☆ 日本軍「慰安婦」問題の解決は、女性の人権・平和の未来をひらく!
真相究明・謝罪・賠償・歴史を若い世代へ
戦時性暴力問題連絡協議会
ベルリン・ミッテ区の「平和の少女像」は2020年9月、ヨーロッパで初めて公共の敷地に建てられましたが、設置直後から日本政府の強力なロビー活動がおこなわれ、建立から10日でミッテ区が撤去命令を出すという事態になりました。
ところが日本政府の露骨な言動が却ってドイツ国内、そして世界各国の市民やメディアの批判を呼び、ミッテ区は撤去命令を撤回、2022年には設置期間が2年延長されて現在に至っています。
そしてその延長期間が終了する今年9月28日に向けて、再び撤去に向けた動きが活発になっています。
現在、ミッテ区長は「区は直接撤去しない」「(設置団体である)コリア協議会が自ら撤去することになるだろう」と言い、撤去しなければ9月29日から過怠料を科すとしています。
このような事態になったのは、この4年間、日本政府が休むことなく撤去をさせるための活動をおこなってきたからです。
駐独日本大使館は「像は、『慰安婦』問題への取り組みを含め、戦後日本の平和国家としての歩みと(2015年の)日韓間の合意を一切無視し、日本を永続的に非難する象徴のようなもの」と、撤去を求める理由を述べています(8月10日付『神奈川新聞』)。
しかし、これは現地市民の認識と大きくかけ離れています。「ベルリンの少女像は『日韓の対立』とはかけ離れた独自のものになっている」と言うライプツィヒ大学のドロデア・ムラデノヴァさんは、「ベルリンの少女像はドイツ国防軍の性暴力をドイツ市民に知らせ」「移民が人口の半数以上を占めるベルリン・ミッテ区で人種差別に反対する象徴としても機能してきた」「建てられる場所ごとに新しい意味合いが追加されることが平和の少女像が持つ魅力だ」と語っています。
平和の少女像が持つこのような意義が理解できない日本政府は、設置団体であるコリア協議会の教育活動まで妨害しています。
その一例として、コりア協議会が毎年ベルリン市から助成金を受け取って実施してきた青少年への人権教育プロジェクトに対し、その審査をする諮問委員を五つ星ホテルでの食事に招待して反対票を投じるよう説得したことがドイツメディアによって暴露されました。
国家が他国の市民団体の活勤にまで圧力を加える、このようななりふり構わぬ恥ずべき行動を、私たち日本の市民は決して許してはなりません。
☆ ペルリン平和の少女像碑文
○ 平和の少女像の意味
この像の服装は第2次世界大戦終結以前のものです。
バッサリと切られた髪は、少女や若い女性に対する暴力的な拉致を示しています。
握りこぶしと爪先立ちしている踵は、彼女たちが帰国後も味わった恥と孤立の生活と、辱めを受けても決してあきらめなかった強い意志を表わしています。
肩に止まった鳥は平和と自由、そして生者と死者との絆を意味しています。
床の石の板にモザイクで埋め込まれた影は、老いた女性の姿になっています。それは、正義を待ち望みながら過ぎ去った長い時間を強調しています。
白い蝶は、再生と、責任者からの真実の謝罪を望んでいることの象徴です。
空の椅子は、そこに少女と隣りあって座って被害者たちの思いを感じるように私たちを招いています。
そこには、このことを忘れません、そして平和な世界をめざして行動しますという次世代のすべての者たちからの約束が込められています。
平和の少女像が初めて建てられたのは、2011年、韓国ソウルの日本大使館前でした。1992年から、そこで続けられてきた日本軍性奴隷制問題解決のための水曜デモの1000回を記念して建てられました。
デザインは、金セギュンと金ウンソンという二人の作家と韓国の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義と記憶連帯」によるものです。
○ 平和の少女像
第2次世界大戦中、日本軍はアジア・太平洋地域から多数の少女や女性を拉致し性奴隷となることを強要した。
平和の少女像は「慰安婦」とよばれた女性たちの苦難を記念するものである。また1991年8月14日に沈黙を破った金学順さんと、それに続くサバイバーたちを讃え、このような惨禍が世界中で二度と繰り返されないことを求めるものである。
韓国の正義記憶連帯寄贈 ベルリンのコリァ協議会建立
2020年8月14日
(日本軍『慰安婦』問題解決全国行動仮訳)
☆ 金学順(キム・八クスン)さん
日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だと言っているニュースを聞き、そんな嘘を言うのかと怒り、1991年に自分自身がその証人だと「慰安婦」にされたことを名乗りでました。
彼女のカムアウトは、アジアはもちろんオランダなど元日本軍の性暴力を受けた女性たちが次から次へと立ち上がる勇気につながり、さらに国際的に性暴力は犯罪であるという共通認識につながりました。
金学順さんは、まさに#MeToo運動の先駆者です。
☆ インドネシア(南スラウェシ州)チンダ・レンゲさん
パレパレのウジュンバルにあった綿繰工場で母親とともに働かされた。13歳だった。
彼女はオケダという将校に工場の敷地内に隣接する慰安所に拉致され、強姦された。慰安所に捉えられている間に両親は死亡。親族から追い出され、一人でお手伝いをしながらお金を貯め、お菓子を作って売り歩くようになった。
2016年、84歳の時初来日し、自らの被害を証言した。最近は足腰が弱りお菓子を売り歩くことができなくなっている。
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