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徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

フランス旅行 9,10日目 帰国

2017年06月16日 | 旅行

最終日オン・フルールから帰国の途に就く。しかしこれが長い長い旅路

まず、オン・フルールからタクシーでドゥービル・トゥルービルまで行き列車に乗り、リジューで乗り換えてパリへ。パリからロアシーバスで空港へ。

空港では警察が不審な荷物があったとかで空港を一部閉鎖してポリスが行く手を塞いでいる。テロの影響でナーバスになってるんだな。それを何とか迂回してやっとチェックインしてさようならパリ オルボァール!

これですんなり旅が終わればラッキーですが、そうは問屋が許さない。 上海での乗り継ぎ便が1時間半遅れ\(^o^)/ もともとの計画では9:30pmに着いて最終はるか10:16pmに乗る予定が完全に狂って最悪関空で夜を明かす覚悟だったが、たまたま最終京都行バスに間に合いバス・電車・タクシー・駐車してあった自分の車と乗り継ぎ、深夜1時過ぎになんとかヘトヘトになりながらも自宅にたどり着いた。

まあ、今回の旅は体力と知力の限界を試されるような旅で、60過ぎには少々厳しいものでしたが実に充実した旅行になりました。 

でも、こんな目に合うのは当分遠慮したいね(´・ω・`)

 


フランス旅行 8日目 オン・フルール

2017年06月16日 | 旅行

いよいよ最終宿泊地のオン・フルールに向かう。まずはモンサン・ミシェルから最寄り駅のあるポントルソンにバスで向かう。ポントルソン駅は小さな無人駅

そこから二時間ほど列車に乗ってノルマンディー上陸作戦の激戦地オマハ・ビーチ近くのカーンまで行く。

そこからまたバスでオン・フルールへ

オン・フルールは実に古くて美しい港町です。 

 


フランス旅行 7日目 ル・モンサン・ミシェル

2017年06月16日 | 旅行

トゥールから電車でルマン経由レンヌまで行き、そこからバスでモンサン・ミシェルへ向かう。バスでは真ん前の席に座れたので運転手があの角を曲がると見えるぞなんていうのを聞きながらだんだん近づいてくる景色を楽しめた。

宿泊は島内にある有名なラメール・プーラール 半年前から予約を入れてやっと泊まれました しかし、古くて古くてエレベーターなど無いので荷物を部屋まで運ぶのが一苦労\(^o^)/ 部屋はこじんまりしていましたが清潔で過ごし易い部屋でした。

これが名物の巨大オムレツ でも、あまり旨いものじゃ無いな(´・ω・`)

奥さんはクレープが美味しいと言って食べてました

島につながる橋が去年完成し潮通しが良くなり湾内の生環境が改善されているようです

島内でNHKの世界街歩きの撮影チームを見かけました、そのうちTVで見れるかもね

島内に泊まると見れる夜景がきれい

 

 

 

 

 


フランス旅行 6日目 トゥール

2017年06月16日 | 旅行

この日も朝から城めぐり。ブロワから城めぐりの循環バスが出ているとのことなので電車でブロワに向かいました。

駅から10分ほど歩くとブロワ城の城壁が見えてきます。この城も戦略上重要な城で重厚な城壁を持っています。この城のそばのインフォメーションで循環バスのことを聞くとなんと平日はやってないとのこと\(^o^)/ これで、我々の計画は脆くも崩れ、さてどうしたものかと思案。仕方がないのでここは奮発してタクシーでシャンポール城に向かいました。

シャンポール城は世界遺産でロワールで最大の規模の城です。この城は王国予算の全てを注ぎ込んで建てた贅沢な城ですが、なんと王様が狩猟するための物なんです。つまり遊び用の城\(^o^)/ この城の周りは東京都より広い狩場になっていて鹿やイノシシ、熊などがいます。

この城の特徴はツクツクと林立する塔群

特に中央の塔はダビンチ設計による上りと下りが決して交わらない二重らせん階段が城一階の大広間から頂上まで続いています。

こんな遊びというか妄想=夢の現実化のような巨大構造物をつくってしまう社会構造とは何だろうか?と考えてしまいます。単に王様の強権力行使では済まない人間の上昇志向が生み出したエジプトのピラミッドのような建造物。

