![]() | オウムからの帰還 |
高橋 英利 | |
草思社 |
オウムが衆議院選挙に出てきたときに、麻原のお面をかぶって、無駄に元気に踊っているのをみたときには、バカな宗教団体としか思わなかったですけど、その後、あんな恐ろしい事件を起こすようになるとは夢にも思いませんでした。
年表で見ると、オウム真理教は、84年にオウム神仙の会というのがつくられて、87年にオウム真理教に改称され、89年8月に宗教法人に認定、実は、その同じ年に坂本弁護士一家が拉致・殺害されているんです。もう、結成当時から恐ろしい団体だったということですね。衆議院選挙は翌年ですから、バカな宗教団体と笑い飛ばせるようなところでは、その当時からなかったのでしょう。
この本は、オウム信者の手記ですが、何で、オウムに入ったのかという点では、とても、他人事ではないというか、誰でも、そこに入りうる可能性があったと思うし、自分自身の存在意義を真剣に考える人間だあればある程、オウムはその受け皿になりえたと思いました。
自分なんかよりずっと頭が良くて、批判的な精神も持ち合わせていて、いろんな本を読んだり、科学のこともずっと深いところまで精通していたわけで…そういう人がオウムに入って行ったわけです。
まるで機械のような運動をしているかのように見える社会、その部品となって動いて満足している人間たち・・・そういうものととらえたときに自分の存在ってなんだろうと、真剣に考え…そこに救いの光を見出してくれたのが、オウムだったんですね。
自分からみれば、恐ろしい狂気の集団だったオウムも、この手記を見ると、一人ひとりのオウム信者はそういった、終末的な世界に心を痛め、自分の生きる道を真剣に考えた人たちだったと思うと、とても、やり切れない思いになります。社会のゆがみからくるものもであるわけで、そうやって考えると、麻原に力を与え、オウムを狂気に走らせたのも政治であり、社会であると考えてしまいます。
あんなアニメの世界をみているような恐ろしい発想を実行することができたことに人間の狂気を感じます。人間は感情もなく人を殺せるようにも作り替えられることができるわけです。
信じ込んだもののために、正しいお思い込んだ世界のために、平気で人を殺せるんですね。
絶対主義的天皇制のもとでも、そういう体制が国家として作られていたわけで、そうやって考えると、あの戦争は過去のものでなく、油断をしているとまた復権してしまうかもしれない。そんなことを、この本を読みながら思いました。
84年につくられて、95年に麻原が逮捕されて、たった11年間で、これだけの組織を作り上げてしまったオウム。オウムへの共感がなければ、信者は生まれないわけで、オウムを大きくしたのも社会のゆがみと考えると、本当にぞっとしてしまう。