
◆ 桜井智恵子さん講演(大阪ネット5.7集会報告から)
『教育は社会をどう変えたのか?~カメラのように思想を使う~』
《ひとつの問いから》
みなさんならどうされますか?そんな問いからお話は始まった。
近所に住む小学1年生がやって来て、「宿題をちょっと手伝ってよ」と言われたらみなさんはどうされますか、という問いである。さあ、どうしますか?
私も考えてみた。小学1年生とはいえ、宿題である。教えることはやぶさかではないが、きっと「まず、自分の力でやってご覧」というように思う。
そもそも勉強はひとりでやるものだ。大勢いてはできない。テストだって、少しでも隣の人と話そうものならカンニングとみなされる。
さて、桜井さんは続けてこう言われた、「私はものすごく悩んでぐずぐずして、その辺が近代人やね」と。
もうおわかりかもしれないが、実はこの問いは、桜井智恵子さん一の新著『教育は社会をどう変えたのか、個人化をもたらすりベラリズムの暴力』(以下、本書)へのプロローグともいえる。
今回のお話は、まさに本書に沿ってできるだけ易しくわかりやすく、それでいて、本書の真髄というか、新自由主義批判ではなく、そこへいくまで自由主義がはらみ続けた「個人化」の暴力がテーマであった。
《「個人」ができて三百年》
私たちは一人で何かをするというふうに、ここ三百年ほど仕向けられてきたと桜井さんは言われる。
なるほど、ついつい私たちは、「個人」は絶対!とでもいうように考えがちであるが、長い歴史の中で振り返れば、「個人」とはまさに近代の所産というわけである。そしてその前にあったのは「共同体」であると。
ここでマルクスが出てくる。共同体をまず壊してから資本が生まれた、そしてその頃「学校」もできたと。
近代が生み出した自由主義。私たちは、プラス価値というか、ごくごく当たり前によきものと受け止めている。
「一人で何かができるようにがんばれ」、教員も含めておそらく多くの大人たちが子どもに放つ言葉だろう。桜井さんは本書でそのことを問うたと言われる。
《天皇制教育?!》
また、最近の学校現場のニュースにも触れられた。話題になった茨城県の先生のパンフレット(茨城県の先生になろう:2022年茨城県教委)、2年前さいたま市であったコロナで苦労をしている医療従事者の方に十万人一斉に拍手しようという記事について、異常で気持ちが悪い、天皇制教育のようだと新聞記者にコメントをしたと話された。
ここでは、人間らしく働くことができないゆえ教員不足にもなると現状について話された。
おお、それにしても天皇制教育とは!私たちとしては、機会があれば、今度は是非とも天皇制教育というテーマでお話を伺いたい。
《「個別最適化」批判》
本書には学校の原理が資本主義の中で動かされていると書いたが、一昨年書いた「個別最適化」批判の論文(『EdTechコロナシヨック~「なんと素晴らしい瞬間」~』)、その問題意識を共有したいと学会から声がかかったと桜井さんは言われた。これは私たちにとっても、とても喜ばしいことだ。
教育学会もこれまでの教育学では、この現状に太刀打ちできないと考えているのかもしれない。
それにそもそも政府の教育政策のホットなキーワードともいえる「個別最適化」や「ウェルビーイング」に魅力を感じる人も少なくはなさそうだ。
桜井さんは、それらの政策がどこからくるのか、つまり政治や経済との関係性を明らかにしながら批判されるので非常に説得力がある。
例えば、軍事費は倍にしても教育や福祉のお金は減らしていくことの問題性を語られる。
《「個別化」される人々》
教育が抱えている問題は教育の話だけで乗り越えることはできない。つまり、政治や経済を視野に入れて考える必要がある。
今、政治や経済によって人々は個別化されている。自己責任や個人で頑張るという価値を注入された若い人たちは大事な相談は誰にもできないという。
子どもから相談を受けても親にも言えない、友達にも言えないという人たちがどんどん増えている、ミシェル・フーコーの規律権力、自己監視が、日本は世界で一番強い社会だとも言われた。
《グローバル人材を作るための道徳教育》
