=高橋哲哉東京大学名誉教授の記念講演要旨=
★ 今こそ問われる「教育の自由」 (『リベルテ』から)
★ 平和主義と民主主義が、今、最も厳しい局面に
私は「教育の自由」の問題について、いくつか意見表明する場を与えられてきました。最初は国旗国歌法成立の時でした。その後、道徳の副教材として『心のノート』が使われることに危機感をもって、『心と戦争』を上梓しました。これがきっかけとなって、教育基本法改正反対運動に関わることになったのです。
教基法改悪を止めることはできませんでした。その後、教育現場での「自由の空気」は薄くなる一方だと見受けられます。
2004年に、処分された方49人の文章を拝読して感じたのは、「ある種の希望の感覚」でした。戦争と差別の歴史の中で作られた、この国の地金を、平和主義と民主主義の地金に変えていくための貴重な一歩。それが「日の丸・君が代」強制に対する闘いだとの思いは変わっていません。
にもかかわらず、皆さんの闘いも、これまでで最も厳しい局面に置かれている。敗戦後、平和主義と民主主義が、最も厳しい局面に立たされている。この2年足らずの間に、一挙に、「戦争という怪物」が目の前に現われた。こんな状況は、戦後日本を生きてきた私たちにとって、初めてのことではないでしょうか。
というわけで、今日の演題は、「『戦争』という怪物といかに向き合うか今こそ問われる教育の自由」とし、現状をどう認識するかということを中心に、お話しします。
★ 戦争準備を進める日本政府その「怖さ」
「台湾有事は日本有事だ」と言つたのは安倍元首相でした。
ウクライナ戦争が始まると、岸田首相が「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と。中国との戦争を覚悟しなければならないような「空気」になってきた。
極めつけは、麻生自民党副総裁の発言です。台湾を訪問して、「戦う覚悟」が必要だと。多くの国民が「不安」を募らせています。
いくつかの世論調査によれば、国民世論は、憲法改正してでも軍拡をせよと言っているように見えます。防衛費は第2次安倍政権になってから年額5兆円を超えて、毎年過去最高を更新していました。ところが岸田首相は一挙に、5年間で43兆円にすると。それでもって、敵基地攻撃能力を保有し、戦闘継続能力を強化すると。日本はアメリカ、中国に次いで世界第3位の軍事予算の国になります。
日本はもう紛れもなく「軍事大国」です。
日本の領域内には、世界最強の米軍もいます。しかも、自衛隊と在日米軍はますます「一体化」している。この現実は深刻に受け止める必要がある。護憲派は、この現実の重み、はっきり言えば「怖さ」を忘れてきたのではないか。
何が怖いのか。ひとつには、集団的自衛権の行使が可能とされ、敵基地攻撃能力の保有まで認められることになって、「専守防衛」を超える「戦争」をする可能性が出てきたことです。
日本政府が戦争準備を進めていることは明白です。日本政府のこの動きを、憲法との関係で見ると、どうなるか。日本政府は、さらに「護憲派」の多くも、「専守防衛」の自衛隊であるという解釈で合憲だとしてきたわけです。それをはっきりと逸脱したのが、安倍政権による集団的自衛権の一部解禁、それを法制化した「安保法制」でした。
これまでは自衛隊は「盾」であって、「矛」の役割は米軍に委ねると言ってきたのに、これからは自衛隊も「矛」をやると。「専守防衛」の拡大解釈もここまで来ると、どう考えても無理があります。
★ 「9条改正反対」だけで良いのか?
