《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
★ 子どもの権利条約批准30年目の教育課題
児玉洋介(子どもの権利条約市民・NGOの会 共同代表・事務局長)
★ 子どもの権利の実現めざした100年
今年は日本が子どもの権利条約を批准して30年目の節目の年です。同時に子どもの権利の実現を国際社会が約束してから100年目の年でもあります。
1924年の「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」は、国際人権宣言としても、子どもの権利宣言としても、国際社会が採択した初めてのものです。
直前の第一次世界大戦は、それまでの軍隊同士が殺し合う戦争から、民間人や子どもを大量虐殺する戦争へと、戦争の姿を大きく転換させ、子どもにとってはまさに「最悪の事態」となりました。
国際社会は「人類が子どもに対して最善のものを与える義務を負う」ことを確認しあうことで、つまり子どもの権利の実現を通じて国際平和の実現を試みたのでした。
このジュネーブ宣言は、第二次世界大戦を防ぐことはできませんでしたが、国際社会は、子どもの権利だけでなく、すべての人々の人権保障で平和の実現につなげようと、1948年に世界人権宣言を採択しました。
「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」
に込められた平和への決意は、単に戦争を起こさない努力ではなく、戦争によって支配され歪められた人間関係とは全く異なる、固有の尊厳を認め合うという人間本来の関係性をすべての人々の間につくり出す努力を求めたのです。
「すべての構成員」にはもちろん子どもが含まれますが、それ以上に、子どもと大人とのあるべき関係性こそが人間本来の関係性の典型として、子どもの権利は内容的にも発展していくことになります。
ジュネーブ宣言から35年後、子どもの権利を世界人権宣言に照らしてバージョンアップさせた「子どもの権利宣言」が1959年11月20日に、さらに30年後の1989年11月20日、子どもの権利条約が採択されました。
この時期は「人権宣言から人権条約」への時代、つまり権利の実現を「条約」に明記することで、法的拘束力を背景に各国政府を動かし、人権が保障される社会をつくり出すことに世界がとりくみはじめた時代です。
世界人権宣言は、「自由権規約」「社会権規約」の2つの人権条約として1976年発効し、続いて女性、子ども、障害者、マイノリティなど、人権弱者の個別の課題についても条約化がすすみ、女性差別撤廃条約(1979)に続き、子どもの権利条約が実現しました。
★ 子どもは権利行使の主体に
子どもの権利条約は子どもの権利のとらえ方においても大きな変化をもたらしました。それまで一般には子どもの権利は、大人によって守られる権利ととらえられてきました。そこでは大人(主)によって保護され導かれる存在としての子ども(従)という関係性が支配的でしたが、条約は子どもをそのような受け身の存在ではなく、大人と同じ社会の一員として、あらゆる範囲の市民的・政治的・経済的・文化的権利を行使する「主体」として登場させたのです。
子どもが自ら権利行使を通じて自分自身を成長発達させていくことが子どもの権利の根幹であり、それができるように、親や大人、国家社会は責任もって支援することが求められたのです。
子どもが「権利の主体」になるとはどういうことかを「教育」で考えてみます。
「教育を受ける権利」は重要な子どもの権利ですが、子どもが主体的に教育に参加する権利という意味で、子どもの権利条約では「教育への権利」という言い方をします。
また、education(人が身につけるにいたる過程)を訳した「教育」という用語そのものも「教え育む」と、子どもにとっては受け身の表現です。
そこで日本でもこのころから、子どもが主体的に学ぶ権利として「学習権」という用語が大事にされるようになりました。何をどのように学ぶかは、子どもが自らの成長発達と人格形成の要求に基づいて主体的に決定していくもので、国家や大人の側が一律に一方的にその内容を押し付けるようなことはあってはならないのです。
教育の場に必要なのは、子どもが自らの学習権を主体的に行使することへの支援です。
このような大きな転換が求められたにもかかわらず、政府は条約批准以降も、何をどのように学ぶのかを国が一方的に決めて子どもに押しつける教育内容の統制を強め、教育基本法の改悪や学習指導要領の強化、教科書統制を通じて、子どもの権利の実現とは真逆の施策が推進されてきました。
