「赦しとイエス・キリスト」
自分の内に「赦さない心」があることを知っています。
わたしの愛が足りないのはそのせいです。
信仰が弱く、希望を持てないのも、福音に対する喜びが小さいのもそのためです。
もしも主の赦しを真の意味で理解できたなら、彼のように愛することができるのでしょうね。
そう思ってはいるのですが、いかんせんわたしにはイエス・キリストの赦しを理解することができません。
主には赦しの権能があるのに、なぜ神の罰があるのでしょうか。
日の栄えだけでなく、月や星、外の暗闇まで備えられているのはなぜですか。
理論的には教えられて知っています。
でもその真の意味を思えば、やはり疑問だらけです。
教会では「赦すように」と教えるのに、教会の中に「赦さない心」を見ることがあるのはなぜでしょうか。
たぶん、多くの人が教会に疑問を抱き、離れて行く理由です。
「人の弱さを赦しましょう」と聞きます。
それを言う人には主の赦しがあるのでしょうか。
…なんて言うと、なんだかすごく悲観的ですね。
でも、それが現実のように見えます。
人には罪があり、弱さも赦さない心もあります。
それを認めた上で主に従おうとしているのが、主に従う人の真の姿ではないのでしょうか。
わたしには主の赦しを理解することができません。
理解がないので行うこともできません。
だから、学び、従おうとします。
それがわたしの信仰です。
いくら偉そうなことを言っても、行えていないのは事実です。
それでも前に進みたいと思います。
「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことにあなたがたに言う、わたしのようでなければならない」3ニーファイ27:27
自分の内に「赦さない心」があることを知っています。
わたしの愛が足りないのはそのせいです。
信仰が弱く、希望を持てないのも、福音に対する喜びが小さいのもそのためです。
もしも主の赦しを真の意味で理解できたなら、彼のように愛することができるのでしょうね。
そう思ってはいるのですが、いかんせんわたしにはイエス・キリストの赦しを理解することができません。
主には赦しの権能があるのに、なぜ神の罰があるのでしょうか。
日の栄えだけでなく、月や星、外の暗闇まで備えられているのはなぜですか。
理論的には教えられて知っています。
でもその真の意味を思えば、やはり疑問だらけです。
教会では「赦すように」と教えるのに、教会の中に「赦さない心」を見ることがあるのはなぜでしょうか。
たぶん、多くの人が教会に疑問を抱き、離れて行く理由です。
「人の弱さを赦しましょう」と聞きます。
それを言う人には主の赦しがあるのでしょうか。
…なんて言うと、なんだかすごく悲観的ですね。
でも、それが現実のように見えます。
人には罪があり、弱さも赦さない心もあります。
それを認めた上で主に従おうとしているのが、主に従う人の真の姿ではないのでしょうか。
わたしには主の赦しを理解することができません。
理解がないので行うこともできません。
だから、学び、従おうとします。
それがわたしの信仰です。
いくら偉そうなことを言っても、行えていないのは事実です。
それでも前に進みたいと思います。
「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことにあなたがたに言う、わたしのようでなければならない」3ニーファイ27:27