このあと路線バスでブロワ駅に戻りました。バスに乗ってたのは僕らだけでしたw

ブロワから電車でオンザンへ移動して次のショーモン・シル・ロワール城に行きました。オンザンは小さな無人駅

ここからショーモン城まで徒歩で行きました。フランスは流しのタクシーが殆んどないので駅前ではタクシーは拾えません。ところがお城はロアール川を越えた遥か向こうの丘の上\(^o^)/

やっとたどり着いたショーモン城

御伽噺の中に出てくるような可愛らしい城です。ここは最初に出てきたシュノンソー城と関係が有りカトリーヌに追い出されたディアーヌが代わりにこの城をもらい移り住んだのです。ちなみにカトリーヌはアンリ二世が槍試合で死んだあと摂政となり占星術師を使って政治をしていました。その一人があのノストラダムスです。

 

 

 

 

 


フランス旅行 5日目 トゥール

2017年06月16日 | 旅行

この日は早朝からパリのモンパルナス駅にむかい、TGVでロアール地方の中心都市トゥールに移動。

上の写真は駅で苦労して発券してる様子w ヨーロッパの駅には改札が有りません。車内で時々車掌が回ってきて検札します。どこから乗ったのかを証明するために乗車前に下の写真の刻印機に切符を差し込んで印字します。

ヨーロッパの鉄道は日本と違い在来線も広軌なので350キロで走るTGVも在来列車も同じ線路を走ります。だから日本見たいに新幹線乗り場が別れてるわけではなくTGVは普通のホームに入ってきます。何番ホームから出るかは発車20分前にならないと表示されません。最初、これらのことをよく理解していなかったので戸惑いました。で、ようやく乗れたのが下の列車。

フランスの列車の乗り心地は日本より良いです。揺れないしレール音がほとんどしません。ただ、高架じゃなくて地べたを350キロでぶっ飛ばすので大丈夫なのかと心配になります(´・ω・`)

1時間ほどでトゥールに到着 ホテルは駅前のグランドホテル ちなみにトゥールはターミナル駅なのでTGVは通過しません。TGVで一駅前で降りて乗り継ぎ5分でトゥールに着きますのでお間違い無く。

ホテルに荷物を預けて早速城めぐり。最初に向かったのがシュノンソー城、トゥールから電車で20分くらいのところにあります。駅を出て踏切を渡って左に行くと並木道が有ってその先にお城があります。

この城は国王アンリ二世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエが最初の城主で、彼女はアンリ二世の死後、彼の未亡人であるカトリーヌ・ド・メディシスに城を追い出され城はカトリーヌの手にわたりました。それで、城の前にはディアーヌの庭園とカトリーヌの庭園が別々にあり其々の性格を表した特徴をもっています。

この後に丘を越えてロアーヌ川沿いのアンボワーズ城に行きました。この移動は列車だと一旦トゥールに戻り別線でアンボワーズに向かう必要があるのですがバスで直接ショートカットすることが出来ます。バス停は道を戻って村の中を突っ切って幹線を左に向かった村はずれにあります。城から歩いて15分くらいでした。この日は平日でしたが学校がすでに休暇に入っているので12時25分の便がその日の最終で運よくこれに乗れましたがこれを逃すとトゥールまで戻るはめになります。

中世の城といっても色々な目的が有り最初のシュノンソーのように女城主の館のような場合や、戦略上重要な拠点としての城などがあります。このアンボワーズ城は後者に当たりロアーヌ川とアマス川の合流地を見下ろす高台にある戦略上重要な城で分厚い城壁と川に向かった砲門を備えています。

もう一つ特筆すべきはレオナルド・ダ・ヴィンチがこの地で逝去し葬られている事です。

イタリア人のダビンチがなぜフランスのこの地で生涯を終えたかについてはダビンチがシオン修道会の総長であったことと関連していると思います。フランク王国からのキリストの血の血脈を守るシオンですね。


フランス旅行2-4日目 パリ

2017年06月14日 | 旅行

パリでは4泊して歩き回りました(´・ω・`)

