▼ 大江健三郎「歴史は繰り返す」(『ニューヨーカー』誌寄稿)和訳紹介
Oe Kenzaburo in the New Yorker: History Repeats
3月25日を振り返っている。ひと月も経っていないのに遠い昔のようだ。こう書いた。
長い長い期間をかけて、被害者の人たちに、子どもたちに、孫たちに、海に、山に、畑に、償っていかなければいけない。
この日、『ニューヨーカー』誌の大江健三郎さんの寄稿文が目に入った。3月28日付の文だが25日の時点でもうネットに出ていた。
また、『ニューヨーカー』は、1946年、アメリカ人に広島のキノコ雲の下で何が起こったかを初めて伝えた歴史的名著であるジョン・ハーシーの『ヒロシマ』が一挙掲載された雑誌でもある。
大江健三郎さんが65年後、「広島の犠牲者への最大の裏切り」を語る記事が掲載されたのが、奇しくも同じ雑誌であったということにまたやるせない想いを抱いた。アメリカが伝えた「ヒロシマ」から、日本が自ら招いた核の惨禍「フクシマ」へ。大江さんは、もしかしたらそれを意識して『ニューヨーカー』誌に寄稿したのかもしれないと思った。
今日、一部を翻訳して紹介したままになっていた大江さんの文の全訳が届いた。第五福竜丸の被害者の一人、大石又七さんから送られたものを友人が送ってくれた。
大江さんの文に大石さんのことが書いてあるので、NHK国際放送の人が大石さんのために訳したということだ。以下紹介し、英語の原文もその下に紹介する。
▼ 「歴史は繰り返す」 大江健三郎
偶然にも地震の前日、朝日新聞の朝刊に数日後に掲載される予定の原稿を書いていました。一九五四年のビキニ環礁の水爆実験で被爆した、私と同世代の船員についての記事です。彼の境遇を初めて耳にしたのは、十九歳の時。その後も彼は、「抑止力」神話と抑止論者の欺瞞をあばくことに人生を捧げています。思えば、大震災の前日にあの船員のことを思い出していたのは、ある種の悲しい予兆だったのでしょうか。彼はまた、原子力発電所とその危険性にも反対して闘っておられるのです。私は長いこと、日本の近代の歴史を、広島や長崎の原爆で亡くなった人、ビキニの水爆実験で被爆した人、そして原発事故の被害にあった人という三つのグループの視点から見る必要があると考えてきました。この人たちの境遇を通して日本の歴史を見つめると、悲劇は明確になります。そして今日、原子力発電所の危険は現実のものとなりました。刻一刻と状況が変わる中、事態の波及を抑えるために努力している作業員に対して敬意を表しますが、この事故がどのような形で収束を迎えようともその*深刻さはあまりにも明白です。日本の歴史は新たな転換点を迎えています。いま一度、私たちは、原子力の被害にあい、苦難を生き抜く勇気を示してきた人たちの視点で、ものごとを見つめる必要があります。今回の震災から得られる教訓は、これを生き抜いた人たちが過ちを繰り返さないと決意するかどうかにかかっています。
この震災は、日本の地震に対する脆弱性と原子力の危険性という二つの事象を劇的な形で結びつけました。前者は、この国が太古から向き合ってきた自然災害の現実です。後者は、地震や津波がもたらす被害を超える可能性をはらんだ人災です。日本はいったい、広島の悲劇から何を学んだのでしょうか。二〇〇八年に亡くなった、現代の日本の偉大な思想家の一人である加藤周一氏は、核兵器と原子力発電所について話をした時、千年前に清少納言が書いた『枕草子』の一節を引用して、「遠くて近きもの」だとしました。原子力災害は遠く、非現実的な仮説に思えるかもしれませんが、その可能性は常にとても身近なところにあるのです。日本人は、原子力を工業生産性に換算して考えるべきではありません。広島の悲劇を経済成長の見地から考えるべきではないのです。地震や津波などの自然災害と同じように、広島の経験は記憶に深く刻まれているはずです。人間が生み出した悲劇だからこそ、自然災害よりも劇的な大惨事なのです。原子力発電所を建設し、人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為です。
