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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

銃剣術は、突撃した時に敵を差し殺すための術を磨く「戦技」だった

2017年08月20日 | こども危機
  《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
 ◆ 銃剣道は果して伝統文化か?
   一過去の体験を通して一

浅羽晴二(元中学校教員)

 少子化が進み高齢者が多くなっていますが、その高齢者の中にも戦争体験者が少なくなってきています。昭和一桁の方は、ごく少数を除き戦場体験はありません。大半は勤労動員、学童疎開の世代であり、徴兵によって軍隊に入った経験はありません。
 その為、この度、学習指導要領が改訂され、体育の武道の中に銃剣道が入りましたが、銃剣道そのものが、いかなるものなのかをイメージできる方は、極めて少ないのではないでしょうか。
 ◆ 武道の中に銃剣道を入れたのは政治的配慮では・・
 銃剣道はかつて銃剣術と言われ、銃剣道に変わったのは1940年であり、その歴史は浅いのです。
 その為、広辞苑を始め国語辞書には銃剣道の言葉はなく、銃剣術として載っています。
 その言葉の解釈の中で銃剣術について「小銃に銃剣を装着して敵を刺殺する術。また、木製の銃を使って行う武道」と記されています。
 この度、学習指導要領に導入する銃剣道の歴史的背景には戦争と深い関係があり、かなり残酷な歴史があります。
 今は銃剣道連盟をつくり、ルールを変え、スポーツとして国体の競技種目の中に入っていますが、銃剣術は、幕末から明治にかけて、フランス式銃剣術が伝えられ、接近戦を想定して、戦技として軍隊が導入したものです。
 戦争との歴史を見れば、体育(中学校)の武道の中に銃剣道を入れた事は、教育的配慮というより、政治的配慮からではないでしようか。
 ◆ 旧制中学で学んだ銃剣術それは敵を差し殺すための術
 私は1943年に旧制中学に入学しました。その中学校で初めて銃剣術に出会い、何のために必要なのかを学びました。
 戦時中の中学校には、教科として軍事教練、武道(剣道か柔道を選択)、作業(農業実習)があり、学校の中には、現役の配属将校を始め、予備役の軍人が数名闊歩していました。
 軍隊の補助機関化した中学校では、軍事教練はかなり重視され、陸軍上層部の査閲(教練の評価をする)がある年には、軍事教練にかなり時間を取り、全校で上級生の指揮の下に、分列行進が繰り返し行われました。
 軍事教練は、配属将校を中心に軍人によって行われ、軍人勅諭を暗唱させられました。
 一年生はゲートルの巻き方から始まり、歩兵としての基礎訓練が行われ、一年生の後半から、木銃を使って敵を倒す訓練に入りました。一年の最後には銃剣術を教わり、防具をつけて試合をやりました。
 防具は剣道の防具に似ていますが、心臓の所に厚い胸当てがつけられ、そこを突けば勝になるのです。
 銃剣術は、まさに突撃した時に、敵を差し殺すための術を磨くものであり、教官も銃剣術と言い、銃剣道の言葉は使いませんでした。
 上級生になりますと、三八式歩兵銃(明治38年日露戦争勝利を記念して作られた日本陸軍の基本的「単発銃」)に着剣して実地訓練をしていました。
 中学校でまともに学校生活を送ったのは、一年生だけでした。二年生の後半から学徒動員で軍需工場(三鷹の日本無線)に行くことになり、授業はありませんでした。
 しかし軍事教練だけは、工場の空き地を利用し、リアカーを戦車と想定し、戦車攻撃の稚拙な訓練が実施されました。
 ◆ 死を覚悟した軍国少年の戦後 一教師への道一
 中学校では、軍人勅語や青少年学徒に賜りたる勅語を暗唱させられ、修身や、皇国史観に基づく歴史授業、配属将校などの戦争訓話の影響によって、侵略戦争を聖戦と信じ、天皇や国家のために、一身を捧げる事を真剣に考える軍国少年になりました。
 すでに死を覚悟していた私たちは「人生20年だなあ」と真面目に友人と語り合ったことを思い出します。
