☆ 「チェルノブイリ」歌い継ぐナターシャさん
▼ 「故郷失う・・・私で最後に」
福島第一原発事故で周辺住民の多くが一時避難を余儀なくされている。旧ソ連ウクライナ共和国(現ウクライナ)で1986年に起こったチェルノブイリ原発事故では、約40万人が故郷を失った。チェルノブイリ救援コンサートを日本各地で続けてきたウクライナ出身の歌手ナターシャ・グジーさん(31)=東京都葛飾区在住=は何を思うのか。(佐藤圭)
▼ 音楽で東北に笑顔を
「本当に言葉がない。皆さんの不安な気持ちはよく分かるとしか言えない。私の故郷と同じ状況にならないことを祈っている。一日も早く家に戻れるようになれば…」
ナターシャさんの目に映る避難民の姿は、かつての自分にほかならない。
六歳の時、事故に見舞われた。父親は原発従業員。自宅は原発から三・五キロしか離れていなかった。周辺住民は、当局の不手際で事故後一日半も放置された。ナターシャさんは、母親の機転で「屋内退避」したが、多くの住民が大量の放射性物質に汚染された。
原発から半径三十キロ圏内は強制避難の対象になった。ナターシャさん一家は列車で逃げた。その時点では一時避難か、移住かは定かではなかったが、「二度と戻れないと直感した。だから車窓から見える森や小麦畑を一生懸命、記憶にとどめようとした」。
祖母の家や学校の寮などの疎開先を転々とした。「すごく寂しかった。両親もつらい思いをしているように見えた」事故から約半年後、ようやくキエフ市のマンションに落ち着くことができたが、学校では、移住組と地元組とのいさかいが絶えなかった。父親は再び、原発で働かざるを得なかった。
ナターシャさんに生きる力を与えたのが音楽だった。ウクライナ独特の弦楽器「バンドゥーラ」に魅せられ、八歳から音楽学校で学んだ。九六、九八年、市民団体が招いた民族音楽団の一員として来日し、チェルノブイリ救援コンサートを全国各地で開いた。九九年末から東京に拠点を置き、日本語を学びながら全国を回っている。
「私自身に後遺症はないが、今でも多くの人たちが重い病気に苦しんでいることを知ってもらいたい」。そんな思いで歌ってきたが、日本で“チェルノブイリ級”の事故が起こってしまった。
放射能汚染におびえる福島県郡山市、津波に流された宮城県気仙沼市…。お世話になった人たちの顔が次々と浮かんでくる。「数カ月前、一緒に散歩したり、食事したりした人もいる。悲しくて、悲しくて…」
自分に何ができるか。チャリティーコンサートの予定は入っているが、もっと子どもたちを力づける方法はないか。
「事故当時、何が起こっているのか、故郷に戻れるのかを親に話してもらいたかった。一人の人間として子どもと接することが大切です」
子どもたちには、打ち込めるものを見つけてほしいと願う。「私には音楽があったから、いろんなつらいこども乗り越えることができた。子どもたちが心から笑える日が早く来てほしい」
◆ 「花まつりの夕ベチャリティーコンサート」”七日午後六時、かや寺本堂(台東区蔵前三の二二の九)=電03(3851)4729。
『東京新聞』(2011/4/4【ニュースの追跡】)
天使ってホントに居てたんですね。明日も生きて行ける。。?
futtimo 1 か月前
♪ フランスの教会で歌われる「いつも何度でも」
http://www.youtube.com/watch?v=aOXgk-i7zIg&feature=related
感動しました。
素敵すぎです
涙が出てきました。
yuu11031 2 か月前
▼ 「故郷失う・・・私で最後に」
福島第一原発事故で周辺住民の多くが一時避難を余儀なくされている。旧ソ連ウクライナ共和国(現ウクライナ)で1986年に起こったチェルノブイリ原発事故では、約40万人が故郷を失った。チェルノブイリ救援コンサートを日本各地で続けてきたウクライナ出身の歌手ナターシャ・グジーさん(31)=東京都葛飾区在住=は何を思うのか。(佐藤圭)
▼ 音楽で東北に笑顔を
「本当に言葉がない。皆さんの不安な気持ちはよく分かるとしか言えない。私の故郷と同じ状況にならないことを祈っている。一日も早く家に戻れるようになれば…」
ナターシャさんの目に映る避難民の姿は、かつての自分にほかならない。
六歳の時、事故に見舞われた。父親は原発従業員。自宅は原発から三・五キロしか離れていなかった。周辺住民は、当局の不手際で事故後一日半も放置された。ナターシャさんは、母親の機転で「屋内退避」したが、多くの住民が大量の放射性物質に汚染された。
原発から半径三十キロ圏内は強制避難の対象になった。ナターシャさん一家は列車で逃げた。その時点では一時避難か、移住かは定かではなかったが、「二度と戻れないと直感した。だから車窓から見える森や小麦畑を一生懸命、記憶にとどめようとした」。
祖母の家や学校の寮などの疎開先を転々とした。「すごく寂しかった。両親もつらい思いをしているように見えた」事故から約半年後、ようやくキエフ市のマンションに落ち着くことができたが、学校では、移住組と地元組とのいさかいが絶えなかった。父親は再び、原発で働かざるを得なかった。
ナターシャさんに生きる力を与えたのが音楽だった。ウクライナ独特の弦楽器「バンドゥーラ」に魅せられ、八歳から音楽学校で学んだ。九六、九八年、市民団体が招いた民族音楽団の一員として来日し、チェルノブイリ救援コンサートを全国各地で開いた。九九年末から東京に拠点を置き、日本語を学びながら全国を回っている。
「私自身に後遺症はないが、今でも多くの人たちが重い病気に苦しんでいることを知ってもらいたい」。そんな思いで歌ってきたが、日本で“チェルノブイリ級”の事故が起こってしまった。
放射能汚染におびえる福島県郡山市、津波に流された宮城県気仙沼市…。お世話になった人たちの顔が次々と浮かんでくる。「数カ月前、一緒に散歩したり、食事したりした人もいる。悲しくて、悲しくて…」
自分に何ができるか。チャリティーコンサートの予定は入っているが、もっと子どもたちを力づける方法はないか。
「事故当時、何が起こっているのか、故郷に戻れるのかを親に話してもらいたかった。一人の人間として子どもと接することが大切です」
子どもたちには、打ち込めるものを見つけてほしいと願う。「私には音楽があったから、いろんなつらいこども乗り越えることができた。子どもたちが心から笑える日が早く来てほしい」
◆ 「花まつりの夕ベチャリティーコンサート」”七日午後六時、かや寺本堂(台東区蔵前三の二二の九)=電03(3851)4729。
『東京新聞』(2011/4/4【ニュースの追跡】)
♪ いつも 何度でも ♪ 「千と千尋の神隠し」
作詞/覚 和歌子
作曲/木村 弓
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
*
la la lan lan la lan la-la-la-la
lan lan la lan la-la-la-la
lan lan la la lan la la
la lan la-la-la-la lan
o ho ho ho ho ho ho-ho-ho-ho
lun lun lu lu-lu-lu-lu-lu-lu
lu-lu-lu-lu lun lu lu lu lun
lu lu lu___________
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに みつけられたから
*(繰り返し)
天使ってホントに居てたんですね。明日も生きて行ける。。?
futtimo 1 か月前
♪ フランスの教会で歌われる「いつも何度でも」
http://www.youtube.com/watch?v=aOXgk-i7zIg&feature=related
感動しました。
素敵すぎです
涙が出てきました。
yuu11031 2 か月前
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