増田都子
今までもこの事件のフィールドワークの案内があったのに予定が入っていて行けなかったため、2月10日「福田村事件追悼慰霊碑保存会」代表の市川正廣さんを講師とする学習&フィールドワークを松戸市議の関根ジローさん(立憲)が企画されていることを知り、参加しました。
当日は関根さんがレンタカーを運転してくださって、松戸市役所前8:45集合、10時過ぎに福田公民館に到着。地図は辻野弥生さんの著書『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(以下『福田村事件』)P138からコピペし、追悼慰霊碑の位置は私が付け加えました。水神宮の「水」のあたりなので水の字のところに〇をしました。
午前中は、市川さんが用意された資料を基に学習。
追悼慰霊碑を実際に建立するまでには、たいへんご苦労があったようですが(後述)2003年、関東大震災80周年に写真のような黒御影石の高さ3メートルくらいの立派な追悼慰霊碑ができました。
市川さんは、この20年間で約3千人くらいの人を案内してらっしゃるそうです。1年間平均で150人くらい…でも、市川さんがおっしゃるには「埼玉県からの人が一番多くて、千葉県は残念ながら少ない」ということでした。これは、学校に置かれている人権担当教員加配にもよく表れているようで「埼玉県の場合は1校1名だけれども、千葉県はそうなっていない。置いている学校は少ない」と嘆かれました。
確かに、47都道府県の内、千葉県は未だに唯一、男女共同参画条例が無い県なのです(泣)…。それどころか、翌12日には松戸市民会館で女性学研究者の船橋邦子さんから「千葉県多様性条例成立で性差別はなくなるか」という講演を聞いたのですが、なんと、男女共同参画課が多様性社会推進課と変わった結果、多様性社会推進課の中の「男女共同参画室」と格下げになってしまったという始末(泣)…。
元へ戻ります。以下は市川さんの資料に入っていたポスターです。
『福田村事件』第3章「福田村の惨劇」扉絵(P111)にも紹介されていますが、当時の千葉県警が張り出していたもので「用心に被害なし」…市川さんは「最近の学生は『しな害被に心用』と読む」と笑ってらっしゃいました…として「不正行商人・浮浪人(今でいうホームレス)・押売を見たら『直ぐ警察署・駐在所・交番』に通報するように」というものです。
こういうものを千葉県の民衆が警察から日常的に意識下に植え込まれている中で、1923年(大正11年)9月1日、関東大震災という非常事態が出現しました。
日本政府内務省(警察を管轄)は海軍船橋送信所を通じて9月3日午前8時15分、日本全国(「各地方長官宛」)に「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」(みすず書房『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』P18)という電報が発信されたのです。
電信のメモには「此電報を伝騎に持たせやりしは二日の午後と記憶す」(同)とあります。
この送信所所長の大森良三大尉は…私は千葉県下、特に東葛地方の虐殺にはこの人物が一番、責任があるのではないか、と考えています…次々と入ってくる「ただ今、朝鮮人と交戦中」などとするデマをそのまま信じ込み、緊張ただならぬ戦場気分になり切って、以下のような言動をしていました(同P28)。
9月4日午後8:30
時間は不明なるも行徳方面に上陸せしものは先ず一時間以内に到着するものと思はざるべからず、然して西海神方面の敵に対しては右伝令の言の如く未上陸の裡に撃滅するは策の最上なるものなれども一方に衆敵を控へながら我は寡兵を以てして尚其中より守兵を割くが如きは到底出来得べき事にあらず、依って該方面の敵に対しては所在青年団、在郷軍人団等にて極力之を防禦し、力足らずんば止むを得ず両敵を迎ひ滋に戦はんと決心し、左の如く申渡せり。
『状況右の如くなれば、遺憾ながら兵力の分派に応じ難し、願くば諸君の最良なる手段と報国的精神とにより該敵の殲滅に努められ度し』と。
驚くべき無線電信所長の陳述(同P33~35)元出典は「法律新聞 大正12年11月20日」
本紙は曩に大正十二年九月二十七日の東京区裁判所法廷にて見聞したる事実を根拠として、政略に超然たる独立の裁判所は、朝鮮人に関する虚偽風説の出所に付徹底せる証拠調を断行すべき旨論じて置いたが、去十四日の報知紙上に左の如き記事を見るを得た、該記事に現はれたる事実以外如何に多くの事実が存在せるか計り知られざるべしと思はるゝが政府はこれに対して如何なる責任を負はんとするか。