 敗戦は軍需工場で知り、すさんだ工場を後にし、悶々としながら家に戻りました。軍国少年の当時の日記には、占領軍による武装解除に怒りを覚え、リベンジを記していました。軍国少年の当然の帰結かも知れません。
 学校に復帰したのは9月に入ってからでしたが、一部とはいえ、教師の変貌した姿にはショックを受けました。
 戦後は、食料不足で、かなり苦労をしましたが、日本国憲法の公布、施行によって、これからの日本は、平和な文化国家として生まれ変わるのだという希望を持ち、貧しさの中にも明るさを取り戻してきました。私も新しい国造りの一端を支えるために教師の道を選び、1953年から教師として歩み始めました。
 当時は、まだ学習指導要領は「試案」の時代であり、勤評もなく、教科書も学校採択で、教師は生き生きとして、日々を過ごしていました。組合も日教組50万と言われ、意気盛んな時代でした。それからすでに半世紀余を過ぎましたが、学校教育の変質には愕然とします。地域から現場の先生が見えず、話し合う機会をもてない現状が気になるこの頃です。
 ◆ 教育の大きな転換期は1958年では
 教育の大きな転換期は、1958年と考えています。その年に、学習指導要領が「試案」から「国家基準」として法的拘束力を付与されました。そして道徳時間の「特設」(高校には倫理社会の設置)、行事などに「国旗を掲揚し君が代を斉唱することが望ましい」という文言が入りました。その文言は、やがて「指導するものとする」に変わっていきます。
 10年毎に学習指導要領は、改訂が行われますが、国歌・君が代の強制が強まるのは1977年版からであり、道徳教育の強化は、高校の社会科解体と共に進められ、小中学校には副読本として「心のノート」が無償で配布されるようになりました。保健体育の格技が「武道」に変わったのは、1989年版からです。
 このような改悪の流れは、教育基本法の改悪によって一段と強まり、愛国心や伝統文化の尊重などが強調されるようになりました。
 今回の改定によって、道徳は教科として設置され、来年度から小学校で道徳の教科書が使用されます。またすでに述べたように、保健体育の武道の中には、銃剣道が入ることになりました。
 ◆ 銃剣道を学習指導要領に加えた政治的背景は
 パソコンの検索によれば、学習指導要領に入ったのは、武道の改善を答申した「中央教育審議会」や元自衛官の自民党参議院議員佐藤正久氏の公式プログで、銃剣道を学習指導要領に加えるよう働きかけたことなどが影響したのではと記しています。
 しかしそれのみでなく、日本会議(右翼)のメンバーが大半を占める右翼的安倍内閣の影響は、無視できないでしょう。
 安倍内閣の積極的平和主義は、武力によって平和を守る、つまり抑止論的平和主義であり、極めて危険な道です。
 すでに2015年の安保法制によって、自衛隊も専守防衛の枠を超え、海外に派兵されました。安倍首相は、その自衛隊を憲法に位置づける為に、改憲の日程を宣言しましたが、もし改憲されれば、誇るべき第九条は死文化され、日本は急速に戦前に劣らない軍事国家に変貌していくのではないでしょうか。
 自衛隊員は、今なお銃剣道(銃剣術)で訓練をしているようです。銃剣術は、歩兵部隊の戦闘には役立つために、戦前軍隊で盛んに実施されました。
 しかし歩兵部隊を主体とした戦争は、もはや時代遅れであり、アジア・太平洋戦争の末期においては、すでに銃剣術は、役に立ちませんでした。しかも広島・長崎の原爆投下で、戦争の在り方は大きく変わり、時代は核戦争の時代に入りました。
 戦前に評価された三八式歩兵銃は、銃剣と共にお蔵入りすべきであり、歴史から見ても銃剣道(銃剣術)は伝統文化に値するものではありません。
 愛国心や伝統文化を強調する風潮の中で、教育勅語を始め死語の復活が目立ちますが、それは戦争への道につながり、平和への道に反するものです。
 人類にとって平和こそ宝であり、私たちは、惑わされることなく、歴史的背景をしっかり認識し、批判を強めていく事が大切ではないでしょうか。(あさばせいじ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 114号』(2017.6)

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