ホテルから歩いて5分のルーブルは朝はひとけが有りませんね

人のいないルーブルでパチリ

モンマルトルはテロなんて関係無い!とばかりの人だかり

モンマルトルの外れにあるラパン・アジル(ピョンピョン・ウサギ)有名なシャンソンバー

お上り凱旋門とエッフェル塔

夜はたっぷりフレンチフルコース

 

フランス名物カタツムリ このタコ焼き器みたいな陶器のうつわごとオーブンで焼くんですね。味はどうだって? バター味のつぶ貝だね(´・ω・`)

ルーブルの恋人 モナリザ様をパチリ 

モナリザはルーブルでも別格なんですね。この絵だけは4m以内に近づけ無いようにガードされていてルーブルの中心に置かれている。この絵が他の作品と違うところはあの微笑みに含まれる人間性の復活を示しているからだろうな。ミラノで見たダビンチの最後の晩餐もそうだったが彼の絵はそれまでの絵と違って人物が生き生きしてて自然なんだな。人の内側にある人間性まで表象しているというか 僕は絵のことは良くわからないが、ダビンチが他の絵描きとは違うことだけは判るな(´・ω・`)

 

追記

モナリザのドキュメンタリー番組でルーブルの学芸員が印象的なことを言ってたな

 ”皆がまだ寝てた時代にダビンチだけが眼を覚ました"ってね(´・ω・`)

 

 

 


フランス旅行 第一日目

2017年06月14日 | 旅行

久しぶりにヨーロッパ旅行に行ってきました。僕自身はアジアとかインドとかが好みでヨーロッパは物価が高いし白人のツンとした態度があまり好きではないのですが... まあ、相方の好みに合わせましたw

フライトは激安中華 往復3万3千円\(^o^)/

今回のルートはパリに3日ほど滞在してその後、電車でトゥールに移動して2日ほどロアーヌ地方の古城めぐりをして、また電車でルマン経由レンヌからバスでル・モンサン・ミッシェルに行き、翌日電車とバスを乗り継いで古い港町のオン・フルールで一泊してパリに戻るというルートで8泊11日の電車と路線バス旅みたいな結構ハードな旅行でした。

パリには夜8時ごろ着いたのですがフランスは緯度が高いのと夏時間で10時すぎないと暗くなりません。空港からはバスが安くて良いのですが初日はバス停からホテルへの移動が面倒だったのでタクシーで市内に向かったのですがこれが大失敗。条例で空港から市内までは50ユーロFIXのはずが運ちゃんともめて、野郎高速の途中で下すとかぬかすので運転席の後ろから首を絞めてやろうかと思いましたが思いとどまって怒鳴りつけるだけにしましたw いきなり不愉快発生ですが思い起こせばイタリアでも同じことを経験しました。ヨーロッパのタクシーの運ちゃんは生活が苦しいので日本人旅行者をカモと思って吹っかけてくるんでしょう。ところがこちらはインド仕込みの筋金入りですからただじゃ置きませんぜwww とはいうものの家内が手綱をグイッと引くもんだから運ちゃんとは適当なところで折れてホテルに到着、50ユーロの代わりに70ユーロ払いました(´・ω・`)

ホテルはオペラ座近くのノルマンディー・ホテル。古いホテルですが部屋は結構広くて値段もそこそこで、何といってもパリの中心に位置してどこへ行くにも便利でした。


春の宮島

2016年04月07日 | 旅行

私事ですが昨年母が脳梗塞で倒れ入院している。見舞いに家内と九州まで車を走らせ、帰途に安芸の宮島に立ち寄ってきた。

夜明けまで降っていた雨も上がり春爛漫の風景

宮島ってフェリーで渡るのを今回初めて知った。10分くらいで着く香港島くらいの距離。厳島神社は平清盛の創建になる海に浮かぶ極めて珍しい造りになっている。まあ、神社というより清盛の寝殿造りの別荘みたいなものかもしれないな。祭神は宗像三女神。これは宇佐神宮との繋がりを感じる。宇佐とは周防灘を隔ててそう遠い距離ではない。