日本が敗戦を迎えた当時、私は十歳でした。翌年、新憲法が公布されました。その後何年にもわたって、軍事力の放棄を含む平和主義を明記した我が国の憲法や、その後の「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則が、戦後の日本の基本理念を正確に表現しているのか自分に問い続けました。あいにく、日本は徐々に軍事力を再配備し、六十年代の日米の密約によって米国が日本列島に核兵器を持ち込むことが可能となり、それによって非核三原則は無意味となってしまいました。しかし、戦後の日本の*人道的な理想は、完全に忘れ去られたわけではありません。死者が私たちを見守り、こうした理念を尊重させているのです。そして、その人たちの記憶があることによって、政治的現実主義の名のもとに核兵器の破壊力を軽んじることができません。私たちは矛盾を抱えています。日本が米国の核の傘に守られた平和主義国家であるというその*矛盾こそが、現代の日本の曖昧な立場を生み出しています。福島の原発事故がきっかけとなり、いま再び日本人が広島や長崎の犠牲者とのつながりを復活させ、原子力の危険性を認識し、核保有国が提唱する抑止力の有効性という幻想を終わらせることを願います。
一般的に大人であると見なされる年齢の時、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説を書きました。そして人生の終盤に差しかかった今、『後期の仕事(レイター・ワーク)』を執筆しています。今の狂気を何とか生き延びることができれば、その小説の出だしはダンテの『神曲』地獄篇の最後の一行からはじまるでしょう。
--かくてこの處をいでぬ、再び諸々の星をみんとて。
The New Yorker
▼ History Repeats
Kenzaburo Oe
March 28, 2011 .
(略)
『Peace Philosophy Centre』(Friday, April 22, 2011)
http://peacephilosophy.blogspot.com/
Oe Kenzaburo in the New Yorker: History Repeats
3月25日を振り返っている。ひと月も経っていないのに遠い昔のようだ。こう書いた。
「福島」は、「広島」、「長崎」に続き、日本の3つめの大規模核被害地となった。違うといえば、今回は自らが落としたものであるということだ・・・平和憲法を掲げ、非核三原則をとなえて歩んできた66年の結末。今までやってきたことは一体何だったんだという根本的な問いに面している。
長い長い期間をかけて、被害者の人たちに、子どもたちに、孫たちに、海に、山に、畑に、償っていかなければいけない。
この日、『ニューヨーカー』誌の大江健三郎さんの寄稿文が目に入った。3月28日付の文だが25日の時点でもうネットに出ていた。
「原子炉の建設はこのような(原爆の)人命軽視の過ちを繰り返すことであり、広島の犠牲者への最大の裏切りである。」この一文に胸をえぐられたような想いになり、感極まった。この文で尊敬する故加藤周一さんに触れていたこともあった。震災・原発事故以降、加藤さんなら今の状況をどう見るだろうか、どう発言するだろうかと考えながら過ごしてきた。
また、『ニューヨーカー』は、1946年、アメリカ人に広島のキノコ雲の下で何が起こったかを初めて伝えた歴史的名著であるジョン・ハーシーの『ヒロシマ』が一挙掲載された雑誌でもある。
大江健三郎さんが65年後、「広島の犠牲者への最大の裏切り」を語る記事が掲載されたのが、奇しくも同じ雑誌であったということにまたやるせない想いを抱いた。アメリカが伝えた「ヒロシマ」から、日本が自ら招いた核の惨禍「フクシマ」へ。大江さんは、もしかしたらそれを意識して『ニューヨーカー』誌に寄稿したのかもしれないと思った。
今日、一部を翻訳して紹介したままになっていた大江さんの文の全訳が届いた。第五福竜丸の被害者の一人、大石又七さんから送られたものを友人が送ってくれた。
大江さんの文に大石さんのことが書いてあるので、NHK国際放送の人が大石さんのために訳したということだ。以下紹介し、英語の原文もその下に紹介する。
▼ 「歴史は繰り返す」 大江健三郎