そこで今、「護憲派」の中からも、こういう言葉が出てきています。「専守防衛は死んだ」、あるいは「憲法9条は死んだ」。
皆さんはどうお考えでしようか?私は基本「護憲派」として自己形成してきた人間です。しかし同時に、「9条改正反対」を言って自足してしまうような「護憲派」のスタンスに対しては、違いを出さざるをえませんでした。
たとえば、大江健三郎氏が、「いま私たち本土の人間が沖縄に対してできる唯一のことは、憲法9条を守り続けることだ」と述べたことを私は批判しました。なぜか。9条のもとで、沖縄の犠牲が続いているからです。
私は、憲法9条がどのような歴史の中に存在してきたかということを直視する必要があると考えるのです。この点についてのリアルな認識が、「護憲派」には足りなかったのではないか。
まず、敗戦後、日本政府が憲法9条を受け容れたのは、連合国から昭和天皇の戦争責任を免責してもらって、天皇制を存続させるためだったということ。あえて言えば、9条は天皇の戦争責任に蓋をするために生まれたと言えなくもない。私が9条を手放しで称賛できない、一つの理由がこれです。
次に、天皇メッセージとマッカーサー発言です。1947年、昭和天皇がマッカーサーに対して、米軍が沖縄の軍事占領を続けてくれるようにメッセージを届けました。天皇は、米軍に頼って、しかも沖縄を犠牲にして、日本を(あるいは天皇制を)守ろうとした。では、マッカーサー発言とは何か。
1947年、マッカーサーはアメリカ本国政府からの日本再軍備の打診に対して、こう言って断りました。
「沖縄に軍隊を駐屯させることで、われわれは日本本土には軍隊を維持する必要なしに、外部侵略に対して日本の安全を確保することができる」。
要するに、マッカーサーは、沖縄を軍事要塞化すれば、日本本土は非武装でも守れるので再軍備の必要はないという考えだった。この両者を合わせて考えれば、沖縄が戦後米軍基地の島になったのは、憲法9条とセットであったと考えざるをえません。
9条のおかげで自衛隊は一人も殺さなかったとよく言われますが、沖縄の犠牲がなければ、そうは言えなかったのではないか。私は憲法9条にケチをつけたいわけではなく、憲法9条を守ることも、沖縄の犠牲に対するアリバイには決してならないということです。
★ 9条のもう一つの限界 日米安保体制
「護憲派」あるいは9条は、沖縄の犠牲に加えて、もう一つ、致命的な限界を抱えてきました。日米安保体制です。この体制は「全土基地方式」と言われる、異例の体制です。
この米軍の軍事力行使は、日本が攻撃された時だけなされるわけではありません。米軍は様々な形で日本の基地から出撃して戦争をしてきました。日本はそうやって、米軍の戦争を支えてきた。憲法9条はそれを止めることが全くできなかったわけです。
このいわゆる「日米同盟」が、ウクライナ戦争をきっかけにして、今度はNATOと急接近しています。NATOの中心はアメリカですから、「日米同盟」に全面的に没入すれば、NATOとの関係強化にも疑問をもたなくなるのでしよう。
危惧するのは、これは第三次世界大戦の構図ではないかということです。アメリカを中央にして世界地図を想像してみます。アメリカは、東ではヨーロッパを最前線にしてロシアと対峙し、西では日本や韓国や台湾を最前線にして、中国や朝鮮と対峙している。つまり、アメリカを中心にしてNATOや日米・韓米同盟、台湾などがつながって、中国・ロシアと対決する構図が出来上がってきている。こうなると、どこかで火の手が上がると世界大戦ということになりかねない。しかも、戦場になるのはヨーロッパであり、東アジアです。
さらに驚くのは、この状況を、日本の政治が何の波風も立てずに容認しているように見えることです。日本の国会で「日米同盟」路線が論争になることは今ではほとんどありませんが、NATOへの深入りについても議論になった形跡はありません。
次のことをよく考えてみなければならない。憲法9条は、米軍のいない日本を経験していないということです。
とすれば、米軍がいなかったら9条はどうなっていたのかという疑問が出てきます。
自衛隊は「専守防衛」だから9条違反ではないという議論があります。でもその場合、「専守防衛」論は、米軍が「矛」の役割をすることとセットで成り立っています。自衛隊は合憲か違憲かという、戦後日本で闘わされてきた論争が、ある意味で「空しい」のは、この事情があるからです。
自衛隊が合憲であろうと違憲であろうと、日本は世界最強の米軍に基地を与えて受け容れ、日本を守る「矛}として、また「極東」から「アジア太平洋」さらには「グローバル」に出撃して、戦争することを支えてきた。この日米安保体制を近年では、世論調査によると、8割を超える圧倒的多数の国民が支持しているわけです。
たとえ9条を一言一句変えさせなかったとしても、9条改正に反対するだけでは足りなかった。沖縄を犠牲にしながら、安保体制下で軍事大国化し、アメリカと一緒に「戦争する国」になることを、ここまで止められずに来てしまったからです。これが、9条改正に一貫して反対してきた私の認識です。
★ 9条に頼らない戦争阻止の論理 戦争をリアルに考え抜くこと
では、どうするのか。最も重要なことは、戦争を止めること、戦争させないことです。
