『袴田巖と世界一の姉 冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』
粟野仁雄=著 花伝社 定価1,980円(税込)
★ 『袴田巖と世界一の姉』
著者 粟野仁雄氏に聞く(週刊金曜日)
★ 弟を信じたひで子さんの「心の広さ」に触れた
1966年6月、静岡県清水市(現静岡市清水区)でみそ製造会社の専務一家4人が殺害された袴田事件。強盗殺人などの罪で死刑判決を受けた袴田巖さん(88歳)のやり直しの裁判(再審)の判決が9月26日に静岡地裁で言い渡される。事件を長年取材してきたジャーナリストの粟野仁雄氏は8月、袴田さんを支援する人たちの思いや事件・裁判を記録した『袴田巖と世界一の姉 冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』を刊行した。判決を前に思いを聞いた。
―――袴田事件の取材を始めたのはいつですか?
大学生の時からこういう冤罪(えんざい)事件があったことは知っていました。自分で取材するようになったのは2007年、(一審で死刑判決を言い渡した3人の裁判官の一人だった)熊本典道(くまもとのりみち)さん(20年11月死去)が袴田巌(はかまたいわお)さんは無実だと告白し、事件への注目が集まった時でした。
その頃、巌さんの姉、袴田ひで子さん(91歳)の自宅に初めておじゃましました。駅から道に迷っていると雨の中、「どこ歩いているの?」と出てきて、70代半ばと思えない速さで歩く快活な人でした。僕はほかに有名な死刑囚の高齢の妹を取材したことがありましたが、ひっそり隠れるように生きていました。それに比べると、ひで子さんは堂々と生きている印象でした。
★ 「ひで子伝」を書きたかった
僕は「ひで子さんのことを書きたい」とずっと思っていたんです。「袴田ひで子伝」的なことを。彼女のことを書いてきた婦人誌に打診したこともありましたが、実現しませんでした。
21年10月からWEBサイト『デイリー新潮』で袴田事件の連載記事を書いてきましたが、今回、『袴田巌と世界一の姉』として一冊にまとめました。
―――『袴田巖と世界一の姉』では事件発生から裁判の動きを丹念に追っています。節目の動きで、ひで子さんがどういう状況に置かれ、どういう思いだったのかが盛り込まれ、ひで子さんを軸に展開しています。
タイトルの『世界一の姉』は僕が付けました。そう付けたくなるほど、素晴らしい女性だと感じていました。事件発生から裁判まで全体をまとめたのですが、複雑な事件なのでそれらの記述が多くなり、最初考えていたよりもひで子さんの登場が少なくなったのは少し心残りでした。
―――本の冒頭で、袴田さんを支援するボクシング関係者で、元世界王者の輪島功一さんが粟野さんの取材に「ひで子さんは本当に信念の女性。普通はいくら身内でも殺人犯と決まってしまえば、距離を置くと思うけど、全くそんなことはなく、弟を信じ切って頑張り続けている。あんな人はいないよ」と答えたと書かれています(32ページ)。
本当にその通りだと思います。僕はいろいろな冤罪事件を取材してきましたが、肉親が表に出て「無実になってよかった」となっているかというと、みんながそうではありません。とくに地方は世間体を気にして出てこない肉親が多いです。
14年に巖さんは釈放されて以来、ひで子さんと一緒に暮らしています。巌さんは約50年も拘置所にいて、死刑執行におびえ、神経を壊され、拘禁反応の影響が続いています。それでもひで子さんは「とんちんかんなことを言っている巌を恥ずかしいと思わない。こんなになってしまうことを世間に知ってほしい」と、どこへでも連れていました。
★ 優しさを知っていた
―――なぜひで子さんは巌さんが無実だと信じ切ることができたのでしょうか?
巖さんの優しさを誰よりも知っていたかちだと思います。巖さんはボクサー時代、相手がKO負け寸前になっても追いこまず、手が止まり、損もしていました。
袴田さんは6人きょうだいで、5番目がひで子さん(三女)、末っ子が巌さん(三男)でした。巌さんはすぐ上のひで子さんと一番仲が良く、くっついて遊んでいました。家で飼っていたメジロを巌さんがかわいがって、火事があった時、籠を持ち出して震えていたとか、子ども時代の思い出がありましたからね。
―――ひで子さんを取材してきて、最も印象深いシーンはいつ、どういう時でしたか?
