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政府主催の「明治150年式典」は、低調のまま実質的失敗に終わった

2018年11月21日 | 平和憲法
 ◆ 「明治150年礼賛」と安倍首相の「失敗続き」 (週刊金曜日)
高嶋伸欣(たかしまのぶよし・琉球大学名誉教授)

 政府主催の「明治150年式典」は、低調のまま実質的失敗に終わった。歴史がらみの安倍晋三首相のイベントや策動は失敗の連続で、逆に自身の対抗勢力を生み出す結果となっている。すべては、首相の無知のなせる技なのだ。
 ◆ 歴史の知識欠如が対抗勢力を生む皮肉な構図
 10月23日、政府主催の「明治150年式典」が開催された。国会議事堂の隣の区画にある憲政記念館が会場で、出席者は閣僚や三権の長などを筆頭に400人を見込んだが、310人(政府発表)。自民党の衆参両院議員(283人+122人)の合計にも及ばない。
 開式は12時20分、25分間で終了の予定が、実際は約20分間。まるで「消化試合」か「昼休み集会」の体で、真剣みがない
 だがこの間、内閣官房の「『明治150年』関連施策推進室」の旗振りで、一〇〇件以上の関連施策・イベント類が全国で展開されてきた。その総仕上げに位置付けられる政府主催式典がこの始末では、肩透かしだ。
 二階に上げてハシゴを外された形の全国の役人たちは、改めて面従腹背の思いを強めたことだろう。
 憲政記念館は1997年8月29日、第3次家永教科書裁判で最高裁判所が勝利判決を出し、家永三郎氏が記者会見を開いた場所だ。
 「歴史戦」敗北を思い起こさせる場所で開催した安倍首相らは「明治維新」の語源について歴史歪曲の責任を問われる立場にもある。
 首相や自民党教科書議連は、右派団体「新しい歴史教科書をつくる会」による復古調の扶桑社版中学歴史教科書を強く推していた。そこには、次のように書かれていた。
 「王政復古の大号令の中では、旧来のものを改め、すべてを新たに始めることを意味する『維(こ)れ新たなり』という言葉が用いられた。そこで、幕末から明治初期にいたる一連の変革を明治維新とよぶ」(2004年度検足合格)。
 この教科書を06年度用に採択した東京・杉並区の住民が、すかさず「王政復古の大号令には該当する言葉がない」と指摘した。
 だが文科省は放置し、10年度検定でようやく「『維れ新たなり』という言葉は用いられておらず、誤りである」と修正させた。この間、扶桑社版教科書を使った栃木県大田原市と横浜市(18区中の8区)の中学生は、このウソ記述で学ばされた
 「王政復古の大号令」の文面の確認は、歴史資料集以外でもネットで簡単にできる。その程度の手間さえ、検定官たちは控えた。
 扶桑社版教科書は速成のあまり誤記が多く、自動的な不合格処分の可能性が高かった。だが背後には、安倍首相ら教科書議連が存在した。文科省の官僚が忖度したのは明らかだ。
 ◆ 玉城新知事誕生の遠因

 教育行政で「誤った知識や一方的な観念を植えつける」ように強制することは、人権侵害であるという確定判決がある。憲法26条(教育を受ける権利)、13条(個人の尊重)に反するという最高裁大法廷判決(1976年5月21日・旭川学力テスト事件)だ。
 同教科書を採択した教育委員会はいずれも、既卒者となった元在校生たちに是正措置を何もしていない。やがていつの日か彼らが人権侵害をされたままであることに気付き、人権救済の申し立てや損害賠償で提訴する可能性がある。
 このままでは、安倍首相は実現の可能性が薄い改憲より、歴史知らずの首相としてのこれまでの実績で歴史に汚名を遺しそうだ。
 単に歴史知らずで、恥を内外に晒しているだけではない。自らの不勉強による不手際が新たに対抗馬を引き立てる効果を生み、安倍氏自身を窮地に追い込むことを繰り返しているのだ。
 今も「国内植民地」(『高校日本史B』実教出版)扱いをされている沖縄に、実例が複数ある。
 その一つは、第2次安倍政権発足から間もない13年4月28日に、「主権回復記念式典」を政府主催で開催すると発表した件だ。
 発表直後に沖縄県選出の玉城デニー衆議院議員(当時)が官邸に対し、「講和条約3条で沖縄が日本と切り離された『屈辱の日』である4月28日を祝うのは、沖縄の人々の心を傷つける」と強く抗議した。
 たちまち安倍首相は窮地に追い込まれた。

