利が侵され、生徒たちが安心して自分にあった教育を受ける権利が奪われたのです。
5.不起立への思い
10・23通達が職員会議で読み上げられた時、反対意見が続出し、誰一人賛成する者はいませんでした。
教員ならば車椅子の生徒に壇上しか使わせないなどという都教委の指導に賛成できるはずがありません。
しかし教員の反対を抑え、服従させるために「職務命令書」が出されました。これに反すれば処分され、履歴にのり、人事考課・異動にひびき、経済的不利益、担任や校務分掌で差別されるのです。
誰にも強い葛藤が起きました。この年、東京都の教職員の精神疾患数が1.5倍に急増しました。
私も不起立すれば、ビデオで撮る、式進行を中断する、右翼の街宣車が学校を取り巻く、警察を導入する等、管理職から全職員の前で数々脅かされ、強い動揺・葛藤が生じました。
しかし、これまでの人生や家族の歴史、教育信念から、自分を偽れない、何があっても正直に生きるしかないと決断し、起つことはできませんでした。
‘07年は難波判決を得たこと、‘09年はBさんたちの卒業年時であり、離れて暮らす両親が無理をして出席されること、関係のうすい教員のサポートではBさんは充分自分を発揮できないだろうことなどを考え、停職3ヶ月処分の予想される中、悩みぬいた末、式場に入りました。
毎年毎年、山ほどの迷いと悩みを抱え、決断してきました。
私は訴えたいです。
早く卒業式を学校に返して欲しい。
「日の丸・君が代」の強制が障がい児の権利侵害、生徒、教職員の権利侵害に帰結している事実を、些細なことと切り捨てず、重大な問題として認識し、一刻も早く私たちの教育の自由、思想良心の自由の権利を回復してほしい。
思想統制の愚を再び繰り返さないよう、国家の側に価値中立義務があることを明確にしてください。
以上
◎ 早く卒業式を養護学校に返して欲しい
原告 渡辺厚子

1,養謹学校に勤務して
私は1979年、中学校理科の教員として入都し、養護学校へ配属されました。勤め始めは早く中学校へ移ろうと思う教員でしたが、眼前で壮絶な闘病の果てに亡くなる子どもたち、ウソ偽りなく直裁にとびこんでくる子どもたちと接するうちに、教育の根源は生命の燃焼のお手伝いだと悟り、なによりもおもしろさにひかれ、30年余、養護学校、特に肢体不自由学校で働いてきました。
2,大切にしてきたもの
この年月の中で私は、子どもたちの成長と人生には自我を育てること、他者との関係を深めること、自ら決定権をもつことがとても大切である、と考え、関わってきました。
‘07年に出会ったAさんは、気道閉塞のため、呼吸介助、姿勢転換を頻繁に必要とし、鼻腔にチューブを留置し栄養補給していました。私も栄養注入の医療的ケアを行ないました。保護者はA君の側から片時も離れず、A君の生活は母親と一体化していました。
どんな小さなことでもよい、Aさんが自分で決めて何かをやる、自分独自の時間がもてないか。私は車椅子に幼児用の車を連結し、手元スイッチを押すと前進するというしかけを作りました。
偶然に手がスイッチに触れ、車椅子が動いた時、Aさんは何事がおきたのかとボウ然としていました。偶然にスイッチを押す瞬間を気長に待ち、くりかえしていく内に、Aさんは自分が押すと進むらしいとわかり、これを境に、自分からスイッチを探して押し、嬉々として前進するようになりました。
生まれて初めて自分で移動できたことの喜び、行為の主人公になったことの喜びだったと思います。
「この子は渡辺先生にはよくしゃべる(発声のみ)」と母親に信頼が芽生え、一定時間教室から離れてくれるようになり、Aさん独自の世界が立ち上がってきました。
‘09年に受けもったBさんは気持ちと関係なく首振りや手足のばたつきがあり、5cmと離れていない目の前の呼びかけに気づくことが難しい、という生徒でした。
私は、ツリーチャイムという楽器でコミュニケーションをとろうと考え、歌いかけながら至近距離に差し出す取り組みをしました。
はじめは、バタつく手足や頭で、偶然に音が鳴っただけのことでしたが、私はその音を、かえってきた音のボールだととらえ、再び私の歌や音で、投げ返しました。
これを気長に、相手のペースにあわせて繰り返していくうちに、Bさんは私の音を待つ、早く音を鳴らせと要求するしぐさをするようになる、ついには音を交互に鳴らす、いわば音を通したやり取りの関係が芽生えてきたのです。すばらしい成長でした。
自我、他者性、そして決定権を大切にすることは誰にとっても大変重要なのです。私の毎日は、こうした1mmを1年かけて歩くものであったり、夭折のため、共有する時間がとてつもなく大切なものであったりしています.
