パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

★ 教科書をめぐる闘いの思い出

2024年05月27日 | 暴走する都教委と闘う仲間たち

  《子どもと教科書ネット21事務局通信》
★ <シリーズ・常任委員の自己紹介>
   外山理佳さん(2023年より)

 1984年に東京都八王子市で小学校の教員になってから40年たちました。3年目に教職員組合に加入し、八王子教組の青年部の活動に参加するようになりました。その後、東京教組青年部常任、青年部長、執行委員、書記次長、副委員長、執行委員長を務め、定年になるまでずっと組合役員を続けてきました。私の教員人生は組合とともにあったと言っても過言ではありません。
 その中で、教科書問題として大きかったのは、2005年の中学校教科書採択で、杉並区が扶桑社の『新しい歴史教科書』を採択したことです。
 当時の山田宏杉並区長は、2001年に「つくる会」の教科書を支持する二人を教育委員にしたものの、不採択になったので、扶桑社を支持しなかった教育長を辞めさせ、自分の側近を教育長にしました。教育の私物化を強引に押し進めたのです。
 それまで、教科書採択には教員の意見が反映されていました。実際に教科書を使って教えている教員が、様々な観点から使いやすい教科書を絞り込み、出された意見に基づいて、教育委員が採択していました。
 それが、文科省の方針により、教員の意見が反映されにくくなってきました。それでも教員が次年度の教科書を読んで、意見を出すやり方は続いていました。
 ところが、中学校社会科の教科書について社会科教員が書いた意見が、校長によって書き換えられる事件が起きたのです。扶桑社の教科書を採択したい教育委員会からの圧力があったのでしょう。
 書き換えられた2人の社会科教員は、杉並教組の組合員でした。杉並教組は記者会見を開き、教科書採択に関わる異常な事態を告発しました。私は当時、杉並教組ではありませんでしたが、堂々と記者会見をして、不正を告発した2人の組合員と、杉並教組の勇気に感動しました。
 しかしそのために、杉並教組は様々な圧力をかけられるようになりました。告発した組合員や杉並教組の役員も、次々に区外に異動させられました。杉並区教委の暗黒時代です。
 2005年の採択の時は、市民運動の方たちや教職員組合が駆けつけ、東京教組も杉並区庁舎の周りに結集しました
 しかし残念ながら、山田区長の思惑通り、杉並区は扶桑社の歴史教科書を採択しました。全国の区市町村で、「つくる会」の歴史教科書を採択したのは、2か所だけでした。
 現場の教員の意見も、歴史修正主義の教科書を批判する市民の声も、完全に無視した形で、山田区長の政治的な思想に基づいて行われた不当な採択でした。
 その後、杉並区の市民運動や、教職員組合等の地道なとりくみが実り、2011年にはようやく「つくる会」ではない教科書が採択されたのです。その瞬間は心底ほっとしました。
 その一方、今まで採択されていなかったのに、「つくる会」の教科書が採択された地域が出るなど、その後も「つくる会」教科書とのたたかいは続きました。

 もう一つ、教科書に関わる大きな出来事があります。
 私は青年部だった1994年から毎夏、東京教組のオキナワスタディツアーという沖縄現地学習会を、実行委員として実施してきました。
 沖縄は激しい地上戦と、日本全国の面積の0.6%しかない土地に70%の米軍基地が置かれている現状から、平和学習の教材がたくさんあるからです。30回近くのツアーで訪れるたびに様々なことを学びました。
 ひめゆり宮良るりさんや、宮城喜久子さん伊江島阿波根さん謝花さん渡嘉敷金城重明さん、南部の戦跡、ガマ、嘉手納基地、普天間基地、辺野古、高江、渡嘉敷島、座間味島、平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、ジェット機に突っ込まれた宮森小の方のお話、佐喜眞美術館などなど、多くの場所、多くの人から、たくさんのことを学びました。
 2007年8月に渡嘉敷島に行ったときのことです。2007年は、高校の歴史教科書から、「集団自決に日本軍が関与した」という記述が削除され、「集団自決が起きた」と書き換えられた年です。
 昼間は集団自決が起きた場所や慰霊碑などのフィールドワークをして、夜は、泊まったペンションのオーナーに紹介していただいた、元教育委員会の吉川嘉勝さんのお話を聞くことができました。吉川さんは、渡嘉敷の集団自決のことを、辛そうに語ってくれました。
 そして、「この話は初めて話す話です。地元の人たちの中でこういう話をすることはできない。」とおっしゃいました。集団自決という大変重い話ですが、教科書検定への怒りから話してくださったのだと思います。私たちは「凄い話を聞いてしまった。」と衝撃を受けました。
 しかし、更に驚いたのは、その年の9月に11万6000人が集まった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で、吉川さんが「集団自決」の発言をしたと知ったことです。あれほど話せないと言っていたのに、ご自身が体験した恐ろしい事実をなかったことにしようとしている動きへの憤りが発言を決断させたのだと思います。
 実は金城重明さんも、1994年にお話を聞いたときは、集団自決の話は避けて、一般的な沖縄戦や平和のお話をされました。けれど、やはり2007年から集団自決の辛い記憶を語り始めたのは、吉川さんと同じように、歴史修正主義への怒りだったと思います。
 振り返ってみれば、私にとって、この二つの出来事が、教科書問題に関心をもつきっかけになったのだと思います。記憶の暖昧なところもありますが、大筋は違っていないと思います。
 私自身、戦争の歴史を美化して、事実を修正しようとする動きは許すことができません。皆さんと共に、教科書問題にとりくみます。

『子どもと教科書ネット21 事務局通信』(2024年4月15日)


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