増田都子
被害者たちは、映画に描かれたようなハンセン病者を騙して薬を売りつけるような…それは「不正行商人」ですよね…商売は全くしていませんでした。香川県から「鑑札」を得て古くから香川の売薬として知られていた千金丹という薬をはじめ、近くに薬局も売店もないような農村の人たちの生活に必要な文房具なども売る真っ当な行商人たちだったのが事実です。下は市川さんの資料にあったものです。
ネットで調べたら、こういうのが出ていました。今も、この薬をベースにした会社があるようです。
<日本全国を歩いた岡内千金丹のはじまり【千金丹の歴史】
はじまりの土地「讃岐」
讃岐の国、香川県は瀬戸内海に面し、気候は温暖、古来天災による被害が少ない風光明媚なところです。その讃岐に、明治、大正を経て、昭和も戦前までの3代にわたって、全国に販路を広げた讃岐薬業、「岡内千金丹」の薬売りがありました。ここに言う薬とは、すなわち今日の家庭薬です。この時代、讃岐は家庭薬王国と言われていて、最盛時には県下に大小300余の家庭薬製造業者があって、その生産高は讃岐の重要産業のひとつでもありました。
☆ 全国に響いた千金丹の歌声
"千金丹"と染め抜いた白い洋傘、股引きをはき、大きな鞄を肩にかけて、歌を歌いながら渡り歩く。声をテノールに張り上げて歌う文句は次のようなものでした。
本家はさぬき高松 岡内家伝の千金丹
そのまた薬の効能は 第一胃を整い熱冷まし
タンセキ・リウイン、胸痛み
しぼり腹には下り腹 頭痛めまいに立ちくらみ
せんき、せんじゃく胸痛み 子供方には御カンキョウ
舟車の酔いに二日酔い さぬきの東は琴平より八里東の高松市
岡内家伝の千金丹売り子の真黒 クロスケー…エ…エ…
売り子たちは、毎年、春3月に高松を出発し、10月の高松、岩清尾八幡の祭り前に帰郷したといわれ、この行商の一団は、全国各地で一種の風物詩であったそうです。>
あの関東大震災の朝鮮人虐殺さえなければ、妊婦や幼児を含む9人もの人が惨殺され、6人の人達が辛酸を舐めるということはなかったのでしょうに…
市川さんは前記「福田村追悼慰霊碑保存会」のブログにもあるように「朝鮮人と誤認して殺された」という主張には強く反対してらっしゃいます。
''誤認説に反対しています'' (1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com)
2022年8月17日、コロナで中断していたフィールドワークが約3年ぶりに再開しました。当日のようすが千葉日報に掲載されました。保存会の市川正廣さんは、当日の参加者に以下の文章を配りました。
''誤認説に反対しています''
福田村事件追悼慰霊碑保存会
「朝鮮人と疑って~」
「朝鮮人と間違って~」
「朝鮮人と誤認して~」
と、いろいろありますが、私たちはこの「誤認説」に反対です。
「誤認説」は犠牲者の追悼にならず、加害者の都合の良い言い訳(方便)と考えます。
犠牲者側は、全く何の理由もなく殺害を受けたわけです。
加害者が裁判などで、この言い訳を強調したのは、罪の軽減を図るためのものでした。
「誤認説」は「朝鮮人」ならば殺していいのかと、なりませんか。
聞き慣れぬ、「讃岐弁説」は、こじつけ理由ではありませんか。
身分証明の、薬行商鑑札(香川県交付)を示し「日本人」であることを訴えました。
が、自警団等は「不審者」として集団暴力・虐殺行為に及びました。大量殺人事件です。一切の弁明は不要です。
私も「讃岐弁が朝鮮語に聞こえたから、朝鮮人と誤認された」というのは間違いだと思いますが、福田村に限らずこの時の関東一帯にわたる虐殺加害者の日本人は、被害者たちを「朝鮮人だ」と思い込んでいました。
あの当時の日本人たちは「『朝鮮人』ならば殺していい」、いや「『朝鮮人』ならば殺さなくてはならない」と思い込んでいたのではないでしょうか。そうしないと「井戸に毒を入れたり、放火される」というように日本人が危害を加えられるから、と…。
なぜなら、日本政府・軍が先頭になって、普通の日本人たちが「朝鮮人は敵だ。日本人を襲って危害を加える敵だから殺してもいい、殺さなくてはならない」と受け止めるような大騒ぎの大デマ宣伝を…大森良三大尉のように…やっていたからです。
