書評 「二・ニ六事件」平塚柾緒 著 河出文庫2006年刊
戦前の軍部独裁への端緒ともなったとも言われる二・二六事件をその背景、首謀者となった青年将校達、時間的経過などを280ページあまりにまとめた好著。日本は何故大正デモクラシーの時代から軍部独裁と言われる時代に移ったのか、また何故無謀とも言える対米戦争に突き進んでいったのか、は戦後産まれの我々には理解し難い部分であり、再び過ちを繰り返さないためにも十分に研究し各人なりに答えを持っていなければならない部分であると思います。そのためにこの二・二六事件というのは一つのキーとなる事件であり、まとまった書物を読みたいと前々から思っていました。
本書はプロローグとして時代背景を、第1部を二・二六事件4日間の時間経過を、第2部を事件後の裁判経過を詳述することで事件の全容を描き出しています。エピローグとして事件後の廣田内閣と事件の影響を簡単に紹介して終了となっています。私が二・二六事件に関連して以前から疑問に思っていた部分は、
1) 青年将校達の動機は何で、どのような社会を作りたかったのか。
2) 二・二六事件は軍部独裁の端緒と言われる割に、世間の青年将校達への見方は戦後においても必ずしも批判的でない部分があるのは何故か。
3) 背景となった陸軍「皇道派」「統制派」とは「過激派」「穏健派」という意味か。
4) 有名な「下士官、兵に告ぐ。」に帰順した兵達はその後どうなったのか。
というものですが、青年将校達のクーデターの動機は、やはり純粋に日本国内の疲弊、恐慌と飢饉による農村の悲惨な姿に対する公憤であったと言うのは(2)の民衆が必ずしも青年将校達を悪魔呼ばわりしない部分にもつながってくるように思われます。「蹶起趣意書」に見られる「不逞凶悪の徒、私心我欲を恣にし、・・万民の生成化育を阻害して塗炭の病苦に呻吟せしめ、」云々の句やそれに続くこの当時頻繁に起こった軍人らによる事件、つまり五・一五事件、相沢事件(永田鉄山惨殺)、三月事件、十月事件と呼ばれるクーデター未遂事件などを趣意書に引き合いに出している事は、彼らが体制内での自分の出世や利得を度外視して行動に出ていることを物語っていると思われる内容です。三月事件、十月事件と言うのは彼らより格上の上層部の軍人(軍閥)達が起こそうとしたクーデターで、事前に発覚したことにより腰砕けになったものであり、純粋な青年将校達にとっては「自分の身の安全を優先して腰砕けになった」と見做し歯がゆい思いをしていたようです。
では「昭和維新」などと威勢のよい掛け声を掲げながら彼らはどのような日本社会を作りたかったか、というとこれは極めて稚拙というか、「取り合えず行動を起こすだけで、その後の現実的なことは何も考えていなかった」というのが本当の所だったようです。この辺りは戦後全共闘世代の武闘派の学生運動と全く同一で、腐敗した世の中をぶち壊すのが先で後の事は何も考えていない。強いて言えば「自分たちが絶対権力を持って軍国(学生らは共産主義)的専制国家を作る」程度の無責任で幼稚な考えしかなかったと言っても過言ではないでしょう。現に青年将校達は事を起こした後は天皇が自分達の意思と主張を認め(るはずだと勝手に思い込み)、全国の自分達に共鳴する軍人・国民が立ち上がり、結果自分たちの主張に理解のある皇道派の軍重鎮達が政府を仕切ってくれると安易に考えていたのですから。
この自分たちに都合が良い勝手な意見を「陛下も同じお考えである」と相手を黙らせる権威付けのために不遜にも言い募る傾向はこの後の軍の専売特許のようになってゆくのですが(最近某与党幹事長が同じ手を使って衆目の批判を浴びたばかりですな)、この悪弊が結局戦後の「日の丸君が代などに対する拒否反応」につながってゆくのかと思われます。天皇の権威を自分達の利得のために勝手に用いた究極の言葉は「統帥権の干犯」ですが、これは本来天皇陛下以外の者は使えない言葉であるのに軍人が勝手に天皇を語って言い出したことが重大な誤りであったといえます。陛下以外がこの言葉を使ったら「不敬罪」で即刻罷免くらいの勅令を出していたら歴史は変わっていたかもしれず残念です。
そもそも「皇道派」「統制派」などという軍閥的なエリート軍人の集まりができたのは昭和に入ってから国を憂える佐官クラスの集まり「木曜会」や「一夕会」などの国策研究会が盛んになってからということですが、欧米の軍隊や現在の自衛隊では考えにくい「軍人が政治に介入することに抵抗がない」状態がなぜ起こったのか、は明治以来の軍と政治家の関係にあったと思われます。つまり当時の政治家は元軍人が多いことや、そもそも明治の元勲と言われる人達も維新では軍を率いて軍人として戦っていた人達ということもあり、軍人と民間人の境目というのは今ほど明確でなかったというのが本当ではないかと思います。「太平洋戦争は軍の暴走が招いた」というのは本当だと思いますが、もともと日本は軍と民間の区別が明確ではなかったのであり、どうも軍人だけを悪物にしておけば良いというのは誤りだろうと私は思います。二・二六事件で襲われた岡田首相(押し入れに隠れて助かる)も一命をとりとめて終戦の時の首相を勤めた鈴木貫太郎侍従長も元軍人です。
「皇道派」は過激派、「統制派」は穏健派という色分けはある程度合っているようですが、東条英機も辻政信も統制派であり、決して「ハト派」的な色分けなどではなく、統制派の方が現実派であっただけというのが正しい認識だろうと思いました。
「朕の命令」と同じと教育された上官の命令に従い、結果的に皇軍に対する反乱の汚名を着せられた下士官、兵達のその後も決して安楽なものでなかったことがこの本で判りました。兵達の多くは無罪とされながらも、後々まで何らかのペナルティを着せられ、戦後まで名誉を回復される事はなかった上に、降格された上に何回も招集されて戦地に散っていった人達も多かったと記述されています。事件後の一方的な裁判において上官の命令に従った結果有罪とされた歩兵第三連隊第七中隊の堀曹長は暗黒裁判といわれた事件後の一方的な軍法会議の席で「裁定には従いますが、この事件が起こった背景となった政府のだらしなさ、叛乱を起こす恐れのある将校を放置した軍上層部のガバナンスのなさを指摘し、自分たちのように、忠実に命令に服した結果が罪になるような兵が今後出ることがないよう軍は反省し機構を改善せよ。」と実に二二六事件の本質に迫る陳述をしたと記録されています。このとき軍が堀曹長の指摘に真摯に答えていれば第二次大戦の悲劇は避けられた可能性があります。軍は事件の首謀者は民間人の北一輝や西田税にかぶせ、青年将校らは彼らに操られた被害者という決着をつけてしまいました。つまり軍として反省することをせずに事件の決着をつけてしまったところがその後の日本を大きく誤らせてゆく原因にもなったといえるでしょう。
戦前の軍部独裁への端緒ともなったとも言われる二・二六事件をその背景、首謀者となった青年将校達、時間的経過などを280ページあまりにまとめた好著。日本は何故大正デモクラシーの時代から軍部独裁と言われる時代に移ったのか、また何故無謀とも言える対米戦争に突き進んでいったのか、は戦後産まれの我々には理解し難い部分であり、再び過ちを繰り返さないためにも十分に研究し各人なりに答えを持っていなければならない部分であると思います。そのためにこの二・二六事件というのは一つのキーとなる事件であり、まとまった書物を読みたいと前々から思っていました。
本書はプロローグとして時代背景を、第1部を二・二六事件4日間の時間経過を、第2部を事件後の裁判経過を詳述することで事件の全容を描き出しています。エピローグとして事件後の廣田内閣と事件の影響を簡単に紹介して終了となっています。私が二・二六事件に関連して以前から疑問に思っていた部分は、
1) 青年将校達の動機は何で、どのような社会を作りたかったのか。
2) 二・二六事件は軍部独裁の端緒と言われる割に、世間の青年将校達への見方は戦後においても必ずしも批判的でない部分があるのは何故か。
3) 背景となった陸軍「皇道派」「統制派」とは「過激派」「穏健派」という意味か。
4) 有名な「下士官、兵に告ぐ。」に帰順した兵達はその後どうなったのか。
というものですが、青年将校達のクーデターの動機は、やはり純粋に日本国内の疲弊、恐慌と飢饉による農村の悲惨な姿に対する公憤であったと言うのは(2)の民衆が必ずしも青年将校達を悪魔呼ばわりしない部分にもつながってくるように思われます。「蹶起趣意書」に見られる「不逞凶悪の徒、私心我欲を恣にし、・・万民の生成化育を阻害して塗炭の病苦に呻吟せしめ、」云々の句やそれに続くこの当時頻繁に起こった軍人らによる事件、つまり五・一五事件、相沢事件(永田鉄山惨殺)、三月事件、十月事件と呼ばれるクーデター未遂事件などを趣意書に引き合いに出している事は、彼らが体制内での自分の出世や利得を度外視して行動に出ていることを物語っていると思われる内容です。三月事件、十月事件と言うのは彼らより格上の上層部の軍人(軍閥)達が起こそうとしたクーデターで、事前に発覚したことにより腰砕けになったものであり、純粋な青年将校達にとっては「自分の身の安全を優先して腰砕けになった」と見做し歯がゆい思いをしていたようです。
では「昭和維新」などと威勢のよい掛け声を掲げながら彼らはどのような日本社会を作りたかったか、というとこれは極めて稚拙というか、「取り合えず行動を起こすだけで、その後の現実的なことは何も考えていなかった」というのが本当の所だったようです。この辺りは戦後全共闘世代の武闘派の学生運動と全く同一で、腐敗した世の中をぶち壊すのが先で後の事は何も考えていない。強いて言えば「自分たちが絶対権力を持って軍国(学生らは共産主義)的専制国家を作る」程度の無責任で幼稚な考えしかなかったと言っても過言ではないでしょう。現に青年将校達は事を起こした後は天皇が自分達の意思と主張を認め(るはずだと勝手に思い込み)、全国の自分達に共鳴する軍人・国民が立ち上がり、結果自分たちの主張に理解のある皇道派の軍重鎮達が政府を仕切ってくれると安易に考えていたのですから。
この自分たちに都合が良い勝手な意見を「陛下も同じお考えである」と相手を黙らせる権威付けのために不遜にも言い募る傾向はこの後の軍の専売特許のようになってゆくのですが(最近某与党幹事長が同じ手を使って衆目の批判を浴びたばかりですな)、この悪弊が結局戦後の「日の丸君が代などに対する拒否反応」につながってゆくのかと思われます。天皇の権威を自分達の利得のために勝手に用いた究極の言葉は「統帥権の干犯」ですが、これは本来天皇陛下以外の者は使えない言葉であるのに軍人が勝手に天皇を語って言い出したことが重大な誤りであったといえます。陛下以外がこの言葉を使ったら「不敬罪」で即刻罷免くらいの勅令を出していたら歴史は変わっていたかもしれず残念です。
そもそも「皇道派」「統制派」などという軍閥的なエリート軍人の集まりができたのは昭和に入ってから国を憂える佐官クラスの集まり「木曜会」や「一夕会」などの国策研究会が盛んになってからということですが、欧米の軍隊や現在の自衛隊では考えにくい「軍人が政治に介入することに抵抗がない」状態がなぜ起こったのか、は明治以来の軍と政治家の関係にあったと思われます。つまり当時の政治家は元軍人が多いことや、そもそも明治の元勲と言われる人達も維新では軍を率いて軍人として戦っていた人達ということもあり、軍人と民間人の境目というのは今ほど明確でなかったというのが本当ではないかと思います。「太平洋戦争は軍の暴走が招いた」というのは本当だと思いますが、もともと日本は軍と民間の区別が明確ではなかったのであり、どうも軍人だけを悪物にしておけば良いというのは誤りだろうと私は思います。二・二六事件で襲われた岡田首相(押し入れに隠れて助かる)も一命をとりとめて終戦の時の首相を勤めた鈴木貫太郎侍従長も元軍人です。
「皇道派」は過激派、「統制派」は穏健派という色分けはある程度合っているようですが、東条英機も辻政信も統制派であり、決して「ハト派」的な色分けなどではなく、統制派の方が現実派であっただけというのが正しい認識だろうと思いました。
「朕の命令」と同じと教育された上官の命令に従い、結果的に皇軍に対する反乱の汚名を着せられた下士官、兵達のその後も決して安楽なものでなかったことがこの本で判りました。兵達の多くは無罪とされながらも、後々まで何らかのペナルティを着せられ、戦後まで名誉を回復される事はなかった上に、降格された上に何回も招集されて戦地に散っていった人達も多かったと記述されています。事件後の一方的な裁判において上官の命令に従った結果有罪とされた歩兵第三連隊第七中隊の堀曹長は暗黒裁判といわれた事件後の一方的な軍法会議の席で「裁定には従いますが、この事件が起こった背景となった政府のだらしなさ、叛乱を起こす恐れのある将校を放置した軍上層部のガバナンスのなさを指摘し、自分たちのように、忠実に命令に服した結果が罪になるような兵が今後出ることがないよう軍は反省し機構を改善せよ。」と実に二二六事件の本質に迫る陳述をしたと記録されています。このとき軍が堀曹長の指摘に真摯に答えていれば第二次大戦の悲劇は避けられた可能性があります。軍は事件の首謀者は民間人の北一輝や西田税にかぶせ、青年将校らは彼らに操られた被害者という決着をつけてしまいました。つまり軍として反省することをせずに事件の決着をつけてしまったところがその後の日本を大きく誤らせてゆく原因にもなったといえるでしょう。