3,卒業式の工夫
卒業式は以上述べた、毎日の授業の延長であり、ともに過ごした時間を慈しみ、生徒の新たな出発を祝う最後の授業です。
自分で車椅子で活動するため、フロア形式にしましたし、安全面・一体感・見やすさから考えた対面方式、証書台の中央設置、鉢植え花での導線誘導など、卒業生の実情に合わせ一番よい流れを、会場図を創りました。
各学校、年度ごとに違って当たり前のものでした。
4.10・23通達による破壊
ところが10・23通達は、そうして積み上げてきた卒業式を破壊しました。壇上使用しなければならない、「日の丸」に正対して終わらなければならないなど、教育委員会が細部にわたって決めたとおりの式しかしてはならないことになり、一人一人にそった卒業式はくだかれました。
そればかりか、教員を起立させることに躍起となった校長たちは、生徒の人権を侵害してはばかりません。
城北養護学校では、生徒の人工呼吸器の緊急音が鳴り、処置しようとかがみこんだ保健室スタッフにあろうことか、副校長は起立を命じました。
また、生徒間のケンカの仲裁に入ったところ、副校長は教員に動かず起立し続けろと叱責しました。
大泉養護学校では、予行時にトイレサインを出した生徒を教員がトイレへ連れ出したところ、本番では出ないようオムツをつけうと副校長が命じました。
教員への起立強要のかげで、生徒の生命、安全、生理現象等々が侵害されているのです。
南大沢学園養護学校では、すわる可能性のあった生徒の側に主任教諭を配置し、後ろから両手で支えるようにして立たせました。このことは当時の副校長が人事委員会で証言しました。
国旗国歌法制定の際の「尊重義務」がはずされ、「強制するものではない」とくりかえされた政府高官発言が、わずか4年後、東京で捨てられました。
思想良心の自由の権利が侵され、生徒たちが安心して自分にあった教育を受ける権利が奪われたのです。
5.不起立への思い
10・23通達が職員会議で読み上げられた時、反対意見が続出し、誰一人賛成する者はいませんでした。
教員ならば車椅子の生徒に壇上しか使わせないなどという都教委の指導に賛成できるはずがありません。
しかし教員の反対を抑え、服従させるために「職務命令書」が出されました。これに反すれば処分され、履歴にのり、人事考課・異動にひびき、経済的不利益、担任や校務分掌で差別されるのです。
誰にも強い葛藤が起きました。この年、東京都の教職員の精神疾患数が1.5倍に急増しました。
私も不起立すれば、ビデオで撮る、式進行を中断する、右翼の街宣車が学校を取り巻く、警察を導入する等、管理職から全職員の前で数々脅かされ、強い動揺・葛藤が生じました。
しかし、これまでの人生や家族の歴史、教育信念から、自分を偽れない、何があっても正直に生きるしかないと決断し、起つことはできませんでした。
‘07年は難波判決を得たこと、‘09年はBさんたちの卒業年時であり、離れて暮らす両親が無理をして出席されること、関係のうすい教員のサポートではBさんは充分自分を発揮できないだろうことなどを考え、停職3ヶ月処分の予想される中、悩みぬいた末、式場に入りました。
毎年毎年、山ほどの迷いと悩みを抱え、決断してきました。
私は訴えたいです。
早く卒業式を学校に返して欲しい。
「日の丸・君が代」の強制が障がい児の権利侵害、生徒、教職員の権利侵害に帰結している事実を、些細なことと切り捨てず、重大な問題として認識し、一刻も早く私たちの教育の自由、思想良心の自由の権利を回復してほしい。
思想統制の愚を再び繰り返さないよう、国家の側に価値中立義務があることを明確にしてください。
以上
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