魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

鳥啼き 魚の目に泪

2014-06-08 11:23:49 | 日々のこと

こんにちは、お久しぶりです

春も過ぎて、初夏の陽気、と思ったら梅雨入りしましたね

その季節の移り変わりに、いろいろなことが起きました。

26人の応募者のなかから採用された、9時から16時、週4日、時給も高め、の仕事ですが、7月で辞めることにしました。

いろいろな理由があるのですが、パワハラがすごくなってそれとコンプライアンスに疑問があったのですが、それもひどくなって。

持病の腸の病気が悪化してしまったり

「このままここにいたら、自分のせいにされてしまうかも

ということがあって。思い切って辞めることにしました。今度は自宅の近くで就活してます。

夫も2年ぶりに異動があり、今度はさらに過酷な部署、しかも残業代でないっていうところに、ついに落とされまして

生活は大変になってしまって、気持ちは落ちますが同僚に話したら、

「あー、身体壊す前に辞めた方がいいですよ」

と、さらっと言われました。

それより本当にショックなことがありました。

今年の桜を、こんな気持ちで見たことはなかった。

忘れられない春になりました。

春から初夏の5月。

5月の連休は、大分長くお休みだったので、東北の実家に行きました。

昨年夏以来の実家。

今回は姉弟3人そろって行きました。

それには、訳がありました。

母が、去年の夏くらいから身体の調子がどうも良くない、といろいろな検査を受けていたのですが、

「原因が分かった」

と連絡がきたのが4月の半ば。

「血液の病気になった」

と曖昧な報告で、え?なに?白血病?白血病だったら治るよね?って聞くと「そうじゃない」と。

精密検査をこれから受けて、結果が出るから、それから、という母は、はっきり教えてくれませんでした。

今思うと、母もこわかったんでしょう。

私も、もう頭のなかがぐるぐるしながら、母の話の断片からネットで検索しまくり、おそらくこれだろう、という病名を見つけました。

それは

「根治ができない」

「最後はかなり苦痛を伴う」

という病気でした。

そして原因が

「染色体異常、遺伝、放射線」

ということで、頭を殴られたような気がしました。

福島の隣県の実家に住む両親。

父は去年の春から急速に持病が悪化し、漢方薬を飲むようになって寛解してきた。

原発事故以後も、父は庭で畑をやって、その野菜をずっと食べてる。

因果関係は分かりません。

でも、その病気に使う薬の輸入量が、過去最大になったと4月のニュースにありました。

母は、治らない血液のがんにかかってしまったのです。

 

がん、っていやですね。言葉だけでも禍々しい気持ちがする。

切除すれば治る、というものではなく、血液を作る大元の骨髄がおかされているのだから、骨髄移植しかないんですが、母は70手前。

若い人なら移植に耐えうるのでしょうが、この年齢ではまずしないそうです。

 

分かったときは

「母が死んでしまう」

という気持ちが押し寄せてきて。怖い、いやだ、どうしたらいいの?母が何をしたの?

そればかりで。

母からの手紙、母に買ってもらったもの、母が作って送ってくれたもの、そういうものが目に入る度に、

「もう母はいなくなってしまう、すべて失われてしまう」

という気持ちが押し寄せてきて、涙が止まりませんでした。

今は、母に会いましたし、大分時も立ったので、涙があふれて止まらないということはありませんが。

 

母に

「この病気だよね?」

と聞くと

「さすがリツコ、よく分かったね」

とかえってきました。

ああ、そうなんだ。

判明してから平均余命3年。でも薬が効けば、5年以上生きた人もいる。

でも、母は日本人女性の平均寿命まで生きることはないんだ。

 

5月の連休、姉弟そろって実家に帰りました。

娘たちも連れて行ったので、ばたばたしてましたが、夜、母と話しました。

母は、元気でした

陽気で、元気で、自分勝手で、気まぐれな、いつもの母でした。

でもすぐ疲れてしまうらしく、よく横になってました。

家事はほとんど父がやっているようでした。

姉と私で片付けや掃除、食事とフル回転し、弟は子供たちを遊ばせ、運転手。

父も少し休めたようで、昼寝してたりしました。

母が言うには

「結果が分かってから、お父さん全然昼寝なんてしなくてね。気が張ってたのかもね」

と。

母はステージ1、まだ自覚症状もあまり目立ってなく、病気に顕著な症状である痛みなどもない。

でも血液の数値は悪化しているので、これを良くするため、薬を投与する入院をする。

この時点で、両親は「治るんじゃないか」という気持ちがあったようです。

そして入院が5月末で終わり、数値は改善が見られたそうで、今は外来で通院しています。

母からの電話で

「抗がん剤」

という言葉が出て、私は、ああ、と思いました。

やっぱり、がんなんだな。お母さん、がんになっちゃったんだな、と。

母の家系ではがんで亡くなった人はいないのです。だから、がんになるなら父かと思ってました。

でも、母は血液のがんになった。

そして

「すごく稀に寛解っていって、治る人がいる。私、そうかもしれないってお医者さんが言ってる」

って言うのです。

でも、寛解、というのは、がんが見られなくなる状態で、完治とは違うのです。

わたしの持病でも、寛解と増悪という、良くなる時期と悪くなる時期がある、それを繰り返すので、完治はしないのです。

でも母は信じている。

私も、母が寛解すると信じたい。

母は入院したら痩せちゃった、と言ってました。

「がん細胞って栄養を食べるから、そんなに栄養あるもの食べられないんだよね。

だから痩せちゃった。」

 

今年の夏は、母のそばにいたい。

母が、いつまで動けるか分からない。

それもあって、仕事を辞めることにしました。

今の仕事は、絶対にそこは私がやらないと困る、という時期が月に何回かあるのです。

ハローワークに後任の求人が出たのですが、20人を超える応募があり、ハローワークの担当者も「もう閉め切ったらどうですか」と。

条件がすごく良い仕事でした。

去年の夏に雇っていただいて、光が見えました。

でもここにいても先はないです。ずっと勤めたから正社員になるということもありませんし、責任は重くなって行く。

母のことがあれば、責任ある仕事には就けない。

でも働かなきゃ交通費も出ない。

ジレンマです。

でも、とにかく今年の夏は、娘と一緒に母のそばにいたい。

どのくらい思い出を作れるか。

もう、母に残された時間は限られているのですから。

 

 

 

 

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