☆ 人として認められる権利(『月刊社会民主』から)
前田 朗(東京造形大学)
本年一月一三日、トルコ国籍クルド人とイラン国籍の二人がいずれも母国での迫害を逃れて来日し難民認定を求めたが、在留期限が切れ一〇年以上にわたって収容と仮放免を繰り返されたため、国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約)に反するとして国に損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
一月一七日、大村入管収容中に適切な治療を受けられず症状が悪化し歩行困難になったとして国に損害賠償を求めているネパール人男性が、医療環境改善や手術を求めて長崎県弁護士会に人権救済を申立てた。
この国で外国人は人として認められているだろうか。
昨年三月、名古屋入管収容中のスリランカ人女性が病気治療を拒否されたまま死亡したことが報じられた。
国会上程中の入管法改正案は外国人の人権を無視するものと批判が集まり、廃案となった。
入管収容中の外国人が亡くなったのは初めてではない。
二〇二〇年一〇月、名古屋入管でインドネシア人男性が死亡。
一九年六月、大村入管でナイジェリァ人男性が死亡。
一八年四月、牛久入管でインド人男性が自殺。
一七年三月、牛久入管でベトナム人男性が死亡。
入管施設では毎年のように外国人が命を失ってきた。
入管だけではない。
一月一七日、ベトナム人技能実習生男性が日本人従業員から繰り返し暴行を受け、骨折などの重傷を負ったとして岡山地裁に提訴した。
中国人技能実習生への人権侵害も繰り返されてきた。
国家も民間企業も外国人を人として扱っていないのではないか。
人として認められることは人権の前提である。一九四八年の世界人権宣言第六条は、「すべて人は、いかなる場所においても、法の前において、人として認められる権利を有する」と定める。同第一条は
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」
としている。
人として認められる権利という当たり前のことが宣言されたのは、人を人として認めない国家が存在したからだ。ナチス・ドイツはアウシュヴィツ強制収容所等の「絶滅収容所」において大規模かつ組織的にユダヤ人虐殺を敢行した。ユダヤ人を「ゴキブリ、ウジ虫」と蔑視した極端な差別政策の行き着いた先がアウシュヴィツである。
日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や南京大虐殺をはじめ、日本軍が植民地や占領地で行った残虐行為を想起すれば、宣言第六条の重要性は容易に理解できるだろう。
国際自由権規約第一六条も
「すべての者は、すべての場所において、法律の前に人として認められる権利を有する」と定める。
米州人権条約第三条及びアセアン人権宣言第三条も類似の条文である。
ところが日本国憲法にはこれに対応する条文がない。
憲法は「国民」の権利を保障する。憲法前文は「日本国民」で始まり、憲法第三章の権利規定の大半が国民の権利を定める。
人を人として認めない社会で国民の人権が本当に認められるだろうか。
『月刊社会民主』2022年3月
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