ふふふ、誰にも判るまいて...
”裁判官はなぜ誤るのか” というタイトルの本が岩波新書から出ている。
著者は秋山賢三、氏の略歴は1940年香川県生まれ、東大法学部卒、1967-1991裁判官、現在東京弁護士会所属 袴田事件再審弁護団、全国痴漢冤罪弁護団長、長崎事件弁護団長などを務める、とある バリバリのキャリアで且つ極めて良心的な法曹人です。この本は、よくある内情暴露本とは違い、真面目に現在の日本の司法の置かれている状況を淡々と書いてあり、是非一読をされたい。
第一章は裁判所と裁判官の生活を書いている。読むと裁判官も大変な様子だ。転勤の日々や忙しすぎる裁判官という項がある。 数字だけで言うと法曹一人当たりの人口は、アメリカで293人、イギリス679人、ドイツ763人、フランス1610人に対して我が国はなんと5986人らしい。桁が一桁違う。この状況の中で、裁判を効率的に裁かないと人事評価に関わる訳で、判決は自然と画一的、機械的なものになりがちだと書かれている。ただ、著者はこうも書いている ” 私は、現在の裁判官を取り巻く客観的状況の劣悪さを考えれば、日本の裁判官たちはむしろ「実によく頑張っている」と評価すべき側面が多いと考えたい。” と書いている。そのうえで、仕事と組織にがんじがらめにされた裁判官は「行政機関化傾向」にあり、次第にその傾向に釣りあった「俗吏」、「小役人化」した裁判官が増えてくることになる。と...
蛇足ですが、この先生パチンコがお好きなようだ。本文中2回ほどパチンコに言及している。ひとつは、先輩裁判官は日常の中で後輩を指導し、裁判官はパチンコなどするべきではない、などと小言を言う、とか判決文を考えていて行き詰ると、キーン、キーンという金属音が脳髄に良い刺激を与えるのでパチンコをしながら判決を考えるといった具合です。裁判官にも、なかなか人間的な面があるのです。
冤罪についても、有罪率で以下のような数字を挙げている。 イギリスでは、法廷で有罪を認めた場合には証拠調べなしに有罪とされ、無罪を主張した場合だけ審理され、そのうちの64%が無罪になっている。アメリカでは全刑事事件の12.8%が無罪、いっぽう日本では無罪になるケースはなんと0.1%なのである。いくら日本の警察が優秀だとしても、この数字には裏があるとしか思えない。
著者は徳島ラジオ商殺し事件や袴田事件、痴漢冤罪事件などの実例を上げて説明しているが、実際のところ日本の有罪判決は冤罪だらけだという印象を受ける。その原因のひとつは裁判所と検察の精神的癒着があると指摘する。我々素人は検察と被告人弁護士が法廷で対立して、裁判官は中立な立場で審理するものと信じているが、実際には (裁判所+検察) vs. (弁護士+法律) の構図だと指摘する。裁判所は検察の挙げた犯人を、忙しさや無罪判決の厳しさもあって有罪にしたがる、それに対して弁護士が法律と事実に基づき反論するという構図だ。
しかし、もっと言えば大半の国選弁護人は実際のところ、ほとんど何もしないのが実態のようだ。思い込んだ被告人を何がなんでも犯人に仕立て上げる検察、無罪判決を出したがらない裁判官、やる気のない弁護人 これらが揃って冤罪を生み出す。
著者はこう書いている ”私は、日本人というのは、どちらかといえば、真犯人ならば「俺はやっている」と認める素朴な人びとが多いのではないかと考えている。...真犯人であるくせに、狂言で「俺はやっていない」と獄中で何十年間も叫び続け、しかも周囲にいる人間が、それを真に受けて援助活動をするなどということは、通常まずありえないことだと考えている。”
刑事裁判の原則は "疑わしきは被告人の利益に (in dubio pro reo)” である。しかし、日本では有罪率99.9%の現実がある。ここには、裁くものの論理と被告人の事実との間に隔たりがあると指摘する。松川事件でS裁判長は法廷で「やったか、やらないか神のみぞ知る」と述べた。この発言に対して被告人たちは「いや、違う。事実を知るものは被告人らだ。私たちだ」と答えている。
冤罪は他人事ではない。都市部に住む男性サラリーマンは常に冤罪の危険に晒されている。痴漢冤罪だ。痴漢は軽犯罪であり罪を認めれば5万円の罰金ですぐに釈放される。ところがやっていないので、やっていないと主張すると、簡単に3ヶ月間も留置場に拘留されるのだ。著者いわく、大体が痴漢の常習者は捕まるようなヘマはしない。捕まるのは初心者か無実の人だ、と。ただの普通のサラリーマンが突然逮捕され、留置場に長期間拘留される事になるのだ。
著者は言う ”否認して闘う被告人は、やっていない行為を「やっている」という虚偽の事実を認めることを拒否し、裁判で自己の無実を明らかにしようとしている。これは、彼らがいづれも日本の裁判所を信頼しているからにほかならない。” しかし、その被告人の99.9%に有罪判決が下る。あなたにも、その可能性があるのですよ...