福田村にいた15人の人達を「日本人だ」と認識できていたなら、福田村・田中村の自警団も殺すことはできなかったはずです。「自警団等は『不審者』として」ではなく」、朝鮮人「として集団暴力・虐殺行為に及びました」のであり「犠牲者側は、全く何の理由もなく殺害を受けたわけで」はなく、「犠牲者側は」朝鮮人として「殺害を受けたわけで」、これが事実でしょう。それだけ、朝鮮植民地支配者側として強烈な民族差別・偏見を普通の日本人は植え付けられていたのです。
実際、同じブログにも生き残った人の手記が次のように挙げられています。
生き残った人の「手記」といわれる文書 (1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com)
最初は巡査が、君等は何処をと言うて、持参の品物や鑑札を調べると言うたから、巡査が調べると言うて調べられてそれから大勢の消防や青年が来て荷物を調べた後で、この人は日本人じゃと言う人もあり、また(朝)鮮人じゃと言う人もありて巡査とある人が、それなれば野田の警察署へ照会して見ると照会した。
そのうえ巡査は、これはいよいよ日本人であるから一時野田へ帰してくれと言うた。
それでも青年・消防は、これは(朝)鮮人じゃと言うて警察ごとき者を相手にすることないやってしまえと言うておりたが、中にはこれは日本人じゃわ、野田警察へ手渡しすると買うた人もあり、また、この場で殺してしまえと言う人が多かった。
実際、言葉も「朝鮮人ではないか」と疑う一つの要因でもあったでしょう。自警団の日本人は、見知らぬ人は先ず「朝鮮人だろう。殺してしまえ。そうしないと日本人が害されるから、それがいいことなのだ。褒められることなのだ」と疑うことなく思い込んでいた事実があったのではないでしょうか。
前記『言われなく殺された人々』には当時船橋警察署巡査部長をしていた人の手記が掲載されており、以下のような証言をしています。
「警察官の制服を着た警察部勤務の巡査部長であった安原巌君が、東京に連絡に行つての帰途、船に乗って行徳町地先まで来たときに、自警団に発見され、『この男は、東京で巡査を殺して制服を剥いで着て来た朝鮮人だ』と騒ぎになり、危うく殺されるところであった。その時、行徳町の加藤町長が来てくれて、『この人は安原巡査部長である。』と証明してくれたので、ようやく納得して助かったことがあった。これほど治安を乱し、警察をも信用しない流言の恐ろしさを感じたことはない。」
この町長がいなかったら、この巡査部長が普通に日本語を話しても、朝鮮人として殺されていたでしょう。
もう亡くなりましたけど、千田是也という有名な演出家(本名・伊藤圀夫)は以下によれば
「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」に込めた演出家・千田是也の思い (加藤直樹) | アジアプレス・ネットワーク (asiapress.org)
「当時、彼は19歳で、東京・千駄ヶ谷に住んでいた。震災の翌日夜、朝鮮人の集団が日本人を襲っているという流言を信じた彼は、杖を手に街に飛び出したが、反対に朝鮮人に間違えられ、竹やりやこん棒で武装した男たちにこづきまわされる。たまたま彼を知る者が通りかかったことで解放されたが、危ういところだった。
だが4日後の9月6日には戒厳司令部が『朝鮮人暴動』の流言を明確に否定し、翌10月下旬には、報道規制の解除によって、関東各地で繰り広げられた朝鮮人虐殺の事実が大々的に報じられる。むごたらしい出来事を伝える紙面を読み進めるうちに、彼の胸に一つの思いが膨らんでいったのだろう。もしあのとき、自分が本物の朝鮮人を発見し、とり囲む側の一人であったら、何をしただろうか――。
『私も加害者になっていたかも知れない。その自戒をこめて、センダ・コレヤ。つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである』(『決定版昭和史4』毎日新聞社、1984年)。」
千田氏もまた、普通に日本語で話しても、もし「たまたま彼を知る者が通りかかった」ということが無かったなら朝鮮人として虐殺されていたでしょう。
市川さんは「福田村事件は複合差別である。讃岐弁で朝鮮人と誤認された、という主張は間違いだ」と主張されるのですが、讃岐弁も一つの要因で、福田村・田中村自警団は行商団15人を「朝鮮人だ」と思い込み、2歳の子どもでさえ、妊婦さんでさえ見境なく殺すことができたのです。たまたま茶店にいた9人に襲い掛かったのですが、もし、中座していた駐在所の巡査が帰ってこず「この人たちは日本人だ」という証言が間に合わなければ、間違いなく残りの6人も朝鮮人として殺されていたでしょう。