十二日千葉地方裁判所で聞かれた千葉県東葛飾郡法典村自警団の鮮人十六名殺し騒擾殺人事件の公判…。
無電所長大森良三調書
当時日本の通信機関としては船橋送信所は最も大切であるから襲撃されては大変と思つた、それから東京の放火は鮮人学生が爆弾を投げ六七人の労働者がビールピンに石油を入れて投げ歩いて居るのを取押へることが出来ないといふのを聞き、漸次こちらへ来るといふのが確実の様に思はれ兵力で警備せねばならぬので市川旅団司令部へ口頭で申込み大久保衛戍司令官三好少将の処へ添書を寄せて二十人の騎兵を寄越して貰った、送信所の近くには北総鉄道工事に従事して居る朝鮮人が数百入居るといひまた東京の暴徒と北総鉄道に居るこれ等鮮人とは連絡があるといふ事を聞き通信が絶えたので私は独立指揮官として警備に当り警祭にこれ等鮮人の検束をして貰はねばならぬと考へました。
(中略)
△朝鮮人の襲来に対する警戒方法は如何
△私は事態急と存じたから海軍省に無電と文書とで出兵方を再三問ふたのですが、何等返信なく漸く習志野騎兵旅団司令部に使を出して、二一日二十名出兵するとの通知をうけたが、兵力不足で不可能となり、塚田村長に交渉し、青年団在郷軍人団の応援を得て警戒した。
三日午後五六時頃集った村民に対し、
(一) 朝鮮人暴動に対する一般状況並に送信所の任務の重要なること。
(二) 同夜送信所襲撃の目的を以て来る朝鮮人は殺しても差支へなく自分が責任を負ふこと。
(三) 味方識別暗号として船と橋と定めまた白木綿を以てたすきを掛けしめ。
(四) 味方の配備。
(五) 敵襲に対する訓示をしました。
と述べ尚対質訊問に入り、
(中略)
△右三人(法典村の村民)が正門の処で所長と面会し鮮人と認めたら殺してもよいと所長がいったと申立てるが如何
△三日四日は正門の処で響戒の指揮をして居たから同人等に会ったかと思はれますが絶対に殺してもよいとはいふ筈がなく私はその人達は塚田のものが警戒に来てくれたものと思ひ先刻述べた通りに襲撃して来る鮮人は殺してもよいといった。//
当時の日本人にとって軍隊の偉い人が言うことは絶対だったでしょう。「鮮人と認めたら殺してもよいと(海軍船橋送信所の)所長がいった」という話は今のSNSと同じくらいの速度で東葛地方の各自警団に伝わっていったのではないでしょうか。
そこに不運にも香川から来ていた女・子ども連れの15人の売薬行商団の人達が、9月6日、利根川を渡って茨城県にいこうとして、野田から渡船場がある福田村に入っていたのでした。
この写真のあたりに「三ツ堀の渡し」があったそうです。対岸は茨城県。何事もなく渡れていたならば…。
しかし、一度に大八車と団員全部を運んでほしいという行商団リーダーと、荷物は別で2回で運ぶという船頭とでトラブルになって(『福田村事件』P150、生き残った人の証言)渡れなかったため、引き返して近くの香取神社やその門前の茶店で休憩していて、自警団に襲われたのでした。
殺害現場となった香取神社の門前の茶店の床几に9人が、鳥居の台座のところに6人がいたそうです。市川さんの説明では、この写真のカーブミラーの前にある今は倉庫ふうな建物のところが茶店だったそうです。
この写真の右側の石碑に続いて神社の鳥居があります。茶店と鳥居は三十メートルぐらいの距離でしょうか。この鳥居の裏には寛政という年号が彫られていました。
鳶口を持って説明してくれているのが市川さんです。現在も消防団には消防道具の一つとして常備してあるそうです。
少し前までこの神社のところには大きな杉並木があったので涼むのには良かった、ということでした。ネットで当時の杉並木のある神社の写真を探したら『追悼慰霊碑保存会』のブログに載っていました。
※ 福田村事件80周年と追悼碑建立-その1 (1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com)
この鳥居のところにいたおかげで、売薬の鑑札(香川県発行)について本署に照会するためにこの場を離れた駐在署の巡査が帰ってきた結果、生き残ることができた6人は、すぐ目の前の茶店で妊婦や幼児を含む親せき・仲間たちが「ウンカのように集結」(同P151)した自警団の男たちに襲われ殺されていくのを震えながら見ているしかなかった…。
現場に立って初めて気がついたのですが、地図ではこの神社と圓福寺…追悼慰霊碑のある大利根霊園の方は円福寺と旧字でなく書かれています…は全く別物のようですけど『福田村事件』の地図に線で囲んだように、元々一つ境内(敷地)です。明治「天皇絶対」政府が神仏分離令などを出して、長い神仏混淆の日本の伝統文化を破壊するまでは、このお寺が神社の別当寺でした。