たまたま神社で出くわした結婚式、晴れがましいね。

島内には野生鹿が沢山いてこいつは桜の花びらをせっせと食べていたな。

こちらは名物の焼がき、なんだか異様にでかい。

広島焼も食ってきた。 花より団子だねw

 

 


大学山岳会OBの集い

2015年10月05日 | 旅行

大学の山岳部OBが集まってバーベキューパーティーをやりました。正式には2015年度山岳会総会およびヒマラヤ登山35周年記念集会というものですが、まあ年に一度集まって酒を酌み交わしながら語り合うと言う趣旨です。(と、書くと怒る人も居るかも...)

私が山岳部に入った頃は登山ブームも過ぎ去り、学園闘争の嵐も収まり怒れる若者から安寧な生活を楽しむ風潮に変ってきて、部員減少に悩んでいた時期でした。そこに何をトチ狂ったか私が部室のドアをノックしたものだから先輩諸氏から花よ蝶よとおだてられ、ずいぶん可愛がって頂きました。しかしその後はやはり永くは続かず結局のところ我々とその後の数名で山岳部は廃部と成ってしまいました。 と、言う事で後が居ないので私は何十年経っても一番の下っ端で先輩諸氏に奉仕する身分は一生続きそうです。

今回はロッジを借りてバーべキューをしたのですが食料調達計画に結構悩みました。皆さんお年を召されているのでどれだけ食らうかという事と、万が一食料不足になった場合の非難の応酬を恐れてかなり慎重に量を検討したのですが結果として満腹とはいかないまでも、まずまずの好評で終わりました。最長老の先輩からは、締めの焼きそばが良かったぞよ、と嬉しいお言葉も頂きました。

しかし、思うに一番の御馳走はこの火でしょう。 満腹になって火を囲んで語りあう、というのは太古の昔、人類が火の使用を始めて見つけた幸福ですね。

ちなみに、クーリッジ効果という現象があって、多人数で食事をすると良く食う奴に釣られて全員が健啖になるらしい。これは、養鶏場のニワトリもヒトも同じらしいですよ。

ということで、お疲れ様でした、また来年...


宇治・三室戸寺のアジサイ

2015年06月15日 | 旅行

アジサイが見頃だという女房殿にせっつかれて、西国10番札所の三室戸寺へ行ってきました。

アジサイは満開で人出もいっぱいですね。

境内には蓮池があって蓮の花も開きだしていました。

寺の参道脇のアジサイ園ではいろんな種類のアジサイが咲き乱れています。

鮮やかな赤いアジサイ

こんな変った種類もあります。

梅雨の合間の暑い日ですがアジサイは元気


北海道 バイク旅行2008

2015年03月25日 | 旅行

古いデータをひっくり返してたら7年ほど前に北海道をバイクで旅行したときの写真が出てきた。

このブログを始めたのが2010年からだから、それ以前の写真と言うことになる。当時、東京の会社に単身赴任で勤めていてウツウツとしていた時に、それ以前に25年ほどいた外資系会社の仲間がインドで液晶工場を立ち上げるという話で声をかけてきて、それじゃあと言うことで東京のアパートを引き払い会社を辞めた。その時に一人で北海道をバイク旅行するのが夢だったので東京から日本最北端の宗谷岬を目指してバイクで走った。

季節は夏、東京から高速に乗り白河の関を目指す。

愛車はSUZUKI Djebel250 デカタンクの油冷単気筒250ccオフロードだ。太いトルクでドコドコ走るのだが高速では120km/hが限界、燃費は25km/Lくらいは平気で走る。強みは轍があれば何所までも行けること、このバイクに不可能はありません。

白河関を越えて、みちのくに入り松島を目指す。ああ松島の近くの空き地で初日キャンプ。この3年後に松島は津波に洗われる。

翌日は平泉の中尊寺金色堂をめざす。

金色堂って建物の中にあるのね。みちのくと言えば芭蕉翁。

五月雨の 

     降り残してや 光堂

それから会津若松で喜多方ラーメンを食って磐梯山を見ながら遠野へ 遠野は不思議なところだね、古い曲屋が残っている。

それから宮沢賢治ゆかりの浄土ヶ浜を通って北上し青森へ 途中に何ヶ所も明治津波の到達位置を示す看板が建っていて、とてもここまで海水が来たとは信じられない気分だったが311津波はそれを超えた。

