唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

最近、人間の死を考える機会が多い

2014年03月15日 | ほか
ネットで見た殺人事件の話がトラウマになったり、映画で小さいおうちを観たり、録画した「遺族」という特攻の話を観たり、知り合いが亡くなったり、戦争体験の本を読んだり、今日たまたまテレビでやっていた団地ともおまでもが、死をあつかっていたり。昨日のテレビでも人を喰う映画の特集なんていうのをやっていたり。

いろいろあって死を考える機会が多かったけれど、多かったと思うのは、自分が、その殺人事件の話をきっかけに、人の死に対してとても神経質になっているせいなんだろうと思います。よくよく考えると、テレビや映画で人がいっぱい死んでいるのに、そのことに対して、無感覚でいられたんですね。戦争での死の話だって無感覚。一つ一つ簡単に描かれている「死」が、そんな簡単に済ましてはいけないものであることもわかるんだけど、そこがマヒしちゃってます。

でも、一つ一つの死にいちいち傷ついていたら、人間は生きることをやめるしかなくなっちゃう気もします。人間は良くも悪くも、人の死を忘れることができる、無感覚でいられる、良く言えば乗り越えられる生き物なのでしょう。人がうまれた数だけ死があるんですからね。

この間、暗闇が怖かったけれど、これは本能的に死の危険性が高いことを察知していて、その感覚が研ぎ澄まされていたからなのかも。でも、それも日常の中で、また薄れていく。そうでなければずっとおびえて暮らすことになってしまう。

それでまた思いめぐらせてしまうのは、3.11です。
家族、知人、友人が目の前で死んでいくわけです。
それを体験した人が、そう簡単に忘れたり、無感覚になったり出来るのだろうかと。自分が体験していないその身近な死は人間の心の深いところで大きな傷をつけて、毎日おびえている人、何かの拍子にその感覚がふっとよみがえったり、そんな絶望感に支配されてはいないかと思うわけです。「遺族」の特攻の話でも、あの当時を生きている人にとっては戦争による死は直接的にその人を切りつけ、深い傷を負わせたからこそ、どんな保守的な人でも、「戦争をしてはいけない」と心から思えるのでしょう。これは理屈ではなく、心の叫びのようなものとして戦争は駄目であると、反射的に感じるのでしょう。

最近は人の死をえげつなく映像化したり、これでもかというぐらいの残酷なシチュエーションを与えたりしてますが、それは、実は、死を身近にとらえられない現代人だからつくれるものなのではないかと思えてきました。ニュースで誰かが殺されても、マヒしてしまってそれをなんとも思わなくなっている。それは現代病かもしれませんね。

3.11のあとに、自分が一時期、映画を観れなくなったのは、現実をみてしまったから。現実の前に空想はここまで無力なのかとも思ったけれど、あの時は現実に向き合わざるを得なかったわけです。知り合いを失っていない自分でさえそうなったわけだから、当事者にしてみたら…。

…というわけですが、それでも人間は生きることをやめるわけにはいかないので、人の死を乗り越え、つながりが薄い人のことはどんどん記憶から消えていき…、でも、無感覚にはなってはいけないなんてことを考えました。

…今まで見た映画の中で、何人ぐらい人は死んでいるのかな。

…仕事中に何を書いているのやら。