『福田村事件』P126にはこの事件から3年後の1926年、福田村第一小学校の児童らが校外学習に行った帰り、利根川を船で渡っているとき突風によって船が転覆し3名が死亡、大人も3名死亡し供養塔が建てられていたことが書かれています、現在は撤去されて無いそうです…。
この供養塔にはこのお寺の住職さんがかかわっていらっしゃったのではないかと思うのですけど…私の憶測に過ぎませんが…「3年前の加害者を責めるのではないが、日本では、事が終われば敵味方なく供養してきたのだから、その時の被害者も成仏されるように供養しようではありませんか」ぐらいの呼びかけはしてほしかった気がします。明治「天皇絶対」政府が神仏混淆の長い伝統を破壊すると同時に、亡くなった人たちはみな「仏さん」として供養するという長い伝統文化も破壊されたのか…。
市川さんが「追悼慰霊碑」建立の千葉県側の事務局長としてお寺の方と交渉時、先ず、最初は「この神社の入り口のところに建てたい」と言ったところ、速攻で却下されたとか…。そして「檀家さんが納得してくれたら大利根霊園のところに建ててもいいい」と言われたそうです。
ん~~…宗教者の方なら「私が檀家さんを説得しましょう」と言ってほしかったなぁ…。
市川さんは檀家代表のところに話しに行き、初めはけんもほろろに「帰ってくれ」だったのが、それでも、めげずに何回も何回も話しに行くうちにやっと「黙認しましょう」となって、現在の場所に立派な追悼慰霊碑ができたのでした。でも、できた碑には最初「関東大震災福田村事件犠牲者」の文字の内「福田村」が入ってなかったので、彫り直して入れてもらったとか…。
市川さんがお塔婆を書いてもらうために手続きに行ってらっしゃるときに、碑の裏側を見たら犠牲者10人の…胎児も含め…戒名が書いてありました。一番上には無量寿院○○とあり、中段に釈○○とあり一番下に実名が彫られていて、ん??? でした。
私の実家は代々、真宗の石州門徒で両親をはじめ「釈」から始まる法名を持っています。ん? このお寺は浄土真宗か? でも、確か「南無大師」みたいな文字を見たような…と訝しんでいたら、供花とお塔婆を持ってこられた市川さんの説明で分かりました。
「このお寺は真宗豊山派で、戒名は最初にみんな『無量寿院』が付くんです。その下のは、犠牲者の香川の墓にある戒名です。お骨は入っていませんが…。一番下が実名です。この裏側の写真は公開しないでください。中にはこれを公開して、犠牲者の部落を特定しようとする人もいるんです」…。なんとまぁ(怒)…。
実際に映画『福田村事件』に香川の住所が出たために、わざわざ、そこまで行って「ここだ」とネットに挙げる差別主義者による二次被害も出ているとか…。何をどう考えたら、そんなことができるのか(怒)…
費用は300万円もかかったということですが、全国からの寄付で集められたそうです。私は1983年、関東大震災における朝鮮人虐殺から60年の年に出版された『いわなく殺された人々 関東大震災と朝鮮人』(「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者 追悼・調査実行委員会」編 青木書店)で初めてこの事件を知り、妊婦さんや乳幼児まで殺すとは、なんと残酷なことができたのだろう…と思いましたが、その後はなにしろ、自分自身の都教委との死闘で…『たたかう! 社会科教師』(社会批評社)参照…それどころではなく、この慰霊碑建立のことは知らずにいました。
こうした艱難辛苦の末に、やっと建てられた黒御影石の立派な追悼慰霊碑は、供養と共に二度とあってはならないこの事件を記憶し語り継ぐ拠点になっています。しかし、なんと…森達也監督は「ちっちゃな慰霊碑」と公言されたそうで、市川さんは憤慨しておられました。この発言が事実なら、森監督の方に非がありますよね…。
この映画に関して私は、3人の主要な登場人物の女性がみんな性欲がものすごく強くて性交したくてしかたない女性という描き方をしていて女性蔑視の内容だと…虐殺の第一撃、鳶口を振り下ろしたのは女性であると史実を捏造していることも含め…怒りまくっているのですが、市川さんの資料に毎日新聞オピニオン欄(23年12月9日)記事※があり、この映画の評価について、すっごく大事な視点だと思いますので、以下に紹介します。私は見出し「軽さ」の部分は「史実歪曲」か「史実捏造」にした方が正確だと思っています。
※映画「福田村事件」の軽さ 井上英介 『毎日新聞』(2023/12/9 東京朝刊)
(続)
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