戦争を止めるために、9条は役に立つ限り利用すべきです。しかし、それだけではだめです。9条改憲がされなくとも、現状では、「台湾有事」になれば、日本の戦争を止めることは困難です。
岸田首相は、現在の軍備増強、っまり戦争準備を、すべて憲法の範囲内であり、専守防衛の範囲内だと強弁しています。つまり9条はそのままでも、有事に対応できるようにしているわけです。
そうすると、どうなるのか。私たちは、9条を利用しながらも、9条に頼らない、戦争阻止の論理を考える必要があるということです。
というのは、もし9条が改悪されてしまったら、どうするか。これも「護憲派」はあまり考えてこなかった。9条が改悪されたら、もう沈黙するのか?そうではないはずです。
9条に依存しない戦争阻止の論理が必要です。私自身は、日本を、そしてもちろん沖縄を、軍事力で守ることは不可能だということを、具体的に、リアルに考え抜くことだと思っています。
ウクライナ戦争を見ても、現代戦争はミサイル攻撃が中心になります。琉球諸島と日本列島全体が、これから「日米同盟軍」による中国向けのミサイル発射台にされようとしています。中国は当然、それを圧倒するミサイル網を配備しようとするでしょう。ミサイルの撃ち合いになります。
アメリカ本土は安全です。戦場になるのは、台湾、沖縄、日本です。私たちはウクライナ戦争から、タカ派の入たちとは別の教訓を引き出すことができますし、そうすべきです。
ウクライナは今、NATOの、というよりアメリカの代理戦争をロシアと戦っている形です。アメリカ海兵隊のビアマン中将が、今年の2月、あるインタビューで語っています。
「なぜ私たちは、ウクライナでこれほどの成功を収めたのか。その大きな理由は、2014年と2015年のロシアによる侵略の後、将来の紛争に備えて熱心に準備をしたからです。ウクライナ人の訓練、補給物資の事前配備、支援活動や作戦維持のための拠点の設定など。私たちはこれを舞台設定と呼んでいます。私たちは今、この舞台設定を、日本、フィリピン、その他で進めているのです」。
ビアマン中将は、この「舞台設定」を「日本やフィリピン」で進めていると語っています。これが「台湾有事」のことであるのは明らかです。
「台湾有事」は、台湾、琉球諸島、日本を「舞台」すなわち戦場として、台湾と日本が中国と戦うアメリカの代理戦争になりかねないということです。
実際に「台湾有事レが起きても、アメリカは核戦争になりかねない米中の本格的戦争を避けて、部分介入にとどめ、台湾と日本に代理戦争をさせることができます。日本はアメリカの「核の傘」の下にいるから大丈夫だという人がいるとしたら、甘いのではないでしょうか。
仮に中国が日本に核ミサイルを撃ち込んだとして、アメリカが中国を核攻撃したら、米中でICBMの打ち合いになります。アメリカ本土が中国の核攻撃を受ける。そこまで覚悟して、アメリカは(日本のために)中国に核を打ち込むでしょうか。
もう一つの「核」の恐怖もあります。原発です。
実は、1981年、イスラエルが、イラクに建設中だった研究用原子炉を爆撃して破壊した事件があります。この事件をきっかけに日本政府は、日本の原発が武力攻撃を受けたらどんな被害が予想されるか、その調査を委託して、1984年に報告書がまとまりました。
「放射性物質が流出して、最大1万8千人が急性死亡する」等々、甚大な被害が出るという内容だったので、これを公表せず。福島の事故の後、2011年、朝日新聞が報道し、初めておおやけになった。
以上、ミサイル、核兵器、原発に触れましたが、これらを考えただけでも、日本や沖縄を軍事力で守ろうというのは無諜だと分かります。
★ 必要なのは、アメリカべったりでない外交
軍事力で、戦争で、日本を、そして沖縄を守ることはできないということをリアルに考え抜いて、共有していく。それ以外に、私たちにできることの一つは、政府に対して主権者として、「外交をサボるな」と要求することです。
政府・与党また軍拡に賛成の人たちは、防衛力強化と外交は車の両輪だと言ってきました。しかし日本政府は、アメリカべったり以外に、どんな外交をやっているのか。ここが問題です。アメリカ追随を「唯一の正解」として、盲信して、思考停止を続けている。
私はこの間、「台湾有事」が語られる際に、1972年の日中共同声明にほとんど言及されなくなったことが大きな問題だと思ってきました。
日中共同声明は戦後日中関係の原点です。この際、日本側から中国に対して、日中共同声明の内容あるいは精神を、お互いに確認しようと提案すべきではないか。
日中共同声明には何が書かれていたか。
台湾との関係で重要なのは、「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」。そして台湾が中国の一部であるという北京政府の立場を、日本は「十分理解し、尊重する」と。この内政問題という中国の立場を「理解し尊重する」としても、中国自身が原則は平和的統一だと言い続けているわけですから、軍事力に訴えないように働きかけることはできるはずです。
もうひとつ重要なのは、
「両政府は、(中略)日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」。
