◆ 「道徳の教科化」で、学校現場ではどのような問題が起こるのか
◆ 愛国心をかなめとする国家主義的教育
「道徳の教科化」のねらいは、①「授業時数の確保」の名による「道徳」授業実施への強制力の強化、②道徳教科書使用の義務づけによる「道徳」の授業の内容・指導方法の規制、③「特別の教科道徳」(仮称)をかなめとする学校の教育活動全体の「道徳教育」化(あれこれの徳目のお説教と押しつけ)、そしてこれらのねらいを重ね合わせながら、つまるところは、いじめ問題にこと寄せて政府のいう「愛国心」をかなめとする国家主義的な道徳教育のいっそうの徹底をはかろうとするものと考えます。
あるいは、「規範意識」と称して、その実は、戦後、文部省が従来の修身教育を批判して述べた「いかに既成の秩序に服従するかという個人の心術(心の持ち方一引用者注)」(『中等学校・青年学校公民教師用書』1946年)を今また作り上げようとするものともいえます。
◆ 授業実施と検定教科書使用の点検と圧力
このようなねらいのもとで、「道徳の教科化」は、今後、学校現場でどのような問題を生み出すのでしようか。
第一には、上記①のねらいに対応して、「道徳」授業の実施についての点検と圧力がいっそう強まるものと思われます。しかも、そこでの「道徳」授業とはなによりも道徳教科書の使用を前提としたものです。
そこで第二には、上記②のねらいに対応して、文科省『私たちの道徳』、やがては検定道徳教科書の使用状況についての点検と使用への圧力が強まるものと思われます。
すでに文部科学省は、『心のノート』を全面的に改訂し、この3月、『私たちの道徳』を発行、全国の小・中学校に配布しました。小学校1・2年、同3・4年、同5・6年、中学校の4冊から成る一種の国定道徳教科書です。
そしてこれまでの『心のノート』があくまでも補助教材とされていたのに対して、道徳教育の充実に関する懇談会報告書(2013年12月)に「検定教科書が各学校で用いられるようになるまでの間は、新『心のノート』(仮称)を中心に、教育委員会・学校や民間等の創意工夫を生かした教材を適切に用い、指導方法等の改善を図りながら、授業を進めることが求められる」(19ページ、傍点は引用者)とあるように、「特別の教科道徳」の当面の中心教材とされようとしています。やがては検定教科書が、教科書の発行に関する臨時措置法第2条にいう「主たる教材」として使用されようとしています。
なお、上記の懇談会報告書は「検定教科書が使用される場合でも、道徳教育の特性にかんがみ、地域や学校の実態を踏まえて、教育委員会・学校や民間等の作成する多様で魅力的な教材があわせて活用されることが重要である」(19ページ)とは述べていますが、文部科学省が発表した「『道徳教育の充実に関する懇談会』これまでの主な意見」が伝えるある委員の意見では「学校独自に資料を選び活用できるようにする」のは「道徳」の年間授業時数の3分の1程度とされ、3分の2程度は検定教科書の使用が求められているのです。
第三には、上記③のねらいに対応して、「特別の教科道徳」(仮称)をかなめとし、すでに小・中学校学習指導要領で各学校に作成が義務づけられている「道徳教育の全体計画」にもとついて、学校の教育活動全体の「道徳教育」化がさらに推進されるだろうということです。
この点は、前記の懇談会報告書も、「特別の教科道徳」(仮称)について「学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の要としての性格を強化し、それ以外の各教科等における指導との役割分担や連携の在り方等を改善する」(15ページ)と述べて明らかにしているところです。
すでにある県の指導事例集には、小学校第6学年社会科「日本国憲法」に関する単元で憲法学習を学習指導要領「道徳」の内容の一つ、「法やきまりを守り…」という項目のもとに位置づける事例がみられます。公権力の行使をしばる規範としての憲法の本質理解を誤らせるものです。この種の事例がひろがる恐れがあります。
◆ 教師の自主的な道徳教育実践の圧迫生活からの遊離、実践の形式主義化など
上記のような問題点とともに、「道徳の教科化」が現に学校現場で行われている教師の自主的な道徳教育実践を圧迫する危険についても述べておかなければなりません。
その自主的な道徳教育実践の一例として、雑誌『教育』の昨年9月号には、鈴木和雄さん(元・東京都・小学校)の「障がいとともに生きる少女と道徳の授業」と題する実践報告があります。
「総排泄腔異常」、40万人に1人という難病をもって生まれたちいちゃん。彼女の願いに始まり、母親との綿密な打ち合わせを経て創られたその授業の報告に接するとき、ここに子どもの声や願いから出発した本物の道徳授業、道徳教育実践があるとの思いを深くします。