青森・三沢市の小川原湖畔でキャンプをして下北半島・恐山へ 下北半島の太平洋側は恐らく日本で最も荒涼とした土地だろう。霧の下北半島を走って原燃処理施設のある六ヶ所村を通過したときは地獄に仏といった気分だったな

恐山はバイク仲間がいっぱい

恐山を見て青森へ戻って北海道に渡る 実は下北半島北端の大間町からフェリーが出てるのを後で知った。

函館郊外でキャンプ 雨模様 北海道は夏でも寒い

さあ、北海道だ 昭和新山を見て富良野でキャンプ

ひたすら北上して やってきました日本最北端

 宗谷岬では今回の旅で唯一の民宿泊まり、毛蟹を特注してビールで北端到達を乾杯 ここから網走まで南下するがガススタンドが50kmおきにしかない 網走は大雨だった 翌日は知床半島を横断して釧路湿原

鶴見村でキャンプ この小さなテントが我が宿 雨が降ると漏って寝ておれんのヨ

向こうに見えるのが国後島 返せ北方領土

鶴見村から襟裳岬へ 

日高の牧場のそばでキャンプ 馬が放牧されていますね

昆布も干してます

苫小牧を過ぎ羊蹄山麓を通って神威岬へ ここで食った、うに丼に満足

それから札幌へ

札幌から小樽へ そしてフェリーに乗って関西へ帰ってきました フェリー到着が夜の8時で山道を4時間ほどかけて帰ったのが一番怖かったw いやー夏の北海道は最高だな トウモロコシ、メロン、ジンギスカン、毛蟹とビール 真っ直ぐな道路 ホッカイドーデッカイドー 最高!

嗚呼、また行きたいな ロードスター買ったらカミサンは置いて一人で行くっかな いえね、キャンプしながらの旅が好きなんですが意見が噛合わないんですよ 奥様はホテルかペンションじゃないと我慢できないらしくって...

 

 


湖南三山 長寿寺の紅葉

2014年11月24日 | 旅行

天気が良いので紅葉を見に、湖南の長寿寺に行ってきた。

紅葉は今が見頃で見事に色づいている。

この寺は紫香楽宮の鬼門を封じる為、和銅年間(708-715)に良弁が開山した古刹だ。普段は余り訪れる人も無いが、紅葉の時期は賑わっている。

 

   千早ぶる 神代もきかず 龍田川
             からくれなゐに 水くくるとは


 


桂林の旅

2014年11月02日 | 旅行

朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山


中国の桂林に家内と行ってきました。 ハイライトは桂林から陽朔まで漓江下りの4時間半。川下り当日の早朝は小雨模様でしたが、その雨も上がり霞んだ岩峰の連なりが続く風景は、まさに水墨画の世界です。桂林と聞くとやや陳腐な感じもしますが、実際に訪れると本当に素晴らしい、ワアンダフル。

桂林を含む中国南方カルストはデボン紀・石炭紀この辺りが浅海(テーチス海)だった頃堆積した、サンゴや貝などの石灰質を、その後の隆起と雨による侵食が作り上げた奇観です。

川下りの船は実にインターナショナル。フランス人、ベルギー人、インド人、ウクライナ人と日本人及び中国人スタッフが乗っていました。

観光の外国人とは関係ない河の暮らしもあります。

桂林市内にも岩山がボコボコあり実に面白い地形です。

下船地の陽朔は小さな町ですが、なかなかおしゃれな雰囲気です。

鵜飼のおじいさん。本当は写真を撮ると5元請求されるのですが船室からこっそり撮ってゴメンなさい。

川エビを揚げてるオバサン。このエビ、塩を振って食べるとビールのつまみに最高、ただし油に注意、中国ですから下水油と言う事も有ります。

中国の犬はなかなか立派で堂々としている。吠えないし尻尾も振らない。ちょっと狼ぽい感じがする。ただ、広東人はこれを好んで喰らう らしい。

中国にはこんな奴もいる。のんびり笹の葉っぱを食べているように見えるが、良くよくこいつの目つきをご覧下さい。実に小ずるそうな細っこい眼をして一体何を考えていることやら

中国の民芸品の老人は哲学者である。

桂林名物の豆板醤と生姜飴。豆板醤は辛いが旨いので大量に買い込んだぞ。

今回は4泊5日で29800円という激安ツアーで桂林に行ってきたのですが、僕等以外の日本人観光客は一人も見かけなかった。80年代、90年代には桂林だけでなく世界中の観光地が日本人で溢れかえっていて、石を投げれば日本人に当たる状況だったのが嘘のようです。

日本語しか出来ない中国人ガイドは商売上がったりで、これからどうやって喰っていこうか思案する事しきり。この桂林ツアーも風前の灯で、今年はこれで打ち止め、来年以降はどうなるか判りません、との事だそうだ。日本人観光客が多かった頃には成田や関空から直行便が何本も飛んでいたのが、今では上海、広州、桂林と3回も乗り継いで行く必要があります。こんな値段で桂林に行けるのもこれが最期かも知れませんね。

 

 

 


桜満開

2014年04月03日 | 旅行

先日までの雪が積もって寒かったのと打って変わって、急にポカポカ陽気になってきて桜も見頃です。

 

家内と改修の終わったばかりの宇治の平等院や京都の北山・鷲峰あたりを巡ってきました。

京都の仁和寺には御室桜という有名な桜があるのですが、この桜何が有名か、というと遅咲きで有名とのこと... 残念ながらまだ蕾でした。

『徒然草』 第52段.仁和寺にある法師

仁和寺に、ある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。


香港

2013年12月13日 | 旅行

家内が香港に行ったことがないので一度行きたいとノタマウので3泊4日で行ってきました。

この時期は本当なら夜景が一番冴える筈なのですが、異常気象のせいで1,2月に発生するはずの霧が12月から出ていてあまりすっきりとはしていませんでした。でも地震の無い場所に立つ高層ビル群には呆れるね...

香港に来たら食べるしかないわけですが、

当方、人品があまり高級に出来ていないので結局一番旨いのは麺屋で食べる$30くらいのワンタン麺。エビのブリブリ雲呑と細麺とスープが堪りません

市場には活気があります

夜の金魚街ではディスカスが$70で袋に入れられてぶら下がっていました。

日本はまだまだ人気があるようで、奇妙な日本語が結構目に付きます

香港でとても残念なのは東洋のカスバ、九龍城が1994年に取り壊されてしまったこと 今はキレイな公園になっていますが、在るあいだに行って見たかったなあ....

公園入り口にある、かっての九龍城のミニチュア

在りし日の九龍城

今残っているのはゲートの鉄筋コンクリートだけ

香港もなかなか面白いところでした しかし、家内と行くと買い物をする場所が多すぎて極めて危険な地域でもあります。

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九龍寨城 Wiki  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%BE%8D%E5%9F%8E%E7%A0%A6#.E5.8F.96.E3.82.8A.E5.A3.8A.E3.81.97

1898年イギリス清朝から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借。九龍城砦は新界地区に所在していたが、例外として租借地から除外され清の飛び地となる。後にイギリスの圧力で清軍・官吏等が排除されてしまい、以後中国大陸中国国民党率いる中華民国となって以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となる。


1941年から1945年日本軍による香港占領期間中に、近隣の啓徳空港(旧香港国際空港1998年に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊された。1940年代中国内戦と、1949年中国共産党率いる中華人民共和国の樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの流民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化する。

1960年代から1970年代には高層RC構造建築に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された環境から「東洋のカスバ」(アルジェのカスバ参照)、「東洋の魔窟」と呼ばれ、「アジアン・カオス」の象徴的存在となっていた。しかし1984年英中共同声明により香港が1997年に中華人民共和国に移譲、返還されることが確定すると1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。

1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その後すぐに行われた再開発後に九龍寨城公園 (Kowloon Walled City Park) が造成された。