偶然にも地震の前日、朝日新聞の朝刊に数日後に掲載される予定の原稿を書いていました。一九五四年のビキニ環礁の水爆実験で被爆した、私と同世代の船員についての記事です。彼の境遇を初めて耳にしたのは、十九歳の時。その後も彼は、「抑止力」神話と抑止論者の欺瞞をあばくことに人生を捧げています。思えば、大震災の前日にあの船員のことを思い出していたのは、ある種の悲しい予兆だったのでしょうか。彼はまた、原子力発電所とその危険性にも反対して闘っておられるのです。私は長いこと、日本の近代の歴史を、広島や長崎の原爆で亡くなった人、ビキニの水爆実験で被爆した人、そして原発事故の被害にあった人という三つのグループの視点から見る必要があると考えてきました。この人たちの境遇を通して日本の歴史を見つめると、悲劇は明確になります。そして今日、原子力発電所の危険は現実のものとなりました。刻一刻と状況が変わる中、事態の波及を抑えるために努力している作業員に対して敬意を表しますが、この事故がどのような形で収束を迎えようともその*深刻さはあまりにも明白です。日本の歴史は新たな転換点を迎えています。いま一度、私たちは、原子力の被害にあい、苦難を生き抜く勇気を示してきた人たちの視点で、ものごとを見つめる必要があります。今回の震災から得られる教訓は、これを生き抜いた人たちが過ちを繰り返さないと決意するかどうかにかかっています。
この震災は、日本の地震に対する脆弱性と原子力の危険性という二つの事象を劇的な形で結びつけました。前者は、この国が太古から向き合ってきた自然災害の現実です。後者は、地震や津波がもたらす被害を超える可能性をはらんだ人災です。日本はいったい、広島の悲劇から何を学んだのでしょうか。二〇〇八年に亡くなった、現代の日本の偉大な思想家の一人である加藤周一氏は、核兵器と原子力発電所について話をした時、千年前に清少納言が書いた『枕草子』の一節を引用して、「遠くて近きもの」だとしました。原子力災害は遠く、非現実的な仮説に思えるかもしれませんが、その可能性は常にとても身近なところにあるのです。日本人は、原子力を工業生産性に換算して考えるべきではありません。広島の悲劇を経済成長の見地から考えるべきではないのです。地震や津波などの自然災害と同じように、広島の経験は記憶に深く刻まれているはずです。人間が生み出した悲劇だからこそ、自然災害よりも劇的な大惨事なのです。原子力発電所を建設し、人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為です。
日本が敗戦を迎えた当時、私は十歳でした。翌年、新憲法が公布されました。その後何年にもわたって、軍事力の放棄を含む平和主義を明記した我が国の憲法や、その後の「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則が、戦後の日本の基本理念を正確に表現しているのか自分に問い続けました。あいにく、日本は徐々に軍事力を再配備し、六十年代の日米の密約によって米国が日本列島に核兵器を持ち込むことが可能となり、それによって非核三原則は無意味となってしまいました。しかし、戦後の日本の*人道的な理想は、完全に忘れ去られたわけではありません。死者が私たちを見守り、こうした理念を尊重させているのです。そして、その人たちの記憶があることによって、政治的現実主義の名のもとに核兵器の破壊力を軽んじることができません。私たちは矛盾を抱えています。日本が米国の核の傘に守られた平和主義国家であるというその*矛盾こそが、現代の日本の曖昧な立場を生み出しています。福島の原発事故がきっかけとなり、いま再び日本人が広島や長崎の犠牲者とのつながりを復活させ、原子力の危険性を認識し、核保有国が提唱する抑止力の有効性という幻想を終わらせることを願います。
一般的に大人であると見なされる年齢の時、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説を書きました。そして人生の終盤に差しかかった今、『後期の仕事(レイター・ワーク)』を執筆しています。今の狂気を何とか生き延びることができれば、その小説の出だしはダンテの『神曲』地獄篇の最後の一行からはじまるでしょう。
--かくてこの處をいでぬ、再び諸々の星をみんとて。
The New Yorker
▼ History Repeats
Kenzaburo Oe
March 28, 2011 .
(略)
『Peace Philosophy Centre』(Friday, April 22, 2011)
http://peacephilosophy.blogspot.com/
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