▼ 良い教科書はなくなった (『月刊 救援』)
北村小夜
▼ 驚くべきことに驚く感性を失っていないか
このところ次々に起こる驚くべきことに驚くどころか粛々と従う輩が多い。愚かな政権を揶揄しているつもりで取り込まれている。
人は格差をもって生まれてくる。格差は育ちながらも広がる。学校ではさらに拡大する。
そこヘコロナが来た。安倍の独断による思い付き一斉休校で混乱を招いた。
小学校はある子にとっては点数を競うところであるが、ある子にとっては昼食付の居場所である。~それで母親が働きに出られた。その母親が来なくて事業所が困った。などなど……。
テレワークや家庭での課題学習は「個別最適化」(一人一人にあった課題での教科学習)の模擬試験場になったようで、格差の拡大が明らかになった。
▼ オンライン教育は格差を拡大する
多くの学校は六月一日から再開したが、この間の文科省→教委→校長と降ろされる通知は二転三転し学校現場は振り回された。
再開された学校は「三密回避」と「学習の遅れの取り戻し」のため学習内容の精選を迫られ、人員不足のなか教職員は検温に消毒に大童。
文科省は再開後の指針として、「学びの保障-総合対策パッケージ」なるものを公表した。その柱は、
1、あらゆる手段を活用し、学びを取り戻す。そのため、時間割の工夫、長期休業期間の短縮や土曜授業の実施、学校行事の重点化(中学三年の修学旅行ば感染予防に配慮して実施)。
2、学びの保障に「ICT(情報通信技術)を活用」を進める。「ICT環境がない家庭に端末を優先配備してオンライン学習の体制を確立する」
二〇二〇年四月、文科省は「GIGAスクール構想の実現へ」なる冊子を配布している。
その冒頭には“一人一台の端末は令和の学びの「スタンダード」多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、子どもたち一人ひとりの公正に個別最適化され、資質・能力を一層確実に育成出来る教育ICT環境の実現へ”とある。
能力によって徹底的に分断するつもりである。それを前倒ししようというのである。
どうして驚かないで、どうして怒らないでいられるのか。
▼ もう良い教科書はない
このような状況下の六月、多くの地域で来年度から使用される中学校教科書の展示が始まった。改訂指導要領に基づいて作成された文科省の検定を通過したものである。
こんな時だからこそなるべくましな教科書を子どもたちの手に渡さなければならない。採択権は無償と引き換えに奪われてしまっているが、教師として親として市民として、少しでもましな教科書を選び教育委員会の行う採択に反映させたいと奔走した。
最たる争点は社会科教科書(歴史・公民)であった。
特に「万世一系の天皇」を軸にした歴史的記述を展開し、一五年にも及ぶアジア太平洋戦争を民族解放のためであったとするなど問題の多い育鵬社の教科書を採択させない取り組みであった。
中でも理不尽な採択で育鵬社の教科書を強いられていた大口採択の大阪・横浜・藤沢などでは一〇年にわたる闘いの総決算とばかり全力を挙げて闘った。
結果としてその多くが育鵬社を不採択にすることができた。
ようやく現場教員らの意見が反映された教科書が子どもたちの手に届く。「やっと結果が出た」「開かれた採択」などと報じられもしたが、喜んでよいのだろうか。
第一次安倍政権は二〇〇六年には教育基本法を「改正」し、憲法改正の前触れと言われるように、教育の目標に「伝統文化を尊重し」「我が国と郷土を愛する」などを盛り込んだ。
二〇一四年には第二次安倍政権は教科書検定基準を改訂し、近現代史では定説がない場合は政府見解か最高裁判例に従って記述すると決めたため、
領土問題の記述が増え、竹島・北方領土の「固有の領土」が強調され、
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の人数が「数千人」から「数百人~数千人」に変更されるなど、
かつて「新しい歴史教科書をつくる会」の人々が「自虐的」と攻撃した真実の部分が減少したため、採択にあたる保守的な教育委員にしても敢えて育鵬社を選ぶ必要がなくなったのではないだろうか。
すでにどの教科書からもアジア太平洋戦争における我が国の加害を伝える「侵略」「慰安婦」などの言葉は消えてしまっている。
すなわちもう良い教科書など存在しない。採択の取り組みは、よりましなものを選ぶしかないのが現状である。
本来、教科書問題は第一義的には検定である。あらためて憲法の理念に沿って検定の民主化に取り組もうではないか。
『月刊 救援 618号』(2020年10月10日)
北村小夜