道徳教育が規定されてきた教育政策の歴史を見ていると、いわゆる愛国心批判が教育学の批判としては多いが、本書では、道徳教育によりグローバル人材に向けた人を作っていく、そのための道徳教育であることを書いたと。
なるほど、現在の道徳教育の狙いが見て取れる。
《公教育の多様化》
公教育における多様化という問題は、教育磯会確保法でいわれている、“居場所”など学校以外のすべてを教育制度として包摂するという問題は果たしてよいのか、岡村達雄さんの養護学校義務化批判の議論をなぞりながら論じたと言われた。
《支援は支配》
「支援は支配よ」という言葉を紹介され、私たちは「能力に応じて」を問いなおすことが求められていると。
この言葉は、マルクスが有名にした言葉であるが、「必要に応じて」とワンセットだったのが、「必要に応じて」は消されてしまったと。今、それを問い直す必要があると。
《グルントリッセ》
「グリントリッセ」というのは、マルクスが資本論以前に書いた経済学批判要綱と言う短い文章だそうだが、マルクスの思想の中でも最高峰だと、あのネグリが言っていると。
共同体を壊してから資本が生まれたが、共同体をきちんと見たときに現代の問題が見えてくる。
宿題は一人でやるというリベラリズム批判として再解釈する必要があるとのコメントをいただいたと話された。
《別の生のあり方論序説…アナキズムなるものの「陣地戦」》
本書の最終章に希望のありかと書いたが、それに続く、別のあり方も可能だとの論文(『別の生のあり方論序説”アナキズムなるものの「陣地戦」』)を発表したことを紹介された。おお、本書に続いてこれは読むべき論文だ。
《「こどもまんなか」政治批判》
そして、『現代思想』4月号に寄稿された論考(こども家庭庁の「こどもまんなか」政治ネオリベラルな「ウェルビーイング」)について話をされた。
アマルティア・センの「潜在能力」について、これは、つまり実際に貧しい人にお金を配るのをやめて全員に潜在能力があるのだから国家や資本にとってはおいしい話だと。
《桜井先生、ラジカル!》
「ゆっくりしやべって優しそうな喋り方のくせにむちゃくちゃ過激なことをガンガンしやべっています」と言われたが、桜井さんはまさに現在もつともラジカルな学者さんのように思う。
教育は社会をどう変えてきたのか、これは教育や学校の問題で済まない。
どういうふうに学校は仕向けられて、どんなふうに教育基本法が使われて、学習はどんなふうに、あるいは教育労働はどんなふうに、そこをみていくと、子ども問題は開発経済の問題であると。
“宿題は一緒にやる”世界はどうやったら見えてくるか。
例えばアナキズムの話でいうと、ロジャヴァはアナキズムで直接民主主義が行われている地域だが、厳しい状況で仕事がなかったのが直接民主主義の中でみんな仕事をするようになったという。
同じ世界に資本主義とは違う実践が見えたりもする。そういったところに視野を向けて、思想をカメラのように使いながら、今ここでの学校を見ていく。
《子ども問題は開発経済の問題》
こども家庭庁の問題は、「家庭」が入ったというレベルではなく、「こどもまんなか」自体が気掛かりだ。
もっと頑張って力強く経済成長する「子ども」を「真ん中」にすれば、開発経済のとりこの中で市民社会は破綻していくだろうと。
「ウェルビーイング」という言葉は心理的に使われている。
福祉研究や教育研究の中で「個人の問題」に閉じ込められてしまい、「支援」が便利使いされている。
それらが、結局資本主義を支えていくという論理について、今肩は入り口としてみなさんと考えたと。
不平等を解消し自由に伸びやかに生きたい、とにかく働く、とにかく頑張るから自由になりたい。
経済と労働構造の非人間性に気づき、そして仕組みを新しく作るというのはもうやめて、時にはみんなで拒否する、そういうみんなを作っていく、そのために知恵を分かち合いたいと締め括られた。
『大阪ネットニュース 25号』(2022年5月28日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます