今、会社、事業所、大学などの教育機関においても「コンプライアンスの順守」が求められています。「コンプライアンスの順守」とは法令や規則に違反していないかを独自にチェックする機能を持つ、ということで、そのような委員会や組織を各機関が持つことでそれぞれの機関の社会への信頼性が高まるとされています。
島国の日本は閉鎖社会であり、「言わずもがな」「野暮な事は言わない」という習慣があります。それは商習慣にもあって「これくらいは許される」という暗黙の目こぼしのようなものが長い間に培われてきたとも言えるでしょう。産地偽装や食品の成分ごまかし、賞味期限といったものも少々の緩さはお互い判っているけど敢えて言わない、という甘えは存在しました。一方で「これ以上誤魔化すのはまずい」という限界も存在して、やはり狭い社会なので行き過ぎの誤魔化し(例えば死人が出るような)は隠しきれないからやらない、ということもありました。狭い社会であるため一度信頼が失われると回復が困難という現実がストッパーの役割を果していたと言えます。
しかし、商業圏が拡大して、中国のように死人が出ても平気な「誤魔化し」を行うような所からも日常生活の品が入ってくると自分たちの「誤魔化し」は容認できるけど相手には法令順守を守るよう要求するようになりました。それは身勝手と言うもの、だから自分たちもコンプライアンスを順守しましょうという傾向になってきたというのも理由の一つと考えられます。
本来アメリカなどにおけるコンプライアンス順守とは、「法律で規制されていること以外は何をやっても良い」という考えから、今やっている事が法律に違反していないかを事後にチェックする必要性から産まれてきたものだと聞いた事があります。つまり基本は「何をやっても自由だ」という発想であり、規制に抵触していることが判ると罰せられるというものです。しかし日本の場合は始めに法律で「何をやって良いか」が決められているのが一般的であり、やって良いと言われている事をやっている限り法に触れる事はありえないと言えるでしょう。結果的に日本で「コンプライアンス順守」というのは習慣的に「これくらいやっても良いよね」と暗黙のうちに了解済みであった誤魔化しを暴く事の意味になってしまいました。
そうは言っても100%一切の誤魔化しのない社会などというものはあり得ません。例えば大学における研究費の消耗品費の中に消耗品でないものも少し含まれる(試験管代の中に試験管立てが入っている)位のことは運用上あってもよいことです。だからコンプライアンス順守と言われた場合「どこで線を引くか」で困ってしまうのが日本の現状ではないでしょうか。増して内部告発を奨励し、告発者を保護する、と言われても告発する内容が明らかな犯罪ならば社会正義にかないますが、習慣上目こぼしされてきたようなこととなると「果して告発が社会を良くするのか」と疑問になります。
従って、日本の社会において「コンプライアンスの順守」を重視してゆくためには、アメリカ式に「これはやってはいけない」という禁止事項を具体的に定めるようにしてゆくべきでしょう。そして後は何をやっても自由であるという状況を作ってゆく必要があるでしょう。でないと始めからできることが限られた上で、運用上の柔軟性までなくなり、社会が回らなくなってしまうように思います。
島国の日本は閉鎖社会であり、「言わずもがな」「野暮な事は言わない」という習慣があります。それは商習慣にもあって「これくらいは許される」という暗黙の目こぼしのようなものが長い間に培われてきたとも言えるでしょう。産地偽装や食品の成分ごまかし、賞味期限といったものも少々の緩さはお互い判っているけど敢えて言わない、という甘えは存在しました。一方で「これ以上誤魔化すのはまずい」という限界も存在して、やはり狭い社会なので行き過ぎの誤魔化し(例えば死人が出るような)は隠しきれないからやらない、ということもありました。狭い社会であるため一度信頼が失われると回復が困難という現実がストッパーの役割を果していたと言えます。
しかし、商業圏が拡大して、中国のように死人が出ても平気な「誤魔化し」を行うような所からも日常生活の品が入ってくると自分たちの「誤魔化し」は容認できるけど相手には法令順守を守るよう要求するようになりました。それは身勝手と言うもの、だから自分たちもコンプライアンスを順守しましょうという傾向になってきたというのも理由の一つと考えられます。
本来アメリカなどにおけるコンプライアンス順守とは、「法律で規制されていること以外は何をやっても良い」という考えから、今やっている事が法律に違反していないかを事後にチェックする必要性から産まれてきたものだと聞いた事があります。つまり基本は「何をやっても自由だ」という発想であり、規制に抵触していることが判ると罰せられるというものです。しかし日本の場合は始めに法律で「何をやって良いか」が決められているのが一般的であり、やって良いと言われている事をやっている限り法に触れる事はありえないと言えるでしょう。結果的に日本で「コンプライアンス順守」というのは習慣的に「これくらいやっても良いよね」と暗黙のうちに了解済みであった誤魔化しを暴く事の意味になってしまいました。
そうは言っても100%一切の誤魔化しのない社会などというものはあり得ません。例えば大学における研究費の消耗品費の中に消耗品でないものも少し含まれる(試験管代の中に試験管立てが入っている)位のことは運用上あってもよいことです。だからコンプライアンス順守と言われた場合「どこで線を引くか」で困ってしまうのが日本の現状ではないでしょうか。増して内部告発を奨励し、告発者を保護する、と言われても告発する内容が明らかな犯罪ならば社会正義にかないますが、習慣上目こぼしされてきたようなこととなると「果して告発が社会を良くするのか」と疑問になります。
従って、日本の社会において「コンプライアンスの順守」を重視してゆくためには、アメリカ式に「これはやってはいけない」という禁止事項を具体的に定めるようにしてゆくべきでしょう。そして後は何をやっても自由であるという状況を作ってゆく必要があるでしょう。でないと始めからできることが限られた上で、運用上の柔軟性までなくなり、社会が回らなくなってしまうように思います。