★ 子どもの権利の「失われた30年」
このように子どもの権利条約批准30年の日本の動きを見ていくと、批准はしたが子どもの権利の実現は何も前進していない、子どもの権利の「失われた30年」というのが、率直なところです。
条約が批准され、発効の直前、当時の文部省は、「条約は、憲法、教育基本法、国際人権規約と軌を一にするもので、したがって特に法令等の改正の必要はない」と通知(1994年5月20日)しました。
その後、慰安婦問題や歴史認識が閤われる教科書問題が起き、国連の人権委員会からの勧告に際しては、「国連条約機関からの勧告には法的拘束力がないから履行義務はない」との閣議決定(2013年6月)がされました。
法的拘束力がないことは事実ですが、それはこの報告審査制度が締約国と国連との問の「説明責任」と「建設的な対話」によって人権向上の推進を図ることを目指しているからで、勧告を一方的に拒否することは国際的な信義にもとる問題です。
条約が採択された1989年は、日本の教育と子どもにとって画期の年でした。この年3月に改訂された学習指導要領のスローガンは「偏差値よりも人柄を」と、「関心・意欲・態度」の評価が入り、高校入試の推薦制度が広がって、子どもたちは学校の中で点数だけでなく人格での評価と競争にさらされるようになりました。
しかも、リクルート事件で当時の文部官僚への賄賂が発覚し、学校教育を企業が求める「人材」育成のための教育へと転換しようとするもくろみが明らかなりました。
さらに偏差値が学校の外に出されたまま受験競争が激化した結果、子どもたちは模擬テストや塾・予備校などへの依存を強め、教育産業が大繁栄する時代がつくられました。
子どもの日常はダブルスクール状態となり、そのために遊ぶ時間、自由に楽しく過ごす時間が奪われ、子ども時代は大きな危機を迎えることになります。
そして、教育のあり方を決定的に変えためが2006年の教育基本法改悪でした。第1条「教育の目的」は、「国家、社会の形成者として必要な資質を備えた」「国民」の育成とされ、「必要な資質」の内容も、愛国心などを含んで法定され、こうして、一人ひとりの「学び」ではなく、国が上から教育内容をおしつける「教育」が、法律で規定されたのです。
第6条では、そういう教育が「組織的に行なわれなければならない」と教職員をおしつけの側に組み込み、「教育を受ける者」は、学校生活の「規律を重んじる」ことが求められました。
文科行政では「競争意識の涵養」と「規範意識の醸成」という言葉がよく使われるようになり、全国一斉学力テストをテコに、自治体間学校間の「学力向上」競争が学校を取り込んでいきました。
「ブラック校則」や「学校スタンダード」が、競争環境を支える「規律」のある学校の手法として一斉に広がり、学校は競争と管理の両面から子どもの権利をむしばんでいきました。
競争の教育は、テストや入試と関わりながら、教育産業や情報産業を公教育の中に呼び込み、さらに「GIGAスクール構想」、「教育DX」と公教育の市場化が進展しています。
★ 「競争の教育」からの解放
子どもの権利条約を批准した国は、定期的に国内の取り組み状況を国連に報告します。国連は、政府報告だけでなく、市民からの報告も受けて意見をまとめ、勧告を出します。
日本政府にも、直近では2019年3月、第4・5回の合同勧告が示され、次の3つが基底的内容でした。
①子どもの権利に関する包括的な法律をつくること。
②子どもの意見をしっかり聴き、うけとめる環境をつくること。
③あまりに競争的な環境から子どもたちを解放すること。
政府もすべて無視はできず、こども基本法をつくり、こども家庭庁が設置されました。真に条約に沿った方向ですすむか、課題は残りますが、法と制度で子どもの権利を実現する枠組みとしては大きな前進です。また、「子どもの意見を聴く機会を設ける」ことも大きく前進しました。
手つかずのまま、残された最大のテーマは「競争主義的な学校システム」からの解放で、子どもの学ぶ権利、成長・発達の根幹にかかわる待ったなしの課題です。
一人ひとりの子どもが、毎日、先生と対話ができる学校。一人ひとりの子どもの声が、受けとめられ尊重される学校。一人ひとりの子どもが、固有の存在として評価される学校。子どもの権利が保障される学校であるために譲れない価値をすべての学校にとりもどすことが強く求められています。(こだまようすけ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 第159号』(2024.12)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます