まったく入らないのよ、困ったわ・・・と看護師も医師も頭を抱えている。
おそらく雨が間近で待機しているせいで、空が重いから仕方ないですね、と
渋い柿でも食べたみたいな表情を浮かべた私の、無理やりつくった笑顔の嘘がばれたらしく、
我慢強い患者さんを目前にすると、こっちの未熟さが申し訳なくてね・・・と
私の主治医である女医は深々と頭を下げた。
私の血管が点滴針を拒絶してしまうようで、
すでに五箇所の傷が腕を赤々と染め上げて、
6回目に入らなければ止めましょう!と提案したところで、針が体内へ吸い込まれていった。
ようやく・・・・・と誰もが言葉とも溜息とも取れない吐息を漏らしたとき、
ふぅ~っと肩の力が抜けていく様が肉眼ではっきりとみえてくるように院内に充満していった。
それは春を思わせる桃色や桜色に非常に近い色彩で、
安心の香りを漂わせた心地のよいものだった。
窓外から聞こえてきたのは、道路に叩き付ける激しい雨の音で、
ほら、やっぱり!!と私がクイズでも当たったように勝ち誇って言うと、
体は正直なのね、こと血管は・・・と主治医は頭を掻き毟って芥川のようになった。
勉強になるわ、と一言残して、緊張が解けた表情を浮かべ診察室へ戻って行った。
誰よりも血管の細い私は、点滴の針や点滴中ずっと蝕まれる血管痛のひどさで、
ベッドを転げまわるか、それとも空想をして意識をどこかに飛ばさないかぎり、
その苦痛に慣れる自信がなかった。
その場をやりくりする術の習得にいつしか長けていった私は、
天井にぐるぐると渦のような模様が浮かんでくると、別世界や別次元の扉がぽっかりと開いて
この世なのかあの世なのか、今なのか、それとも未来なのか、
過去なのかわからない空間が目前に広がって、
アジアに生息する美しい羽を持つ鳥にも、広大なサバンナを駆け回るヒョウにも
海の庭で優雅に泳ぐイルカにも、地中に生息する未知の生物にも、なんにでもなれた。
自分の細胞にも、未来に発見されるヒトゲノムの解読や
世界的にはすでに絶滅したといわれる種であろうと、私がなろうと思えばなんにでもなれる。
あのぐるぐるとした渦の中で手足を広げて泳いでいると、
厄介な出来事はすべて忘れられ、留めておく必要のある記憶だけが当然のように残っていった。
そういえば、私は帰宅して泣いたのだ。
それは点滴痕がちくちくと痛んだせいではなくて、
雨の音が胸底でひっそりと佇む哀愁を誘ったわけでもなく、
「書く気持ちと情熱さえあれば、いつかいいものが書ける」という一文にめそめそとして、
そのうち声をあげて、子供のように両手で目を隠すようにえんえんと泣いたのだ。
その様子をみていた母や娘は、鬼にも涙があるのだ、と
珍しそうに憎まれ口をたたきながら、しばらく私を眺めていたが、
シエルだけはくんくんと鼻を鳴らし、心に寄り添っているのだよと言うように傍でじっとしている。
あれこれ並べたところで自分との闘いでしかない。
余計なことを考える暇があるなら、書け。
私を泣かせた人の声が脳裏を掠めていく。