《へこたれない人々》
☆ 離婚は"マルイチ" 苦しむ女性に勇気を
女性差別と闘う弁護士 なかむらくるみさん
■ 生気が戻る依頼者たち
東京・南青山の一角にある法律事務所。一歩足を踏み入れると、豪華な客間のような空間が広がる。壁にはフランスの画家による絵画、曲線を描くテーブルには輝くガラス飾り。弁護士の中村久瑠美(65)は、深紅のスーツ姿でほほ笑む。
事務所には、離婚や相続などの家事問題に疲れ切った女性たちが暗くこわばった表情でやってくる。「その方たちが、一時間くらい胸のつかえを吐き出すと、お顔に血の気が戻ってくるんです」
仕事のかたわら、離婚を成立させた女性たちの「マルイチ会」も結成。離婚で自信を失い、不安にさいなまれる元依頼者に「“バツイチ”ではなく、前向きにとらえて“マルイチ”に」と呼び掛ける。会員は離婚関連のテーマで討論したり、自分の経験を言葉にしたり…。旅行や音楽会、食事会にも出掛ける。
自身も社交ダンスが趣味。「気持ちを切り替えないと、生きる力がわかないでしょう」と常に前向きだ。法科大学院の講師も務める多忙な毎日だが、「一度にいろいろなことを効率よくこなすのは得意」と笑う。
■ 裁判官のDV夫と別れ
日々、苦悩する女性たちをプロの手腕で支える。そんな中村が、今から四十年前の冬、北国の冷たく暗い官舎で、血を流して倒れていた。
【左目が、開かない。座布団にはべっとり血がつき、両手は真っ赤。鼻がつぶれて左横に曲がり、顔中にアザが広がっている。唇はもっこりと厚く腫れ、端が大きく切れている。血が首筋を伝わり、二目とみられない形相だ。「これが私の顔?」。絶望で気を失いそうになった…】
これは、中村が先ごろ出版した自伝『あなた、それでも裁判官?』に記した一節だ。当時、二十五歳。三ヶ月前に長男を産んだばかりの中村に、夫がふるった暴力の結果だった。
夫に「赤ん坊のミルク代と出産費用を出してほしい。子どものための貯金もしたい」と頼んだ。すると夫は「貯金なんてくだらん」と叫び、「貴様、こうやって殴られたいか、もっとか」と顔面を続けざまに殴ってきた。重傷を負って入院。片目が失明寸前になった。
この暴力夫が、裁判官だった。その事実を、著書で初めて明らかにした。
その理由を「わたくしの若いころと比べて、時代は変わった。今だからこそ、かつての司法の中の女性差別を、生き証人として記録に残さなければと思って…」。
東京・成城に生まれ育った。大学卒業後すぐに裁判官の夫と出会い、半年後に結婚。新婚生活は夫の赴任先でスタート。
しかし、初めて官舎に足を踏み入れた瞬間、夫に平手打ちされた。理不尽な暴力の始まりだった。エリートとして大事に育てられた”殿様”の夫は、「女は暴力で矯正するもの」と信じていた。
「寒い」と口にしただけで、「そんなこと分かってんだよ」と殴ってくる。暴力に理由はなかった。その後、謝って優しくし、また殴るけるの繰り返し。
当時はDV(ドメスティックバイオレンス=配偶者らによる家庭内暴力)という言葉もなく、一時避難のシェルターもなかった。
■ 身内に甘い裁判所体質
重傷を負った暴力事件当時、相談した夫の上司の裁判長は「警察には行くな」と中村を止めた。裁判官が妻から傷害罪で刑事告訴などされたら困るからだ。人権感覚が薄く、身内の不祥事に甘いー。それが裁判所の体質だと痛感した。
中村は「裁判官は女性を人間扱いしているのか。日本の司法はどうなっているのか。強い疑問がわいた。元夫は弁護士になるきっかけをつくってくれたのです」と皮肉な巡り合わせを振り返る。