それと同時に危惧されるのは、「道徳の教科化」のもとでは「道徳」の授業の多くが『私たちの道徳』、やがては検定道徳教科書の使用によって拘束される反面、地域・学校・学級を基盤とした教師の教育実践創造の自由が奪われたり、狭められたりすることです。
同時に懸念されるのは、「道徳」の授業が子どもの実生活から遊離したものになる危険です。
たとえば小学校1・2年の『わたしたちの道徳』の「1自分を見つめて」の「(2)自分でやることはしっかりと」に「小さなど力のつみかさね-二宮金次郎-」と題する読み物資料があります。その昔、修身教科書に登場した二宮金次郎の話ですが、今は多くの学校にその銅像もなければ、あまり聞いたこともない人物で、この教材がどれほどに子どもの心に響くというのでしょうか。
また、「道徳の教科化」の根底にある強制の論理は、教師の超多忙化とも相まって、容易に実践の形式主義化(形ばかりの授業)と結び付くものであることも指摘しておきたいと思います。
◆ 学問的な検討が必要「道徳性の評価」は「人格の評価」
科学と教育との結合、教育と実生活との結合という二原則にもとついて子どものための道徳教育を創造する自由を、教師と父母・市民との協力によって打ち立てたいと思います。
道徳教育における評価、なかでも教育活動の評価とは区別される道徳性の評価は、それが「人格評価」であるだけに、きわめて慎重な考慮を要するところです。教師による評価、子どもの自己評価、さらには子どもどうしの相互評価などを視野に入れながら、それらがどのような条件のもとで子どものさらなる成長の契機となり得るのか、学問的な検討が必要です。
教師と子ども、子どもどうしの信頼関係は、その際の不可欠の条件といえるでしょう。しかし、「道徳の教科化」が含み持つ強制、そして国家によるインドクトリネーション(国定道徳のおしつけ)という性格は、評価がたとい文章記述によるものであるにせよ、子どもに「面従腹背」という非教育的な作用を及ぼす恐れがあります。その評価が競争の教育と結び付けば、なおさらのことです。(ふじたしょうじ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』95号(2014.4)
藤田昌士(元立教大学教授)
◆ 愛国心をかなめとする国家主義的教育
「道徳の教科化」のねらいは、①「授業時数の確保」の名による「道徳」授業実施への強制力の強化、②道徳教科書使用の義務づけによる「道徳」の授業の内容・指導方法の規制、③「特別の教科道徳」(仮称)をかなめとする学校の教育活動全体の「道徳教育」化(あれこれの徳目のお説教と押しつけ)、そしてこれらのねらいを重ね合わせながら、つまるところは、いじめ問題にこと寄せて政府のいう「愛国心」をかなめとする国家主義的な道徳教育のいっそうの徹底をはかろうとするものと考えます。
あるいは、「規範意識」と称して、その実は、戦後、文部省が従来の修身教育を批判して述べた「いかに既成の秩序に服従するかという個人の心術(心の持ち方一引用者注)」(『中等学校・青年学校公民教師用書』1946年)を今また作り上げようとするものともいえます。
◆ 授業実施と検定教科書使用の点検と圧力
このようなねらいのもとで、「道徳の教科化」は、今後、学校現場でどのような問題を生み出すのでしようか。
第一には、上記①のねらいに対応して、「道徳」授業の実施についての点検と圧力がいっそう強まるものと思われます。しかも、そこでの「道徳」授業とはなによりも道徳教科書の使用を前提としたものです。
そこで第二には、上記②のねらいに対応して、文科省『私たちの道徳』、やがては検定道徳教科書の使用状況についての点検と使用への圧力が強まるものと思われます。
すでに文部科学省は、『心のノート』を全面的に改訂し、この3月、『私たちの道徳』を発行、全国の小・中学校に配布しました。小学校1・2年、同3・4年、同5・6年、中学校の4冊から成る一種の国定道徳教科書です。
そしてこれまでの『心のノート』があくまでも補助教材とされていたのに対して、道徳教育の充実に関する懇談会報告書(2013年12月)に「検定教科書が各学校で用いられるようになるまでの間は、新『心のノート』(仮称)を中心に、教育委員会・学校や民間等の創意工夫を生かした教材を適切に用い、指導方法等の改善を図りながら、授業を進めることが求められる」(19ページ、傍点は引用者)とあるように、「特別の教科道徳」の当面の中心教材とされようとしています。やがては検定教科書が、教科書の発行に関する臨時措置法第2条にいう「主たる教材」として使用されようとしています。
