☆ 次回公判は、2025年2月5日(水)、
判決公判は、2025年7月30日(水)
=たんぽぽ舎です。【TMM:No5088】2024年9月27日(金) 転載・転送歓迎=
☆ 「民をだまし大地と海を汚した東電と国の責任を問う」
冨塚元夫(たんぽぽ舎)
9月18日(水)9時30分に東京地裁正門前にて傍聴前小集会に参加し、10時過ぎに103号法廷に入りました。
前3回と同様原告席には井戸川さんが一人だけで座っておりました。
傍聴席は徐々に増えて80人くらいになりました。
被告席には東電・国側弁護士が10人位いました。
前回は井戸川さんが30分の陳述を認めてもらい、第36-2, 37-1,2,38,39準備書面の骨子を説明しました。
被告が提出した準備書面等の主張に全面的に反論するもので、井戸川さんの提出予定書面はほぼ終了です。
本日は午前中の原告側証人尋問と、午後の本人尋問でした。
原告側の証人の井上さんは事故当時は社会福祉協議会の事務局長で、2011年4月から2013年3月まで埼玉県加須市の双葉町仮役場で副町長を務めました。
主尋問は井戸川さんの質問で40分、反対尋問は国と東電それぞれ15分でした。
井戸川さんの質問に対する井上証人の返答の主なものは下記のとおりです。
「原子力災害訓練で行われたような国からの避難指示はなく3月12日に町の避難指示放送があったので、利用者・職員と川俣町に避難した。要介護者53人を2階から車いすを抱えておろした。
重度の要介護者は双葉高校のグランドに運びヘリコプターに乗せた。
何の事故情報・放射能情報もなかったので、職員も利用者もみな放射能を浴びた。3月13日川俣町で検査官の指示でスクリーニング検査した。
指示により顔・手を何度も洗ったが放射能は落ちなかった(針が降り切れて測定できなかった)
後日、髪の毛、体毛が薄くなった。髪の毛は戻ったが、体毛は戻らない。体がだるく、いらいらし、できものが出来たり、目が悪くなった。皮膚科や内科に通院したが、東電からお詫びの言葉は無かった。
今後の健康悪化を心配している。賠償してほしい。酷い被ばくをした上に、友を失い故郷を失った。
6月17日の最高裁判決を聞いた時は信じられなかった。」
◎ 午後の本人尋問で主尋問は判事3人が井戸川さんに質問した。
井戸川さんの主な返答は下記の通りです。
「3月11日の地震発生時は富岡町で会議していた。渋滞を避けるため海側の道を通り双葉町役場に帰り、対策本部を立ち上げた。旧原子力安全・保安院の現地保安官からは何の情報もなかった。
東電からFAXがあっただけだった。国・県からオフサイトセンターに集まるようにという連絡はなかった。(原子力災害マニュアル違反)
3月12日の1号機のベントの情報も無かった。10km以内住民に避難指示が出たことはテレビで知った。
川俣町では避難受け入れ体制なかったが、特別の計らいで受け入れてもらった。
県の対策本部に電話入れたが大混乱していた。3月31日に埼玉県加須市のスーパーアリーナに到着し、埼玉県庁に受け入れてもらった。
加須市の旧騎西高校校舎に双葉町役場を立ち上げた。
国・県からは公文書による情報は一切無かった。
事故が発生したら国・県・市町村でつくるはずの現地合同対策協議会の参集要請は無かった。毎年原発事故想定の訓練してきたのに、何の役にも立たなかった。
東電は事故は起こりませんと言ってきたのに、起こったら市町村を無視して勝手に決めた。完全に違法である。
体調の変化が出てきた。体毛が抜けた。喉が痛く声が出ないときもあり、目もおかしく、疲れやすくなり、鼻血もでた。」
反対尋問では、事故の原因と事故後の対策とは無関係な質問しか出なかった。
国も東電も、事故後違法な事故対応をしてきたという主張に反論できなかった。
町長になる前に経営していた会社を長男が経営しているが、井戸川さんは関与しているかなどという質問があった。
井戸川さんは、騎西高校で長い間24時間勤務していた。それでは身体が持たないので借家に移って高校へ車で通うようにした。
◎ 次回公判は2025年2月5日(水)です。
井戸川さんは尋問調書と最終準備書面を準備する。
判決公判は、2025年7月30日(水)に決まりました。
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