《新勤評を許さない12・19全国集会 報告・資料》
◆ 大阪・新勤評反対訴訟 中田鑑定意見書<1>
第1.子どもの学習権保障の主体は誰か、そして、その主体との関係で校長の定める学校教育目標に個々の教員もしくは教員集団は従う義務があるか。
(1)子どもの学習権保障の主体は誰か
国民の教育を受ける権利は日本国憲法第二六条で保障されているところであり、とりわけライフステージの早い段階にある発達可能態としての子どもの学習権の保障は重要である、このことは学カテスト裁判最高裁判決(昭和四三年(あ)1614号、昭和五一年五月二一日)でも確認されているところである。
同判決は、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」としたうえで、「学校において現実に子どもの教育の任にあたる」者として教師を措定している。
そして、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることが要請される」としている。
学校教育は、子どもの学習権を保障するために、親の信託を受けて組織的に実施される集団的営為である。
学校教育法第37条でも教育をつかさどるのは主幹教諭・指導教論・教諭と定められており、子どもと直接の人格的接触を通じて学習権を保障する主体として教師が想定されていることは疑う余地がない。
(2)同学習権保障の主体者には教育に関しいかなる自由や権利が保障されるか
日本国政府も参加した特別政府間会議で1966年に採択されたILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」第61項は、学習権保障の主体である教師の職業上の自由として、「専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された教育課程基準の範囲で、教育当局の援助をうけて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである」とし、第六三項では「一切の視学、あるいは監督制度は、教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであってはならない」と規定している。
学カテスト裁判最高裁判決も「教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人絡的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度の自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない」としている。
同判決は、全国的に一定の水準を確保すべきという要請から、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることはしていないが、これは大綱的基準をも無視した無限定の自由を認めるわけではないということであって、教師の教育の自由を否定したものではない。
教育をつかさどるという教師として、職務権限に内在する制約に服するのはいうまでもないが、それは、教育行政機関や学校長によって定められた教育目標に従うことを要求するものではない。
職務権限に内在する制約とは、教育をつかさどる者として、教育の条埋に即して職務責任を遂行することを求めるものであって、教育公務員法制もこのような領域の固有性に即して解釈されるべきである。
教師が職業上の専門性を発揮し、子どもの個性に応じて弾力的な教育を行うには、不当な支配に服することなく、専門的自律性が発揮される環境が整えられねばならない。そこで、個々の学校や子どもに応じた教育内容と方法を研究する自由と、自らの専門性と研究成果に基づいた教授の自由が、教師の職務に由来する教育の自由として保障されねばならない。
(3)個々の教員は、校長の定める学校教育目標が子どもの学習権を保障するために不要な目標、もしくは、弊害のある目標と判断した場合、その事を理由として自己申告票を提出しないことができるか。
子どもの教育に直接責任を負うべく、教師が専門的自立性を発揮しながら集団的に決定するのが、教育条理に照らして妥当であるというのが教育法学の通説である。
本システムで検討されるべき学校教育目標とは、個々の教師が毎年度自己申告する個別目標を設定するうえで前提とされるべきとされているものの総体である。
それには、継続的に掲げられる一般的・抽象的な「学校教育目標」のみならず、毎年度初めに校長が提示する学校経営方針としての「本年度の重点課題」「学校運営の重点」を含むものと解される。
「校長は、校務をつかさどり、所属職貴を監督する」立場にあるが(学校教育法第三七条第四項)、子どもと直接接触し、第一次的に教育責任を負っているのは教諭を中心とした教師である。学校運営は直接的な教育活動ではないが、子どもの学習権保障のために行われるべきものである以上、それぞれの子どもの教育課題に基づいて方針化されねばならない。
学校全体の教育目標の設定過程において、学習権保障の主体であり、子どもの教育に直接責任を負っている教師が関与できなかったとすれば、その目標は専門的判断に担保されていないことになる。
現行の人事考課制度は教育活動を構成するというよりも教育行政制度おける構成員管理としての性格しかもちえず、その制度の枠内における自己申告票提出は、子どもの学習権保障と結ぴつくものではない。
子どもの*教育を受ける権利(学習権)の保障という観点からみれば、自己申告の提出は必要ないというべきである。
むしろ、自己申告票の提出に伴い、書類作成を含めた一連の業務が付加されることや、専門的自立性を阻害するような目標申告が事実上要請されることをみれば、単に教員の精神的苦痛というものではなく、子どもの学習権保障に直接責任を負う教師の教育活動を妨げることが懸念される。
なぜならば、*校長の専決事項というかたちで定められた学校経営方針にしたがった目標設定と自已申告票の提出が求められれば、それは*教師および教師集団の専門的自律性に基づく教育活動に対する不当な介入となりうるからである。
この点については形式論理でけなく、*実質的効果に照らして検討することが求められる。
(4)もしくは、教員自らの専門的知識・思想・信条から学校教育目標が教育の自由を侵害すると判断した場合、提出を拒否することは出来るか。
思想・信条の自由は日本国憲法第19条で保障されているところである。それは、子どもに直接対峙する教育過程で特定の思想・信条を教師が子どもに無限定におしつけてよいという意味ではないが、だからといって教師の市民的自由を制限してよいということにはからない。
教育が子どもの個性に応じて弾力的に行われるためには、自由な創意と工夫が反映されるような教育の自由が学校で保障されていることが必要である。自由のないところで自由を教えることはできないし、画一的な統制のもとでは個性に応じた教育はできず、子どもの個性をのばすこともできない。
教師の教育の自由が損なわれることは、子どもの学習権保障がおびやかされることでもある。したがって教育の自由が損なわれることがないかどうかみきわめるのも教師の職務にもとづいて求められている専門的判断である。
学校教育目標が教育の自由を侵害するとすれば、学校教育目標の内容自体が教育条理に反しているばかりでなく、システム全体が子どもの学習権保障に反する状態を生み出す裁量権の濫用を招く違法なものであると考えるととができる。
かかる状況において、学校教育目標の妥当性を判断し、教育の自由を侵害するような学校教育目標とそれにもとづく自己目標の設定・提出を拒否することは、教師の職務責任に照らして妥当な行為である。
(続)
『大阪・新勤評反対訴訟』
http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/index.html
◆ 大阪・新勤評反対訴訟 中田鑑定意見書<1>
一橋大学大学院社会学研究科准教授 中田康彦
第1.子どもの学習権保障の主体は誰か、そして、その主体との関係で校長の定める学校教育目標に個々の教員もしくは教員集団は従う義務があるか。
(1)子どもの学習権保障の主体は誰か
国民の教育を受ける権利は日本国憲法第二六条で保障されているところであり、とりわけライフステージの早い段階にある発達可能態としての子どもの学習権の保障は重要である、このことは学カテスト裁判最高裁判決(昭和四三年(あ)1614号、昭和五一年五月二一日)でも確認されているところである。
同判決は、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」としたうえで、「学校において現実に子どもの教育の任にあたる」者として教師を措定している。
そして、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることが要請される」としている。
学校教育は、子どもの学習権を保障するために、親の信託を受けて組織的に実施される集団的営為である。
学校教育法第37条でも教育をつかさどるのは主幹教諭・指導教論・教諭と定められており、子どもと直接の人格的接触を通じて学習権を保障する主体として教師が想定されていることは疑う余地がない。
(2)同学習権保障の主体者には教育に関しいかなる自由や権利が保障されるか
日本国政府も参加した特別政府間会議で1966年に採択されたILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」第61項は、学習権保障の主体である教師の職業上の自由として、「専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された教育課程基準の範囲で、教育当局の援助をうけて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである」とし、第六三項では「一切の視学、あるいは監督制度は、教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであってはならない」と規定している。
学カテスト裁判最高裁判決も「教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人絡的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度の自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない」としている。