妻を大けがさせた傷害事件の“犯人”が、刑事裁判官として、神様のように被告を裁く。その矛盾に悩み、暴力の後遺症に苦しんでいたある日、夢の中で言葉が聞こえた。
「夫に殴られて耐え忍ぶ女たちや、独善的な裁判官に不当な判決を強いられた人、法律知識がないばかりに解決の道を見いだせない人がいる。なぜそうした人々の力になろうとしないのか?」
衝撃だった。自分以上に苦しむ女性たちの存在に、なぜ気付かなかったのか。最高学府で学んだことを、社会に生かせていない。自らを恥じた。
離婚して司法試験を受けようと決意。哺乳瓶を片手に、六法全書と首っ引きで猛勉強を始めた。かわいい盛りの子どものためにも「何が何でも合格する」と誓った。そして、離婚成立から二年後の一九七五年。二度目の挑戦で合格した。
ところが晴れて司法修習生となって遭遇したのが、女性修習生への差別発言事件だった。第三十期の修習生四百六十一人のうち、女性はわずか三十一人。その女性たちを教官の裁判官が個別に呼び出し、「裁判官や検事、弁護士になるなんて考えずに、良い奥さんになる方がいい」「女に裁判は分からない」などと発言したのだ。
差別発言問題は連日新聞をにぎわした。女性弁護士らは日弁連と法務委員会に調査と抗議を申し入れた。ときは高度経済成長期の真っただ中。効率重視のための性別役割分担意識の強まりが、差別発言の背景にあった。だからこそ七〇年代前半、最高裁人事局長や研修所幹部の裁判官は「女性はいらない」と明言していたのだ。
■ 男性優位の世の中不変
中村は、元夫やその上司を思い出しながら、一連の騒ぎを「そんなものだろう」と冷静に見ていた。だが、子どもの入学式のために休暇願を出したときに衝撃を受ける。
修習担当の裁判長は「下宿の引っ越しがある」という男性修習生にすぐ休暇を許可。しかし、入学式が理由の休暇願には絶句し、答えなかった。
女・母ということを持ち出すのはタブー。差別発言事件は裁判官全体の発想だと痛感した。
それから三十年余ー。女性の社会進出は進み、いまや司法試験の女性合格者は三割近い。昨年は裁判員制度が導入され、裁判員全員が女性という法廷も開かれた。
それでも数年前、ある雑誌の依頼で、中村が「DV夫から逃れ、主婦から弁護士になった」という自分自身の話を掲載したところ、その記事を握り締めて中村のもとに駆け込んでくる女性が何人もいた。夫のDVを誰にも相談できず、逃げられず苦しむ人たちだった。
「まだまだ男性優位の世の中や司法界の古い体質は変わっていないし、一般の人にとって司法は遠い存在。苦しむ女性たちを司法とつなぐ存在でありたい。勇気を持ってもらいたい。これからも仕事は終わりません」 (敬称略、出田阿生)
※中村久瑠美(なかむら・くるみ)
1944年、東京都生まれ東京大で西洋美術史を再攻、同大大学院修士課程修了23歳で裁判官と結婚、専業主婦になる。長男を出産後、夫の暴力が原因で離婚。75年、司法試験に合格。翌年入所した司法研修所で、女性修習生への差別発言事件に遭遇する、81年に中村久瑠美法律事務所を設立。著書に「あなた、それでも裁判官?」「離婚バイブル」「はじめての離婚」など。成践大法科大学院講師。
【デスクメモ】
職場を追われた女性に、弁護士を紹介したら、数週間後に弾むような声で電話があった。応分の金銭補償を手にしたが、何よりも会社に謝罪させ・傷ついた自尊心を修復できたのがうれしかった、と。中村弁護士の決めぜりふも「法律は美容と健康に効く」らしい。どうか明るい美人を増やしてください。(充)
『東京新聞』(2010/1/25【こちら特報部】)
☆ 離婚は"マルイチ" 苦しむ女性に勇気を