 式典は開催するものの規模は大幅に縮小され、天皇・皇后は出席しただけで、何も出番のないままだった。
 逆に沖縄では関心が薄れかけていた4・28「屈辱の日」への怒りがよみがえり、当日には大規模な抗議集会が開催された。
 並行して官邸に真っ先に抗議をした玉城議員の名は選挙区内だけでなく、全県に浸透していった。
 その結果が、先の県知事選での玉城デニー新知事の誕生だ。

 二つ目も沖縄の知事選結果に直結している。
 亡くなった翁長雄志・前沖縄県知事の「オール沖縄」の理念も、安倍首相らによる沖縄戦の歴史歪曲の動きに対する県内保革一致の怒りの声から生まれたものだった。
 発端は、第1次安倍内閣時代の07年3月末、06年度の教科書検定における高校「日本史」教科書で、「集団自決」に日本軍の強制などがあったとする記述が、すべて書き換えさせられた事実が判明したことだった。
 ◆ 「オール沖縄」の原点

 「集団自決」記述は本来、日本軍による住民虐殺の記述の影響を相対化する意図から、1980年代に検定官の指示で登場したものだった。以来20年間、定着していた記述が突然、不可とされた。前年度の「日本史」教科書検定では、書き換えの指示は皆無だった。
 このため「教科書記述として認められない」と、検定(行政処分)で削除させられたのと同じ記述が載っていて06年3月に検定合格となった教科書が、07年4月以後、全国では使用されるという不可解な事態となった。
 こうした不条理に、文科省は納得のいく説明をできなかった。
 やがて明らかになったのは、文科省の官僚がやはり安倍政権を忖度したということだった。
 当時、安倍首相ら教科書議連は、「集団自決」に日本軍の責任はないとする、「新しい歴史教科書をつくる会」の中心メンバーだった藤岡信勝氏や『産経』のキャンペーンを後押ししていた。教育行政が、こうした政治勢力に迎合した典型だった。
 これに対して批判・抗議の先頭に立ったのは、沖縄県民だった。
 日本軍(皇軍)に脅され、手榴弾を渡されて「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた悲劇からの生存者(幸存者)や目撃者、遺族にとっては、とうてい許されない歴史の歪曲、改竄だった。
 県内41市町村議会が、競うように抗議と検定意見撤回・記述復活の要求決議を可決。県議会も安倍首相が出席した糸満市摩文仁の平和祈念公園における6月23日の「慰霊の日」追悼式の前日に、全会一致で可決した。
 だが、文科省は頑なに検定意見の撤回を拒否。遂には遺族会、PTA連合会、県議会・市町村議会や市町村長や各経済団体代表などによる「9・29県民大会実行委員会」が組織され、11万6000人(主催者発表)が参加した大集会となった。当時、市長会会長で壇上にいたのが、那覇市の翁長雄志市長(当時)だった。
 やがて安倍政権の跡を継いだ福田康夫政権下で、文科省は著者による「訂正申請」を受理。「日本軍によって追い込まれた」等の記述を認めた(07年12月26日)。
 この体験に基地問題の体験を重ねることで、翁長氏は「本土」社会による沖縄差別に対抗する力の結集軸としての「オール沖縄」の意味と効果を、実感したという。そのこどを、14年の知事選出馬表明以後、繰り返し述べている。
 つまり安倍首相は歴史改竄に失敗してきただけでなく、その反作用で対抗する側を下支えしてきたのだ。
 今後も安倍首相が歴史への無知と無恥を自覚しないまま小細工を繰り返せば、同様の結果になるのは目にみえている。「下手の考えは休むに如かず」だ。
『週刊金曜日 1209号』(2018.11.16)

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