同判決は、全国的に一定の水準を確保すべきという要請から、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることはしていないが、これは大綱的基準をも無視した無限定の自由を認めるわけではないということであって、教師の教育の自由を否定したものではない。
教育をつかさどるという教師として、職務権限に内在する制約に服するのはいうまでもないが、それは、教育行政機関や学校長によって定められた教育目標に従うことを要求するものではない。
職務権限に内在する制約とは、教育をつかさどる者として、教育の条埋に即して職務責任を遂行することを求めるものであって、教育公務員法制もこのような領域の固有性に即して解釈されるべきである。
教師が職業上の専門性を発揮し、子どもの個性に応じて弾力的な教育を行うには、不当な支配に服することなく、専門的自律性が発揮される環境が整えられねばならない。そこで、個々の学校や子どもに応じた教育内容と方法を研究する自由と、自らの専門性と研究成果に基づいた教授の自由が、教師の職務に由来する教育の自由として保障されねばならない。
(3)個々の教員は、校長の定める学校教育目標が子どもの学習権を保障するために不要な目標、もしくは、弊害のある目標と判断した場合、その事を理由として自己申告票を提出しないことができるか。
子どもの教育に直接責任を負うべく、教師が専門的自立性を発揮しながら集団的に決定するのが、教育条理に照らして妥当であるというのが教育法学の通説である。
本システムで検討されるべき学校教育目標とは、個々の教師が毎年度自己申告する個別目標を設定するうえで前提とされるべきとされているものの総体である。
それには、継続的に掲げられる一般的・抽象的な「学校教育目標」のみならず、毎年度初めに校長が提示する学校経営方針としての「本年度の重点課題」「学校運営の重点」を含むものと解される。
「校長は、校務をつかさどり、所属職貴を監督する」立場にあるが(学校教育法第三七条第四項)、子どもと直接接触し、第一次的に教育責任を負っているのは教諭を中心とした教師である。学校運営は直接的な教育活動ではないが、子どもの学習権保障のために行われるべきものである以上、それぞれの子どもの教育課題に基づいて方針化されねばならない。
学校全体の教育目標の設定過程において、学習権保障の主体であり、子どもの教育に直接責任を負っている教師が関与できなかったとすれば、その目標は専門的判断に担保されていないことになる。
現行の人事考課制度は教育活動を構成するというよりも教育行政制度おける構成員管理としての性格しかもちえず、その制度の枠内における自己申告票提出は、子どもの学習権保障と結ぴつくものではない。
子どもの*教育を受ける権利(学習権)の保障という観点からみれば、自己申告の提出は必要ないというべきである。
むしろ、自己申告票の提出に伴い、書類作成を含めた一連の業務が付加されることや、専門的自立性を阻害するような目標申告が事実上要請されることをみれば、単に教員の精神的苦痛というものではなく、子どもの学習権保障に直接責任を負う教師の教育活動を妨げることが懸念される。
なぜならば、*校長の専決事項というかたちで定められた学校経営方針にしたがった目標設定と自已申告票の提出が求められれば、それは*教師および教師集団の専門的自律性に基づく教育活動に対する不当な介入となりうるからである。
この点については形式論理でけなく、*実質的効果に照らして検討することが求められる。
(4)もしくは、教員自らの専門的知識・思想・信条から学校教育目標が教育の自由を侵害すると判断した場合、提出を拒否することは出来るか。
思想・信条の自由は日本国憲法第19条で保障されているところである。それは、子どもに直接対峙する教育過程で特定の思想・信条を教師が子どもに無限定におしつけてよいという意味ではないが、だからといって教師の市民的自由を制限してよいということにはからない。
教育が子どもの個性に応じて弾力的に行われるためには、自由な創意と工夫が反映されるような教育の自由が学校で保障されていることが必要である。自由のないところで自由を教えることはできないし、画一的な統制のもとでは個性に応じた教育はできず、子どもの個性をのばすこともできない。
教師の教育の自由が損なわれることは、子どもの学習権保障がおびやかされることでもある。したがって教育の自由が損なわれることがないかどうかみきわめるのも教師の職務にもとづいて求められている専門的判断である。
学校教育目標が教育の自由を侵害するとすれば、学校教育目標の内容自体が教育条理に反しているばかりでなく、システム全体が子どもの学習権保障に反する状態を生み出す裁量権の濫用を招く違法なものであると考えるととができる。
かかる状況において、学校教育目標の妥当性を判断し、教育の自由を侵害するような学校教育目標とそれにもとづく自己目標の設定・提出を拒否することは、教師の職務責任に照らして妥当な行為である。
(続)
『大阪・新勤評反対訴訟』
http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/index.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます