生きる 黒澤明 監督 志村喬 主演 小田切みき他 1952(昭和27)年作品
30年役場で惰性のみで仕事をしてきた課長が余命半年を告げられ、これではいけないと突然市民のために生きる事に目覚めて実現困難な公園新設を死ぬまでにやり遂げた映画・・と考えると誤りで、現在を基準に考えるとわざわざ映画にするような題材に思えません。
映画にも一部描かれますがこれが作られた昭和27年と言えば、主人公の渡辺課長の年代の人は、観客も含めて戦前の二・二六事件などの緊張した時代から戦争で肉親が出征、戦死したり、はたまた空襲で街が焼け野原になり、近隣の人が死に、戦後は食糧難と復興で「生き延びる」だけでも大変であった時代のはずです。主人公も無表情のまま「とにかく忙しくて・・」とその人生を語っていますが、時代に流されるまま皆「生き延びる」ことにはその場その場で「必死に対応して生きて来た」と言う事だったのではないかと思います。そうして必死に生き延びた人生が胃癌で「後半年の命」と宣告された時に、「何か」が芽生えて、生き延びるために生きるだけではない「何か」を主人公が若い小田切君に魅入られるように模索した結果が「公園建設」だったのだろうと思います。
小田切君に何かを模索する渡辺課長
映画は、「何か」が見つかった後はいきなり葬式の場面になって、主人公が公園建設に奔走する様は関係者の回想で断片的に語られるだけなのですが、監督としては建設のストーリーは問題ではなく、「精神」だけ描きたかったのだと思います。その「精神」も市民のため云々という奇麗事ではなくて、生き延びるためだけではない「何か」を生きている様がこんなであった、というのが主眼で「夕焼け」と「雪中のブランコ」のシーンにその精神が集約されているのだろうと思います。
割と突然出てきてポイントとなる役を演ずる木村
最期のシーンでは、役場の仲間達は「死を覚悟した課長の心意気」に葬儀の場では胸打たれて「これからは市民の為に仕事のやり方を変えて行くぞ・・」みたいなノリになるのですが、翌日からはまた今までの惰性の仕事に戻ってしまいます。これは作っている側も観客に対していきなり変わるのは無茶だと安心させているために入れたシーンと思われます。その中で後半の回想シーンから存在感を増す、「日守新一」演ずる「木村」が「そんなことではいけない」みたいな理想に燃え出す予感を演じているのですが、きっと監督が観客に期待したのはこの予感ではないのかなと思います。
この時代、「生き延びるため」だけでない「生きる」の中身は革新系の思想であったり、新興宗教であったり、一攫千金を夢見た新しい事業設立であったかも知れません。見ている人にその「何か」を模索させる「もやもや感」を感じさせることがこの映画が大きな反響を呼んだ原因かもしれません。
スタンリー・キューブリック監督の作品(博士の異常な愛情、2001年宇宙の旅、時計仕掛けのオレンジやバリーリンドンなど)もそうですが、黒澤監督の作品は「いいな」「すごいな」とは思うのですが「好きか?」と言われるとやや微妙な感じがします。娯楽作品でない限り、パッと見で何が「すごい」かが良く解らないからです。見終わっていろいろ考えているうちに「ハハア・・」と納得してくるというか。しかし羅生門の「京マチ子」の平安時代的な妖艶さ、隠し砦の三悪人の「上原美佐」の「あずみ」に通じるような強い女性、この生きるの「小田切みき」のおきゃんな現代娘、女性の使い方というか描き方は昭和20−30年代を感じさせない新鮮さがあるなあと感心します。
羅生門 と 隠し砦
そういう洞察では?
ホスピスに看護助手として勤務した時に、朝夕の茶を飲みながら窓辺の富士山を眺める患者様がいました。一杯の茶を出すために15杯を無駄にした事があります。
だって急変すれば次を飲めるか解らない方ですから。介護に過ぎない私には、それが精いっぱいでした。
茶の湯の道の千利休は和解頃は武士で、槍を持って戦場を往来した人です。
だから一期一会の茶を開眼したのでしょうし。
生きるとは質で、量や金銭価値ではない。
だから秀吉に反抗したのではないかと思うています。
死を直視するから生を味わう。
そんな風に記事を受け止めました。残念ながら
7人の侍やデルス・ウザーラしか黒澤は知りません。
1970年代に阿久悠原作で沢田研二主演のテレビドラマがあったのですが、劇中、余命半年と知ると発狂しそうになって電車の中で暴れまわったり、また、周囲も「彼は余命半年なのよ」と物凄く同情しているんですね。他のドラマなどにも似たものを感じましたが、「自らの死を意識して自らの生を考える」という感覚に日常的に疎く、実際にテレビドラマのレベルだと、ショックに打ちのめされて周囲は同情してという感じ。
黒澤の「生きる」は製作年を考慮すると、ズシリと重く、「死を意識してしまうと、自分の人生なんてのは…」という部分に踏み込んでいたのだなという部分にやはり目が向かいますね。
「ああ、もっと楽しんでおくんだった」
という感慨、こういう感慨を拾い上げたのは巧いなぁ…と。私自身も歳をとってきたのか、そんな事を思うことがあったりして(笑
確かヒーローの沢田氏が三億円事件の犯人で、
余命と同時期に時効が来る。
んで殺すわ犯すわで、父兄としてビー!で、
DVDにもなってない一作ですが。
以前石飛幸三氏が提唱する「死の三態」という概念を講演で紹介したことがあるのですが、死には大別して3つのありようがあって、事故や心臓死などの「突然死」、進行がんのような「終わりの見える死」、老衰やボケを考慮した「終わりの見えない死」です。
「あと半年の命」と解ったとき自分がどのような反応を示すかは正直解らないのですが、少なくとも30代のときと現在(今年還暦)では違うと思います。がん死は明確な死を意識して生きることになる唯一の死の態様ですが、三態の中では一番良いと言う考えの人も多いようです。
「前後際断(世の中は因果にとらわれるものだが、過去未来にとらわれず現在を全力で生きよ)」は昨年の大河「直虎」で出てきた禅語ですが、「日々是好日(毎日を良い日と考えて生きよ。これも直虎で出てきた)」に通ずるどの死の態様にも適応できる生き方かなあと思っています。