人として向き合う医療とはなんだろう?
なぜ、病院へ行くと点滴針の痕が無数にでき、心身共に傷付けられてしまうのだろう?
交通事故後に発症した疾患だと理解を示しながら、
検察へは「原因不明」「交通事故との因果関係は不明」となぜ書けるの?
予後の結果に対し、医療から、主治医から苛烈さを突きつけられるとき、
私の中では感覚器官のすべてが麻痺し自分を護る癖がついた。
晴れ上がっている空ですら重く、暗く感じられ、
ため息の数を増やすためだけに通院するのかなぁ~って感じることが多々あるの。
あの白衣も患者を呼び出す看護婦の声、主治医の満面の笑みを目にしても
私はもう笑顔を返すことはできないと思っている。
すべてが苦痛をつくる産物としか受け止められないのよ。
しーちゃん、せっかく医療不信から払拭できる医師にめぐり合えたというのに、
比較できるということは、残酷な結果を生むものね。
私が今まで決断できずにいたことを、
主治医の忙殺の日々を思うからこそ聞けなかったことへ機会を与えてくれた。
それは現実という自分を護る盾だった。
自分自身を誤魔化して、医師の多忙を理由にたくさんのことを諦めて、
直視せずにいようと思っていることもいっぱいあったのよ。
点滴痕は腕に一生残る傷として沈着しているばかりではなく、
心にも痛みという痕を残した。
点滴ひとつとっても、別の主治医の指示がなければ彼は動かなかったのだから。
主治医の頑張って・・・・・・と言う言葉で済まされてしまうと、
それ以外、私は言葉を続けることができずにきたのだもの。
患者が主治医を選べるように、主治医も患者を選ぶ権利を与えようと思うの。
お互いがお互いを切り捨てるのではなく、
進む道が相違するなら、離れることが最善だから。
恋人みたいなものね、きっと。
私は私なりにこの主治医との1年半という月日の中で、
患者としてやれることはやったつもり。
医師を護るために医師法を勉強し、
損保会社へ私の情報を伝える際の注意点や
それがどのように医師法に抵触する行為になるかなど患者がそこまで行う?
某医学学会へも出席をして、私の疾患の演題やそれに対する質疑応答内容を
医師へ伝える患者がどこにいるの?
覚悟を確認しようと思うの。
そうしなければ彼は医師としていずれ限界を迎えるわ。
もちろん私自身も自分の人生を後悔する結果に追い込まれてしまう。
覚悟や責任は言葉でいうほど軽くはなく、それは日々の積み重ねによってでしか
確認できるものではないのだと知って欲しいのよ。
昨夜、疲れ果てて帰宅した後、ばーちゃんに私の選択について夢見で知らせてほしいと
お願いしておいたの。
けど、ぐっすくりだった。
おそらくそれがばーちゃんの解答ね。
今日は私にとっては交通事故処理を左右し兼ねない主治医の変更否かの重要な日よ。
けれど、主治医にとっても今後を左右する、医師として問われる結果になることは明確。
いい医者になるか、それともくずで終わってしまうのか・・・・・・
周囲にこれだけの人材、私のもうひとりの医師の存在がいるのに
それに教えを被らないことは、彼の医師としての資質や力量に影響を与えるわ。
いざ、鎌倉ね!