安倍晋三と石原慎太郎は、今回の選挙で憲法改正を唱えています。(橋下さんもですがニュアンスがちょっと違う。) そこで今一度、現在の日本国憲法の精神をリマインドしていただきたい。憲法前文(一部)をここに掲げます。彼等はこの文章を削除すると主張しています。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
たまたまBSを見ていたらNHKで田原総一郎がミッドウェー海戦の話をしていた。かなり本格的なプログラムでアメリカと日本の生存者のインタビューも踏まえた重厚な内容だったのでつい聞き入ってしまった。
ミッドウェーは太平洋戦争で真珠湾以降の日本の進撃が反転する決定的なターニングポイントとなる大敗北だったわけだが、技術的な面では日本軍の奇襲作戦が全て暗号解読によりアメリカ軍に筒抜けであったことが主たる要因であったようだ。
この海戦で日本海軍は戦費予算の7割を使って建造した主力空母4隻を失い、短期決戦をめざした所期のもくろみは崩れ去り、現実的に見れば戦争勝利の可能性は無くなったのである。しかし軍部は国民にその敗北の事実を隠し、勝ち目の無い戦争を続行したのである。しかも、この敗北の責任者である南雲中将と山本五十六長官は何の責任も追及されていない。
ここで見えてくるのは、情報への価値観、責任論、戦争続行への現実的判断など関する合理的な対応がまったくちぐはぐなことである。これは日本人の持つ性向によるものだと田原は言う。そして、それは今でも変わっていないと...
わたしも田原の意見に賛同する。日本人の価値観、特に中世以来固定してきた武家社会とそれを引きずる役人社会の構造は歪なものとなっている。これでは開かれた世界の中で戦えないと思う。
さて裁判の件だが、悔しいことに高裁からたった2ページの決定書が届き地裁判断を支持する内容、つまり東京地裁移送との決定となった。あとは最高裁に対する特別抗告という手もあるがそれは止め、裁判は東京で継続することにする。
ミッドゥエーと裁判にどんな関係があるのだ?と思うでしょうが、どうも裁判所も役人根性が根深い気がしてきたので愚痴ってるだけです。
長谷部恭男の、”憲法とは何か”という本を読んで、色々と考えさせられたのでちょっと書きます。
これを読んで、一番衝撃的だったのは、国とは何か?戦争とは何を目的にしているのか?愛国とはどういう意味か?という事がズバッと書いてあったことです。
国と言えば緑の祖国と、そこに住む国民をを思い浮かべますが、ところが、実は国の実質は憲法であり、戦争は敵国の憲法を書き換える事を目的に戦う... これが著者の結論です。
中世以前には憲法というものは無く、人は単一の価値観;宗教で括られていました。ところがヨーロッパではカトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が起こり、血みどろの戦いが続き、この経験から、人には決して相容れない価値観があり、その個別の価値観の範囲である私的領域と、お互いに殺しあわないようにルールを決める公的領域を明確に分離する必要がある。これが近代立憲主義の出発点だと著者は言います。私的領域というのは言い換えると基本的人権で守られた、個人の自由の領域を指します。
戦前の日本を考えると、全ての日本人は公私の区別無く皇室を崇拝し、人の生活領域のすべては、天皇との近接関係によって評価され、自らの良心に照らして自由に判断し、活動しうる領域は誰一人として持ち合わせておらず、同時に、誰もが上位者への服従と奉仕を名目として、いかなる行動をも正当化しうる社会、これが日本型ファシズムです。
20世紀初頭に長距離高精度兵器の発達で、戦争形態がナポレオンの一点撃破戦略は不可能となり、敵を塹壕で包囲し殲滅する総力戦に変わってきました。そして、この変化により国民皆兵の必要が出てきた。逆説的ですが国民皆兵の前提は福祉国家なのです。戦争で死んでもらうために高福祉を保障する必要がある。
この時期には世界に三種類の国家が覇権を争っていた。立憲主義国家、共産主義国家とファシズム国家です。そして、第一次、二次世界大戦を通じて立憲国家と共産国家が手を握りファシズム国家を倒し、その憲法を書き換えさせた。日本では日本国憲法だし、ドイツでは東西に分かれ立憲主義憲法と共産主義憲法に書き換えた。
その後、長く冷戦が続いたがコンピュータ、インターネット等の情報技術の発達により共産国家は崩壊し東欧諸国、ロシアは自らの憲法を立憲主義に書き換え冷戦は終結した。
つまりは戦争は相手の憲法を書き換えるために起ったというわけで、日本が押し付け憲法を貰ったというのも、敗戦の当然の結果なのです。
最後に愛国とは何かという点、 国の実質が憲法であるなら、愛国とは現憲法を守ることだと著者は主張します。公務員は憲法99条で愛国者であることを義務付けられているし、愛国的な国民も憲法を守ることがそれに繋がるという事ですね。
ブータンも近年、憲法が発布されました。これでやっと近代国家になれたわけです。
JICA 海外ボランティアには下記のような任国外旅行という規定があります。
私事目的任国外旅行制度とは、ボランティアが休養や生活物資購入等の私事目的で自費により受入国外へ旅行する制度です。
旅行日数 年間:上限20 日
実施要件
1.配属機関からの文書による休暇の承認が得られていること。
2.ボランティアの活動上支障がないこと。