23年3月に東京高裁が再審を決定しますが、東京高検が抗告するか、焦点でした。20日、報道陣では僕だけがひで子さんの自宅におじゃまし、知らせを待っていました。(一緒にいた)支援女性のところに「検察が抗告を断念した」という電話が来て、ひで子さんは「もう安心しな。巌の言った通りになったね」と喜んで巌さんに伝えました。
すぐ祝福の電話がたくさんかかってきて、ひで子さんが「検察は偉いよ、本当に偉かった」と言ったのを聞き、耳を疑いました(223ぺージ)。半世紀以上も自分たちを痛めつけた検察が難しい判断を迫られていたことに慮(おもんぱか)ったのです。その心の広さ、人間の大きさに感動を覚えました。「私は、巌のために人生を犠牲にしたとはこれっぽっちも思っていない」とよく言っていたことにも心を打たれました。
★ 弁護過誤が響いた
―――それでも『袴田巌と世界一の姉』を読み終わって感じるのは、司法の矛盾、問題点です。警察・検察のずさんな捜査、審理を尽くしたか疑わしい裁判、長い時間がかかっている再審手続きー。日本の司法の姿に暗澹(あんたる)気持ちになります。
いろいろな冤罪事件で大きな問題だと思うのは、弁護過誤です。袴田事件でも原審(一審)での弁護士のやり方がまずく、失敗したのが大きかった。
弁護士に「警察が証拠の捏造(ねつぞう)なんでするはずがない」という思い込みがありました。
事件1年後にみそタンクから見つかった「5点の衣類」と、警察が「実家で発見した」とした「とも布(ズボン購入時の端布)」は捏造ですが、弁護側は「両者は一致しない」と主張した。しかし捏造ですから鑑定で一致し、窮地に陥ってしまいました。
また、再審手続きにしても、検察が何度でも抗告できるから長くなってしまいます。メンツにごだわるからです。先輩たちがやったことを正当化しようとする。それが袴田事件でも如実に出ています。
また、再審を検討する裁判所にとっても、再審は放っておこうと思えばできるんです。袴田事件の場合、14年に第2次再審決定した村山浩昭裁判長が静岡地裁に赴任し、「在任中、袴田事件を何とかしたい」と思い、向き合いました。そういう人は珍しい。裁判官は激務ですから、日々の業務をこなすために、再審は先送りしてしまうのです。それで長く時間がかかります。
★ 冤罪は他人事ではない
―――袴田事件は、昔の昭和の冤罪事件と片付けられません。警察・検察当局が事件のストーリーをつくり、事実をねじ曲げ、罪のない人を追い詰めるという構図は、平成以降もあります。村木厚子さんが容疑をかけられた郵便不正事件のほか、最近では、異例の起訴取り消しとなった大川原化工機(おおがわらかこうき)事件が起きています。飯塚事件では、無実を訴えながら久間三千年(くまみちとし)さんの死刑が執行されました。こうした中で、『袴田巖と世界一の姉』を通じ、社会の人に何を感じ取ってもらいたいですか?
僕は大川原化工機事件の記事も書いていますが、企業経営者たちの関心が高いです。経済安全保障が叫ばれていますが、ビジネスで海外に製品を輸出している中小企業の間で「ちゃんと調べないとやばいそ」という不安があります。
でも、「殺人事件に巻き込まれるなんてことはありえない」とは言えません。巌さんは確かに運が悪かった。寮の相部屋だった同僚が事件の夜は一緒におらず、巌さんのアリバイを証明できなかったのも大きかった。非常に怖いことです。
今でもどんな人でも同じことが起きないとは限りません。そのことは知ってほしいです。
9月4日、本社応接室にて。
聞き手・まとめ/小川直樹(編集部)
※ あわのまさお・ジャーナリスト。
兵庫県出身。ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)勤務を経て、1982年から200で年まで共同通信記者。その後はフリーとして冤罪事件、原発、災害、スポーツなど幅広く取材。『サハリンに残されて一領土交渉の谷間に棄てられた残留日本人』など著書多数。67歳。
※ カバー写真は2023年3月20日、粟野氏がひで子さんの自宅で撮影。「東京高検が特別抗告を断念」と伝えられた直後、ひで子さんと巖さんを写した。同じ日の別カットは『週刊金曜日』(1418号)の表紙を飾った。
『週刊金曜日 1489号』(2024年9月20日)
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