▼ 驚くべきことに驚く感性を失っていないか
このところ次々に起こる驚くべきことに驚くどころか粛々と従う輩が多い。愚かな政権を揶揄しているつもりで取り込まれている。
人は格差をもって生まれてくる。格差は育ちながらも広がる。学校ではさらに拡大する。
そこヘコロナが来た。安倍の独断による思い付き一斉休校で混乱を招いた。
小学校はある子にとっては点数を競うところであるが、ある子にとっては昼食付の居場所である。~それで母親が働きに出られた。その母親が来なくて事業所が困った。などなど……。
テレワークや家庭での課題学習は「個別最適化」(一人一人にあった課題での教科学習)の模擬試験場になったようで、格差の拡大が明らかになった。
▼ オンライン教育は格差を拡大する
多くの学校は六月一日から再開したが、この間の文科省→教委→校長と降ろされる通知は二転三転し学校現場は振り回された。
再開された学校は「三密回避」と「学習の遅れの取り戻し」のため学習内容の精選を迫られ、人員不足のなか教職員は検温に消毒に大童。
文科省は再開後の指針として、「学びの保障-総合対策パッケージ」なるものを公表した。その柱は、
1、あらゆる手段を活用し、学びを取り戻す。そのため、時間割の工夫、長期休業期間の短縮や土曜授業の実施、学校行事の重点化(中学三年の修学旅行ば感染予防に配慮して実施)。
2、学びの保障に「ICT(情報通信技術)を活用」を進める。「ICT環境がない家庭に端末を優先配備してオンライン学習の体制を確立する」
二〇二〇年四月、文科省は「GIGAスクール構想の実現へ」なる冊子を配布している。
その冒頭には“一人一台の端末は令和の学びの「スタンダード」多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、子どもたち一人ひとりの公正に個別最適化され、資質・能力を一層確実に育成出来る教育ICT環境の実現へ”とある。
能力によって徹底的に分断するつもりである。それを前倒ししようというのである。
どうして驚かないで、どうして怒らないでいられるのか。
▼ もう良い教科書はない
このような状況下の六月、多くの地域で来年度から使用される中学校教科書の展示が始まった。改訂指導要領に基づいて作成された文科省の検定を通過したものである。
こんな時だからこそなるべくましな教科書を子どもたちの手に渡さなければならない。採択権は無償と引き換えに奪われてしまっているが、教師として親として市民として、少しでもましな教科書を選び教育委員会の行う採択に反映させたいと奔走した。
最たる争点は社会科教科書(歴史・公民)であった。
特に「万世一系の天皇」を軸にした歴史的記述を展開し、一五年にも及ぶアジア太平洋戦争を民族解放のためであったとするなど問題の多い育鵬社の教科書を採択させない取り組みであった。
中でも理不尽な採択で育鵬社の教科書を強いられていた大口採択の大阪・横浜・藤沢などでは一〇年にわたる闘いの総決算とばかり全力を挙げて闘った。
結果としてその多くが育鵬社を不採択にすることができた。
ようやく現場教員らの意見が反映された教科書が子どもたちの手に届く。「やっと結果が出た」「開かれた採択」などと報じられもしたが、喜んでよいのだろうか。
第一次安倍政権は二〇〇六年には教育基本法を「改正」し、憲法改正の前触れと言われるように、教育の目標に「伝統文化を尊重し」「我が国と郷土を愛する」などを盛り込んだ。
二〇一四年には第二次安倍政権は教科書検定基準を改訂し、近現代史では定説がない場合は政府見解か最高裁判例に従って記述すると決めたため、
領土問題の記述が増え、竹島・北方領土の「固有の領土」が強調され、
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の人数が「数千人」から「数百人~数千人」に変更されるなど、
かつて「新しい歴史教科書をつくる会」の人々が「自虐的」と攻撃した真実の部分が減少したため、採択にあたる保守的な教育委員にしても敢えて育鵬社を選ぶ必要がなくなったのではないだろうか。
すでにどの教科書からもアジア太平洋戦争における我が国の加害を伝える「侵略」「慰安婦」などの言葉は消えてしまっている。
すなわちもう良い教科書など存在しない。採択の取り組みは、よりましなものを選ぶしかないのが現状である。
本来、教科書問題は第一義的には検定である。あらためて憲法の理念に沿って検定の民主化に取り組もうではないか。
『月刊 救援 618号』(2020年10月10日)
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