《東京新聞【時代を読む】》
◆ 子どもの安全、どう考える
子どもが暴力の犠牲となる事件が起こると、私たちは衝撃を受け、悲しみと怒りに圧倒される。そして考える。このようなことが二度と起こらないよう、何ができるのか。
多くの場合、そこで取られるのは保護・管理の強化だ。例えば、見守りの強化。子どもだけでの外出の制限。何としてでも子どもの安全を守りたい、という思いは当然だし、短期的な非常事態のもとでは必要だろう。
だが、子どもへの暴力は、「不審者にいきなり捕らえられ暴行される」ものばかりではない。実際にはより日常に埋め込まれた、いじめ、虐待、性暴力といった被害が多い。
これらへの対応を根本から考えるならば、保護・管理の強化は不十分であるばかりか、負の側面を持つ。
「~してはだめ」「さもないと怖い目に遭う」と言われることで、子どもは「自分は無力な存在だ」「世界は恐ろしい」と感じるようになり、元気をなくしてしまうからだ。
では、長期的に見て大切なのは何だろうか。
この問いに「子どもの主体性の尊重である」と答えるのは、子どもへの暴力防止プログラム「CAP」である。
これは、三歳から十八歳までの子どもたちを対象に、寸劇などを取り入れながら「皆が権利を持つ存在」「嫌なときはノーと言っていい」と伝えていく。
そして、暴力に関する情報や具体的に役立つ対処法を教えていく。
そこでは子どもは、守られるだけの受動的な存在ではなく、危険を察知する知恵と身を守る技術を持った、主体的な存在と見なされるのだ。
私たちは、つい「暴力について語ると怖がらせてしまうのでは」と感じ、子どもに情報を与えないという選択をしがちだ。
もちろん、過激な暴力描写などを遠ざけるのは当然だが、「あなたは知らなくていい」とされつつ「~してはだめ」と禁止される経験は、子どもに何をもたらすだろう。
そこには、漠然とした暴力の可能性へのおびえと無知、それに「蚊帳の外」に置かれたような疎外感が生じはしまいか。
そして実際に危ない目に遭えば、「あの時言いつけを守らなかったから…」と自分を責め、被害を膨らませてしまいかねない。
安全の実現において子どもの主体性を尊重することは、「何かあったら自己責任」と大人並みの自衛を期待することとは違う。
子どもは成熟の過程にある弱さを抱えた存在であり、大人によって保護され、教育されることは子どもの権利であろう。
ここで言いたいのは、「暴力から子どもを守る」というプロジェクトに、子ども自身にも参加・協力してもらう、ということだ。
大人である私たちは、あなたたちを守りたいと頑張っているけれど、残念ながらこの社会から暴力はまだなくならない。だからどうか、あなたたちも、自分を大切にし、知恵と勇気を持って暴力にあらがってほしい。
そして、人の権利を尊重できる大人になってほしい。そう伝えていくことだ。
子どもの主体性に信頼を置かない管理強化は、おそらく「子どものため」というよりも、大人の側の不安の反映である。
だが、どんなに管理を徹底しても、子どもは必ずそれを逃れて自由の領域をつくり出すだろう。
それをとがめるのではなく喜べる、大人の社会でありたい。
『東京新聞』(2018・5・20【時代を読む】)
◆ 子どもの安全、どう考える
貴戸理恵(関西学院大学准教授)
子どもが暴力の犠牲となる事件が起こると、私たちは衝撃を受け、悲しみと怒りに圧倒される。そして考える。このようなことが二度と起こらないよう、何ができるのか。
多くの場合、そこで取られるのは保護・管理の強化だ。例えば、見守りの強化。子どもだけでの外出の制限。何としてでも子どもの安全を守りたい、という思いは当然だし、短期的な非常事態のもとでは必要だろう。
だが、子どもへの暴力は、「不審者にいきなり捕らえられ暴行される」ものばかりではない。実際にはより日常に埋め込まれた、いじめ、虐待、性暴力といった被害が多い。
これらへの対応を根本から考えるならば、保護・管理の強化は不十分であるばかりか、負の側面を持つ。
「~してはだめ」「さもないと怖い目に遭う」と言われることで、子どもは「自分は無力な存在だ」「世界は恐ろしい」と感じるようになり、元気をなくしてしまうからだ。
では、長期的に見て大切なのは何だろうか。
この問いに「子どもの主体性の尊重である」と答えるのは、子どもへの暴力防止プログラム「CAP」である。
これは、三歳から十八歳までの子どもたちを対象に、寸劇などを取り入れながら「皆が権利を持つ存在」「嫌なときはノーと言っていい」と伝えていく。
そして、暴力に関する情報や具体的に役立つ対処法を教えていく。
そこでは子どもは、守られるだけの受動的な存在ではなく、危険を察知する知恵と身を守る技術を持った、主体的な存在と見なされるのだ。
私たちは、つい「暴力について語ると怖がらせてしまうのでは」と感じ、子どもに情報を与えないという選択をしがちだ。
もちろん、過激な暴力描写などを遠ざけるのは当然だが、「あなたは知らなくていい」とされつつ「~してはだめ」と禁止される経験は、子どもに何をもたらすだろう。
そこには、漠然とした暴力の可能性へのおびえと無知、それに「蚊帳の外」に置かれたような疎外感が生じはしまいか。
そして実際に危ない目に遭えば、「あの時言いつけを守らなかったから…」と自分を責め、被害を膨らませてしまいかねない。
安全の実現において子どもの主体性を尊重することは、「何かあったら自己責任」と大人並みの自衛を期待することとは違う。
子どもは成熟の過程にある弱さを抱えた存在であり、大人によって保護され、教育されることは子どもの権利であろう。
ここで言いたいのは、「暴力から子どもを守る」というプロジェクトに、子ども自身にも参加・協力してもらう、ということだ。
大人である私たちは、あなたたちを守りたいと頑張っているけれど、残念ながらこの社会から暴力はまだなくならない。だからどうか、あなたたちも、自分を大切にし、知恵と勇気を持って暴力にあらがってほしい。
そして、人の権利を尊重できる大人になってほしい。そう伝えていくことだ。
子どもの主体性に信頼を置かない管理強化は、おそらく「子どものため」というよりも、大人の側の不安の反映である。
だが、どんなに管理を徹底しても、子どもは必ずそれを逃れて自由の領域をつくり出すだろう。
それをとがめるのではなく喜べる、大人の社会でありたい。
『東京新聞』(2018・5・20【時代を読む】)
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