そして、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」
と言っている。「日中両国」も、「アジア太平洋で覇権を求めるべきではない」となっている。
中国の行動がアジア太平洋とくに東南アジア諸国に不安を与えているわけですから、中国にはこの約束に立ち返ってもらうように、粘り強く説得していく。そういう外交を、日本政府はやるべきです。
★ 「唯一の正解」・思考停止を招く教育の自由の欠乏
さて、教育の問題です。現在のこの状況に対する日本政府の向き合い方、そして日本社会の向き合い方に、私は教育全体に「自由」があまりにも欠けているという問題点が現われていると感じます。
政治学者の松本正生さんの、選挙の低投票率についての分析によれば(朝日新聞2023年11月16日)、選挙に「行かない」あるいは「行けない」若者が増えている背景に、投票を「正解を選ぶこと」のように思いこむ傾向があるのではないかというのです。
自分が投票した候補が当選したら「正解が選べた」、落選したら「間違えた」、と思うというわけです。もしそうだとしたら、多数派がつねに「正解」ということになり、たとえ少数になっても、本当に良い選択を求めて自分の頭で考え抜くなどとは決してしないと。
君が代「不起立」の皆さんが置かれてきた環境は、まさにこのようなものだったのではないでしようか。10・23通達について言えば、多数派とは石原都知事、都教委であり、彼らが選択した10・23通達こそ「唯一の正解」であり、それに従わないことは「間違い」であって、「間違い」を犯した少数派にはペナルティが科せられる。ここには「意見の自由」も「思考の自由」もありません。
教育における「自由」の不足、「自由」の欠乏。これが恐ろしいのは、個人はもちろん、個人の集合としての日本社会全体に、「唯一の正解」に追従して思考停止するという習性が身についてしまうからです。
「日の丸・君が代」の強制と、「日米同盟」以外の選択肢を知らず、アメリカさえ付いていれば中国やロシアとの戦争もOKというような日本の政治は、「唯一の正解」を盲信して思考停止に陥ってしまうという点で、通底していると思えてなりません。
「被処分者」の皆さんの闘いに、私が「この国の地金を変える貴重な一歩」を見るのは、まさにこの多数派権力が押しつけてくる「唯一の正解」を疑い、批判し、考える自由を行使して、自らの判断と決意によって、結果生じる不利益に耐えながら、あえて少数派の道を歩んでおられるからに他なりません。
★ 平和と自由への渇望こそが最終根拠
私は、憲法9条でさえ平和の最終根拠にならない、9条が改悪されても、なくなっても、戦争に反対する論理がどこから出てくるかと言えば、私たちの生活、経験、そこしかないでしょう。
そしてこれは、平和についてだけでなく、自由についても同じです。
丸山眞男と保守派の人物である高見順の敗戦直後の文章をみると、この時点では丸山の認識のほうが甘いようにも見える。その前日まで「一億玉砕」すら受け容れかねなかった日本国民が、8・15の敗戦で、突如として「自由なる主体」となったとは考えられません。
高見のほうは、占領軍の指令で自由にモノが書けるようになった、それは嬉しいけれども、自国の政府によって自由が与えられなかったのは、日本人として恥ずかしいではないか、と。これはある程度、真っ当な感覚ですが、しかし十分ではない。
自由は政府によって国民に与えられる以前に、国民の側が渇望して政府に認めさせるというのが本来のあり方ではないか。
最後に森有正の文章です。この文章(1966年初出)を私が読んだのは高校時代です。私が哲学・思想を専門にするようになったきつかけの一つは、森有正の影響だったのですが、結局、「護憲派」でありながら、必ずしも「護憲派」に唱和できない部分を抱えてきたのは、こういう文章の影響だったのかもしれません。
「苛烈な現実の中で、平和がどれだけ困難なものであるか、一度、平和そのものの根拠にまで掘り下げて根本的に疑って出直さないと非常にあぶないのである。(中略)憲法が戦争を放棄したから急に平和が大切になるのは全く逆で、法律などあってもなくても、平和が大切なのであり、敗戦があったろうがなかったろうが、平和は大切なのである。〔中略〕自由は自由主義、政治、経済、文化上の一つの主張としての自由主義とは何の関係もないものである。平和が平和憲法の結果ではなく、その根源でなければならないように」。
憲法があるから平和が大事なのではなく、私たちの平和への渇望があって、初めて憲法の平和主義が成り立つ。憲法があるから自由が大事なのではなく、私たちの自由への渇望があって、初めて憲法の自由権が成り立つ。
現在の「絶望的」に厳しい政治状況の中で、日本の市民社会は、本当に、根本から「自由」と「平和」を望むのか、それが問われている、ギリギリの局面だと思います。それぞれの場所で、できることをやっていきましょう。
*本会の19回総会の記念講演の要旨です。小見出しを含め文責は編集部にあります。
『リベルテ(東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース) 73号』(2024年1月31日)
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