検見川事件は福田村事件が起こる1日前の9月5日のことですが、東京新聞によれば、
日本人が日本人を集団で殺害…関東大震災直後の忘れられた事件 現代に通ずる差別意識と偏見の暴走:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
「被害者は沖縄、秋田、三重県出身のいずれも20代の男性(中略)
『三名を不逞鮮人の疑いありと巡査駐在所に同行、人々は数百人(中略)三名を針金にて縛り殺したものである』(法律新聞・1923年11月3日)
『警察署の身元証明書を出して哀訴嘆願するにも拘わらず(中略)滅多斬に惨殺した』(山形民報・同年10月18日)
沖縄県出身の島袋さんが検見川事件を調べたのは、被害者の1人が『ウチナンチュー(沖縄人)だった』からだという。『言葉のなまりから異質の存在と見られたのだろう。事件は在日朝鮮人のほか、琉球人ら地方出身者への偏見の問題もはらんでいる。沖縄にとっては今も続いている差別の表れだ』」
福田村事件も、第一(直接)には日本政府・軍によって徹底的に煽られた「朝鮮人」に対する強烈な敵視・民族差別の結果としてあり、第二(間接)には「なぜ香川の人達が遠く離れた利根川のそば、福田村で殺されなければならなかったか」と言えば、前記「福田村追悼慰霊碑保存会」ブログにあるように部落差別の結果だった、と言えるのではないでしょうか。
福田村事件80周年と追悼碑建立-その2 (1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com)
「■福田村事件と行商問題
行商は香川県の部落産業であった。香川の部落は農村部に点在していながら、ほとんどが農業では生計を立てていない。多くは山の陰や水はけの悪い湿地帯にあり、そのうえ狭く、農業では成り立たたないからである。しかし勤めに出るにしても、能力も意欲もありながら差別して採用してくれない。そのため自立を目指す部落の人達は商業に活路を切り開いていった。商業といっても行商なら比較的少ない資金で出来るし、現金収入にもなる。こうして香川の部落では行商が一般的な仕事になった。福田村事件が起きる3年前には、3割近くの家庭が行商を主な生業としていた。」
福田村事件は「直接には朝鮮人民族差別、そして間接には部落(職業)差別の複合差別」であるという点で、関東各地であった朝鮮(中国)人及び朝鮮人と思い込まれた日本人の虐殺事件の中では唯一の例ですが、強烈な民族差別が第一にあったことは薄めてはならないと思います。
それにしても、福田村事件を含む千葉県東葛地方における虐殺事件に一番の責任があるはずの大森良三大尉は…殺人教唆罪では?…前記『現代史資料6』にある報告の最初に「結果より見れば徒に(デマ)宣伝に乗りたる事となり慚愧に不堪」(P28)と書いていながら、何の処分も無く異動しただけだったとか…
あと、事件が起こった場所から福田村事件と称されていますが、有罪となった7人の内、田中村からは懲役10年が1人、8年が1人、3年が3人と計5人で、残りの二人が福田村の人で10年が1人、3年が1人でした(『いわれなく殺された人々』P152)。
残虐な暴力を振るったのは田中村自警団の人の方が多かったのが事実ですね…殺害場所が福田村だったので田中村の名前はあまり出てこないのですが、やはり、この事件は「福田村・田中村事件」と称した方がいいような気がします。
市川さんも言われていましたが、21世紀の現在、差別は無くなるどころか、民族差別・部落差別…市川さんは言われませんでしたが私は女性差別も入れてほしい…を基にしたヘイトスピーチ・ヘイトクライムは、SNSを使ってますますひどくなっている状況です。
群馬の朝鮮人強制連行慰霊碑が山本一太知事の下、撤去破砕されたように…日本人の侵略植民地支配への無反省を天下に晒した歴史的愚挙(怒)…、小池百合子都知事が虐殺された朝鮮人を悼むメッセージ送付を拒否し続けているように、差別なき社会を謳う日本国憲法下で、行政がヘイトスピーチ・ヘイトクライムを煽っているといっても言い過ぎではない、という情けない状況が今の日本です。
こうした関東大震災における朝鮮人(朝鮮人と思い込まれて殺された日本人)虐殺・中国人虐殺及び社会主義者・労働組合活動家虐殺を心に刻み、学習し、差別根絶のために、自分にできることはしていきたいものです!
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