3.旅行先国及び経由地について、安全管理上又は外交上支障がないこと。
4.受入国到着日の翌日から起算して90 日を経過していること。
5.旅行の目的地がJICA の定める国であること。
申請と承認
在外事務所長等が実施要件を満たさないと判断する場合には、任国外旅行の取り止め又は日程・目的地の変更を命じることがあります。
かなり、色々な規制があって自由に旅行できる雰囲気ではないですね。
ところが日本国憲法には次のような条文があります。
第22条
2. 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
これは 何人も海外渡航の自由を侵されない、と読み替えることが出来るのですが、それに対してJICAの規則の、特に太字の部分はずいぶんと自由を侵しているように見えるのは私だけでしょうか? 憲法は日本の最高法規ですのでこれを逸脱する事は出来ません。でも、JICAはこれを逸脱している... 憲法違反では? 皆さんの御意見をお待ちします。
人権はときに他の人権との葛藤を起こす、特に公共の福祉という名目と...
それを正しく解釈し乗り越えて行く為に、この新しい「切り札としての人権」という概念が提唱されている
平成1 5 年6 月
衆議院憲法調査会事務局より
基本的人権の根拠をオーソドックスな学説のように、「人間固有の尊厳」に求め、それは結局、社会全体の利益に還元され、そのことから「公共の福祉」による制約を認めるのであれば(一元的内在制約説)、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどなくなる(結局、すべての人権が「公共の福祉」に還元されてしまうことになる。)。そこで、人権とは何かについての意義に関し、「公共の福祉」に還元することができない人権を見い出すために、「切り札としての人権」が提唱されている。長谷部恭男は、これを次のように説明する。
「(1)個人の自律 公共の福祉に還元されえない人権 もし人権保障の根拠が、通説の主張するように、結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が、社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くの人にとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。その場合、公共の福祉には還元されえない部分を、憲法による権利保障に見る必要がある。少なくとも、一定の事項については、たとえ公共の福祉に反する場合においても、個人に自律的な決定権を人権の行使として保障すべきである。いいかえれば、人権に、公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求をくつがえす「切り札」としての意義を認めるべきである。……
(2)人格の平等と「切り札」としての権利 個人の根源的平等性 「切り札」として働く権利であるためには、いかなる個人であっても、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、多数者の意思に抗してでも保障してほしいと思うであろうような、そうした権利でなければならない。そのような権利の核心にあるのは、個人の人格の根源的な平等性であろう。他人の権利や利益を侵害しているからという「結果」に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて自分の人生を理性的に構想し、行動しうる人間として見なしていないことを意味する。……
少数者にとって意味のある権利 このように、個人の自律に基づく「切り札」としての権利は、個々人の具体的な行動の自由を直接に保障するよりはむしろ、特定の理由に基づいて政府が行動すること自体を禁止するものと考えられる。このような意味での「切り札」としての権利は、あらゆる問題について社会の大勢に順応して生きようとする人にとって、また現に社会の多数派と同じ考えを持っている人にとってはさして価値のない権利であろう。それは、少数者にとってのみ意味のある権利である。 民主政の前提 また、今述べたような意味での個人の根源的な平等性は、憲法の定める民主的政治過程の根本にあるはずの原理である。あらゆる個人を自律的かつ理性的にその人生を選択できる存在だとする前提があってこそ、理性的な討議と民主的決定を通じて、社会全体の公益を発見しようとする考え方が生まれる。また、この同じ前提は、そもそも個人を単なる強制や威嚇や操作の対象としてではなく、理性的な対話の相手として考えるための必須の条件でもある。多数決による決定だからという理由で、この個人の自律的な決定権を否定するならば、民主政治の前提自体が掘り崩されることになる。
(3)「切り札」としての人権と公共の福祉に基づく権利 2 種類の憲法上の権利 「人権」ということばは、さまざまな意味で用いられ、現在では、憲法上保障された権利をすべて人権という用法が一般的である。しかし、個人が生来、国家成立前の自然状態においても享有していたはずの権利という、人権本来の意義に即していえば、個人の自律を根拠とする「切り札」としての権利のみを人権と呼ぶのがより適切である。……」
(長谷部恭男『憲法』第2 版 120-121 頁)
日本国憲法は自由な精神に満ち溢れている