女性差別と闘う弁護士 なかむらくるみさん
■ 生気が戻る依頼者たち
東京・南青山の一角にある法律事務所。一歩足を踏み入れると、豪華な客間のような空間が広がる。壁にはフランスの画家による絵画、曲線を描くテーブルには輝くガラス飾り。弁護士の中村久瑠美(65)は、深紅のスーツ姿でほほ笑む。
事務所には、離婚や相続などの家事問題に疲れ切った女性たちが暗くこわばった表情でやってくる。「その方たちが、一時間くらい胸のつかえを吐き出すと、お顔に血の気が戻ってくるんです」
仕事のかたわら、離婚を成立させた女性たちの「マルイチ会」も結成。離婚で自信を失い、不安にさいなまれる元依頼者に「“バツイチ”ではなく、前向きにとらえて“マルイチ”に」と呼び掛ける。会員は離婚関連のテーマで討論したり、自分の経験を言葉にしたり…。旅行や音楽会、食事会にも出掛ける。
自身も社交ダンスが趣味。「気持ちを切り替えないと、生きる力がわかないでしょう」と常に前向きだ。法科大学院の講師も務める多忙な毎日だが、「一度にいろいろなことを効率よくこなすのは得意」と笑う。
■ 裁判官のDV夫と別れ
日々、苦悩する女性たちをプロの手腕で支える。そんな中村が、今から四十年前の冬、北国の冷たく暗い官舎で、血を流して倒れていた。
【左目が、開かない。座布団にはべっとり血がつき、両手は真っ赤。鼻がつぶれて左横に曲がり、顔中にアザが広がっている。唇はもっこりと厚く腫れ、端が大きく切れている。血が首筋を伝わり、二目とみられない形相だ。「これが私の顔?」。絶望で気を失いそうになった…】
これは、中村が先ごろ出版した自伝『あなた、それでも裁判官?』に記した一節だ。当時、二十五歳。三ヶ月前に長男を産んだばかりの中村に、夫がふるった暴力の結果だった。
夫に「赤ん坊のミルク代と出産費用を出してほしい。子どものための貯金もしたい」と頼んだ。すると夫は「貯金なんてくだらん」と叫び、「貴様、こうやって殴られたいか、もっとか」と顔面を続けざまに殴ってきた。重傷を負って入院。片目が失明寸前になった。
この暴力夫が、裁判官だった。その事実を、著書で初めて明らかにした。
その理由を「わたくしの若いころと比べて、時代は変わった。今だからこそ、かつての司法の中の女性差別を、生き証人として記録に残さなければと思って…」。
東京・成城に生まれ育った。大学卒業後すぐに裁判官の夫と出会い、半年後に結婚。新婚生活は夫の赴任先でスタート。
しかし、初めて官舎に足を踏み入れた瞬間、夫に平手打ちされた。理不尽な暴力の始まりだった。エリートとして大事に育てられた”殿様”の夫は、「女は暴力で矯正するもの」と信じていた。
「寒い」と口にしただけで、「そんなこと分かってんだよ」と殴ってくる。暴力に理由はなかった。その後、謝って優しくし、また殴るけるの繰り返し。
当時はDV(ドメスティックバイオレンス=配偶者らによる家庭内暴力)という言葉もなく、一時避難のシェルターもなかった。
■ 身内に甘い裁判所体質
重傷を負った暴力事件当時、相談した夫の上司の裁判長は「警察には行くな」と中村を止めた。裁判官が妻から傷害罪で刑事告訴などされたら困るからだ。人権感覚が薄く、身内の不祥事に甘いー。それが裁判所の体質だと痛感した。
中村は「裁判官は女性を人間扱いしているのか。日本の司法はどうなっているのか。強い疑問がわいた。元夫は弁護士になるきっかけをつくってくれたのです」と皮肉な巡り合わせを振り返る。
妻を大けがさせた傷害事件の“犯人”が、刑事裁判官として、神様のように被告を裁く。その矛盾に悩み、暴力の後遺症に苦しんでいたある日、夢の中で言葉が聞こえた。
