あの震災に比べれば・・・と思うと自分の状況などたいしたことがない・・・と思いながら毎日を過ごし、泣きながらも立ち上がってきた。
テレビで被災者の男性の
「もう悲しむ時期は過ぎた。これからは再建していかなければ」
という言葉が。人間は、生きていかねばならないな、どんなにつらくても、と思った。
実はわたしは神戸の震災の被災者です。
あの時、死ななくてもいい人たちが、自然の力によって亡くなった震災のときに、「絶対自分で自分の命を絶つことはやめよう」と決めた。
だから、どんなにつらくても自殺はしない。
毎日「どうしてこんな風になってしまったのだろう。自分はどんな悪いことをしたんだろう。」と考えていた。
ちゃんと見なくて結婚したのは自分。
時間をかけてちゃんと見極めなかったのは自分。
おかしいな、とひっかかった時に、見過ごしたのは自分。
恋に酔っていた自分。
そうでした。
昨日、よしもとばななさんの日記の新刊を読んで、大分冷静になれた。
そのなかに、ある人との関係を切ったことが出てきたのだが、
「関係を続けると一見だれもが平和に見えるけれど、それはほんとうにお互いを生かせるわけではない。だめになった結婚と同じで、すぱっといかないと、人生が終わってしまう」
という文章が。
「人間は、どんなところからでも、心を切り替えて、たったひとりではいあがるしかない」
ともあった。
かなり心が整理できた。
夫は命や子どもに関わる様な暴力をふるうわけではないし、ギャンブルや浮気をするわけではない。
でも、じわじわと、何かをわたしから奪っていく。
激高するとひどい言葉を投げつける。そして土下座して謝る。その繰り返した。そのなかに真心はあるのだろうか?
多分、わたしの前の世代だったら、我慢して夫と生活する道しかなかっただろう。
そして何十年後(何十年後!!!)、若い頃はいろいろあったけど、夫婦でそれなりに2人きりになるのかもしれない。夫の両親がそうだ。
でも、わたしにできるのか?
病気にまでなって、そこまで身を削って、わたしの人生はなんなのだ?
夫を理解し、支え、それがわたしの今の、そしてこれからの人生のすべてなのか?
それでも、いいかもしれない。
離婚はとても消耗するだろう。
気が遠くなる。
このまま、何かが死んでいくのを容認していくのも、楽といえば、楽なのだ。
でも、それでいいのか?
このままある意味死にながら生きるのか、そのなかでも健康を害すリスクを取りながらあがらって生活していくのか、同じ苦労でも、自分のためにする道を選ぶのか。
大きな違いは「希望があるか、ないか」なのだ。