パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

郡山工場で被曝車両の検修作業

2013年12月05日 | フクシマ原発震災
  =国労郡山工場支部・橋本光一さんの訴え=
 ◆ 被曝労働と闘う労働運動つくろう(11・3全国労働者総決起集会の発言より)

 常磐線のK544(注)をめぐって、動労水戸がストライキで闘ったので検修をやれなかった。それで7月18日に郡山工場に持ってきました。国労の地方本部に指名ストライキを要請したんですがダメだった。どうしようかとなって、一つは会社に防護服を準備させました。会社は最初は「安全な車両なので通常通りの作業をやる」と明言したんですが、現場でガンガン言って防護服を認めさせました。おれら国労組合員が防護服を着始めると、マスクを付けたくても先輩に遠慮して着けられなかった東労組の青年もマスクを着け始めました
 もう一つ、青年をK544の作業から外させました。「防護服を着たってストロンチウムとかは1粒入っただけでガンになるわけだから、若手は作業から外すしかねえべ」と助役にガーガーやって、若手を作業から外させました。
 青年の中には仙台や宇都宮に避難して新幹線通勤をしている人もいるぐらい、青年は被曝を心配しているんです。そういう気持ちは、みんなよくわかっていますから。
 そうして闘いとった防護服ですが、8月、夏真っ盛りですさまじく暑い。しかしみんな、会社への意地と怒りで頑張りぬいた。「青年を被曝させまい」と体を張って作業する国労組合員の姿は、青年の心をわしづかみにしたと思います。
 これがみんなの自信につながり、自分たちのやった闘いが東労組の青年の心を捉えたという実感を持ちました。
 もっと青年とつながろうと、内部被曝問題で学習会を呼びかけました。9月にふくしま共同診療所の先生を講師に迎えて学習会を開催しました。予想以上の青年の参加をかちとり、それがまたみんなの自信となりました。
 このK544の闘いは、青年の未来を守り、労働者の生き死にに責任を取るという労働組合の原則、国労組合員の階級的魂を再び呼び覚ましました。
 それは1047名闘争にこだわり、動労千葉の反合・運転保安闘争路線に学び、外注化絶対反対を闘う中でつくり出された国労郡山工場支部の団結の力があったからこそやれたものです。
 利潤を追求する資本は、「わが亡きあとに洪水は来たれ」とばかりに、安全と命を犠牲にする。その弱点を突き、逆に安全と命を武器にして闘い、職場支配権を取り戻す。このことを象徴する闘いでした。
 動労水戸が切り開いた被曝と闘う労働運動を、労働組合の違いや地域の壁を越え、福島のJR職場において引き継いだことは画期的だと思います。また郡山工場と、命と闘いのよりどころであるふくしま共同診療所がつながったことも重要でした。全国の職場に被曝と闘う階級的労働運動を作り上げましょう。
 来年3月11日の反原発集会を、郡山市の総合体育館で開催します。7000人収容の会場です。この集会の成功で郡山の労働運動を変革していく土台にしたい。大結集を訴えます。
 ※注 K544とは
 11年3・11から半年あまり、福島第一原発から約20㌔のJR常磐線広野駅に放置された被曝車両。JR東は同年10月、同車両を茨城県の勝田車両センターに移送して検査・修繕をやらせようとしたが、動労水戸がストライキを含めて闘いぬき、検査ができないまま、今年7月、福島県郡山の郡山総合車両センターに移送した。動労水戸の闘いを引き継ぎ、国労郡山工場支部が被曝労働と対決して闘いぬいた。
『教育労働者全国通信 第50号』(2013.12.1)

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