「夫に殴られて耐え忍ぶ女たちや、独善的な裁判官に不当な判決を強いられた人、法律知識がないばかりに解決の道を見いだせない人がいる。なぜそうした人々の力になろうとしないのか?」
衝撃だった。自分以上に苦しむ女性たちの存在に、なぜ気付かなかったのか。最高学府で学んだことを、社会に生かせていない。自らを恥じた。
離婚して司法試験を受けようと決意。哺乳瓶を片手に、六法全書と首っ引きで猛勉強を始めた。かわいい盛りの子どものためにも「何が何でも合格する」と誓った。そして、離婚成立から二年後の一九七五年。二度目の挑戦で合格した。
ところが晴れて司法修習生となって遭遇したのが、女性修習生への差別発言事件だった。第三十期の修習生四百六十一人のうち、女性はわずか三十一人。その女性たちを教官の裁判官が個別に呼び出し、「裁判官や検事、弁護士になるなんて考えずに、良い奥さんになる方がいい」「女に裁判は分からない」などと発言したのだ。
差別発言問題は連日新聞をにぎわした。女性弁護士らは日弁連と法務委員会に調査と抗議を申し入れた。ときは高度経済成長期の真っただ中。効率重視のための性別役割分担意識の強まりが、差別発言の背景にあった。だからこそ七〇年代前半、最高裁人事局長や研修所幹部の裁判官は「女性はいらない」と明言していたのだ。
■ 男性優位の世の中不変
中村は、元夫やその上司を思い出しながら、一連の騒ぎを「そんなものだろう」と冷静に見ていた。だが、子どもの入学式のために休暇願を出したときに衝撃を受ける。
修習担当の裁判長は「下宿の引っ越しがある」という男性修習生にすぐ休暇を許可。しかし、入学式が理由の休暇願には絶句し、答えなかった。
女・母ということを持ち出すのはタブー。差別発言事件は裁判官全体の発想だと痛感した。
それから三十年余ー。女性の社会進出は進み、いまや司法試験の女性合格者は三割近い。昨年は裁判員制度が導入され、裁判員全員が女性という法廷も開かれた。
それでも数年前、ある雑誌の依頼で、中村が「DV夫から逃れ、主婦から弁護士になった」という自分自身の話を掲載したところ、その記事を握り締めて中村のもとに駆け込んでくる女性が何人もいた。夫のDVを誰にも相談できず、逃げられず苦しむ人たちだった。
「まだまだ男性優位の世の中や司法界の古い体質は変わっていないし、一般の人にとって司法は遠い存在。苦しむ女性たちを司法とつなぐ存在でありたい。勇気を持ってもらいたい。これからも仕事は終わりません」 (敬称略、出田阿生)
※中村久瑠美(なかむら・くるみ)
1944年、東京都生まれ東京大で西洋美術史を再攻、同大大学院修士課程修了23歳で裁判官と結婚、専業主婦になる。長男を出産後、夫の暴力が原因で離婚。75年、司法試験に合格。翌年入所した司法研修所で、女性修習生への差別発言事件に遭遇する、81年に中村久瑠美法律事務所を設立。著書に「あなた、それでも裁判官?」「離婚バイブル」「はじめての離婚」など。成践大法科大学院講師。
【デスクメモ】
職場を追われた女性に、弁護士を紹介したら、数週間後に弾むような声で電話があった。応分の金銭補償を手にしたが、何よりも会社に謝罪させ・傷ついた自尊心を修復できたのがうれしかった、と。中村弁護士の決めぜりふも「法律は美容と健康に効く」らしい。どうか明るい美人を増やしてください。(充)
『東京新聞』(2010/1/25【こちら特報部】)
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