なお、上記の懇談会報告書は「検定教科書が使用される場合でも、道徳教育の特性にかんがみ、地域や学校の実態を踏まえて、教育委員会・学校や民間等の作成する多様で魅力的な教材があわせて活用されることが重要である」(19ページ)とは述べていますが、文部科学省が発表した「『道徳教育の充実に関する懇談会』これまでの主な意見」が伝えるある委員の意見では「学校独自に資料を選び活用できるようにする」のは「道徳」の年間授業時数の3分の1程度とされ、3分の2程度は検定教科書の使用が求められているのです。
第三には、上記③のねらいに対応して、「特別の教科道徳」(仮称)をかなめとし、すでに小・中学校学習指導要領で各学校に作成が義務づけられている「道徳教育の全体計画」にもとついて、学校の教育活動全体の「道徳教育」化がさらに推進されるだろうということです。
この点は、前記の懇談会報告書も、「特別の教科道徳」(仮称)について「学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の要としての性格を強化し、それ以外の各教科等における指導との役割分担や連携の在り方等を改善する」(15ページ)と述べて明らかにしているところです。
すでにある県の指導事例集には、小学校第6学年社会科「日本国憲法」に関する単元で憲法学習を学習指導要領「道徳」の内容の一つ、「法やきまりを守り…」という項目のもとに位置づける事例がみられます。公権力の行使をしばる規範としての憲法の本質理解を誤らせるものです。この種の事例がひろがる恐れがあります。
◆ 教師の自主的な道徳教育実践の圧迫生活からの遊離、実践の形式主義化など
上記のような問題点とともに、「道徳の教科化」が現に学校現場で行われている教師の自主的な道徳教育実践を圧迫する危険についても述べておかなければなりません。
その自主的な道徳教育実践の一例として、雑誌『教育』の昨年9月号には、鈴木和雄さん(元・東京都・小学校)の「障がいとともに生きる少女と道徳の授業」と題する実践報告があります。
「総排泄腔異常」、40万人に1人という難病をもって生まれたちいちゃん。彼女の願いに始まり、母親との綿密な打ち合わせを経て創られたその授業の報告に接するとき、ここに子どもの声や願いから出発した本物の道徳授業、道徳教育実践があるとの思いを深くします。
それと同時に危惧されるのは、「道徳の教科化」のもとでは「道徳」の授業の多くが『私たちの道徳』、やがては検定道徳教科書の使用によって拘束される反面、地域・学校・学級を基盤とした教師の教育実践創造の自由が奪われたり、狭められたりすることです。
同時に懸念されるのは、「道徳」の授業が子どもの実生活から遊離したものになる危険です。
たとえば小学校1・2年の『わたしたちの道徳』の「1自分を見つめて」の「(2)自分でやることはしっかりと」に「小さなど力のつみかさね-二宮金次郎-」と題する読み物資料があります。その昔、修身教科書に登場した二宮金次郎の話ですが、今は多くの学校にその銅像もなければ、あまり聞いたこともない人物で、この教材がどれほどに子どもの心に響くというのでしょうか。
また、「道徳の教科化」の根底にある強制の論理は、教師の超多忙化とも相まって、容易に実践の形式主義化(形ばかりの授業)と結び付くものであることも指摘しておきたいと思います。
◆ 学問的な検討が必要「道徳性の評価」は「人格の評価」
科学と教育との結合、教育と実生活との結合という二原則にもとついて子どものための道徳教育を創造する自由を、教師と父母・市民との協力によって打ち立てたいと思います。
道徳教育における評価、なかでも教育活動の評価とは区別される道徳性の評価は、それが「人格評価」であるだけに、きわめて慎重な考慮を要するところです。教師による評価、子どもの自己評価、さらには子どもどうしの相互評価などを視野に入れながら、それらがどのような条件のもとで子どものさらなる成長の契機となり得るのか、学問的な検討が必要です。
教師と子ども、子どもどうしの信頼関係は、その際の不可欠の条件といえるでしょう。しかし、「道徳の教科化」が含み持つ強制、そして国家によるインドクトリネーション(国定道徳のおしつけ)という性格は、評価がたとい文章記述によるものであるにせよ、子どもに「面従腹背」という非教育的な作用を及ぼす恐れがあります。その評価が競争の教育と結び付けば、なおさらのことです。(ふじたしょうじ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』95号(2014.4)
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