魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

うちで作ったご飯に入っているもの。

2014-11-12 11:16:44 | うつ病

両親と会ってから、次の日は娘の発表会。

初舞台でしたが、義理両親は用事がある、忙しいと観に来ませんでした。義理妹が観に来てくれましたが。

気持ちを圧迫していた予定がやっと終わったあと、ずっと日延べしていて1ヶ月前から入っていたお友達に会う予定をどうしようか、と思っていたのですが。

正直に「こういう状態であまりコンディションが良くないのだけど」とメールしたところ、「会いたいと思ったら会いましょう」という

お返事を頂けたので、気を楽にして会うことにしました。

小さいお子さんが一緒だったので、あまり話せなかったのですが、そのお友達も過去にお子さんを亡くされるというつらい事があったことを打ち明けてくれ、「無理しないで、休んでね」というアドバイスを頂きました。

その後、ふたりの共通のお友達にお宅にお邪魔することになり、そこで賑やかに就園前の子供たちと遊び、お茶を頂き、楽しい時間を久々に過ごしました。

娘を迎えに行ってお暇しようとしたら、「つれてきちゃいなよ!」と言ってもらって、お言葉に甘えました。

お稽古事も、発表会が終わったのでお休みして、一日遊んでしまいました。

お友達のお父様も不安神経症になったことがあり、その事を話してくれ、

「がんばってね、って言っちゃいけないんだっけ!無理しないで、いつでもお茶飲みにきて!」

と。

あたたかいな・・・と感じました。

花に水が注がれるように、あたたかいものが心を満たしていきました。

それから、わたしはだんだん良くなってきたように思います。

頭痛はほとんどなく、視界もクリアになってきました。

お天気が良ければお布団も干しました。

無理することのないように、気をつけてはいます。

両親に説明するために診断書をいただきました。

「神経症、不安障害、うつ状態」とありました。

「うつ病とうつ状態はどう違うのですか?」

と聞いたら、

「うつ状態が2週間以上続くとうつ病になってしまうわけです。リツコさんは2週間ちょうどくらいで来院されたのでね」

と。そして「うつ状態は、受診時に重度のうつ状態と判断されていました」と。

わたしとしては軽度かと思っていたので、「重度だったんだ」と思いました。

お医者様も「中度かと思っていたら、テストの点数で重度だったんだね」と苦笑されてました。

それでもお蔭様で大分良くなった気がします。

診察は2週間後になりましたが、いろいろ考えたことがあります。

 

そうでない人もいるかもしれないけど、わたしはずっと「愛情を食べて生きてきた」のです。

だから、愛情を注がれなくなって、花が水をやらなくて枯れるように、枯れてきてしまったのだろうな、と。

今回、わたしが元気になってきたのも、姉が作ってくれた餃子や、友達が入れてくれたお茶だったりするのだと思います。

人が作ってくれるご飯というのは「その人のために考え、選び、手をかけて作ったもの」です。

そこには「愛情」が入ってるのです。

ご飯に入っているものは、材料だけでなく、愛情なのです。

専業主婦だった母は、ずっと生協を取って添加物など気をつけて、食事を作ってくれました。

おやつも生協で、物足りなく思ったりしてました。

カップラーメンとか父親が買ってきて食べた日には、「わたしがこんなに気をつけて作っているのに!」って母は泣いて怒った。

でも大人になって「素地は作ったから、あとは自分の責任で好きなものを食べなさい」って。

当たり前のように、それをずっと母の作った食事を食べてきたわけです。

母が子供を「思う気持ち」を食べて、大きくなってきた。

自分が親になって、実家にも帰れなくて、愛情が入ったご飯を、ずっと食べてなかった。

去年の夏、三年ぶりに実家に帰って食べたご飯の美味しかったこと。

母は「もうあんまり作らないけど、リツコが好きだから」と春巻きを作ってくれた。

ちゃんと好きなものを憶えててくれて、作ってくれた。

たしかに母の愛情が入ったご飯でした。

 

「うちで作ったご飯がいちばん」っていうのは、そういう事なんだなって。

お母さんなりお父さんが、子供のこれからの体を作るために作るご飯。

それを食べて大きくなる子供。ただ食べ物を与えるだけでなく。

だからわたしは家事の中でいちばん「食事」が大事と思っている。

 

でも。

夫は「片付け」が大事なわけで。

いつもいつもそれが諍いの元だった。

2歳にもならない娘を怒鳴りつけて「片付けろ!」

「何よりも片付ける躾をしろ!」とわたしに怒鳴る。

でも、自分の部屋はいらないものでいっぱいになっている。

食卓の夫の椅子の下はいらないものが積まれてる。

読みもしない本が山になってる。

部屋は指であとが着くくらい、埃で真っ白。

わたしは小児喘息だったので、埃を吸うじゅうたんなど敷物を敷くのが大嫌い。

埃も大嫌い。

大事なものが違うんだよね・・・。

 

でも夫はわたしの作ったご飯を「美味しい、美味しい」と食べる。

目も合わせなくなった今も、わたしの作ったご飯を「美味しかった」と言って食べ終わる。

ずっとそうだったんだよね。

わたしが悪阻で吐きそうになりながら作ったご飯を平らげてた。

わたしは食べられなくてトイレで吐いてても、まったく気付かずに。

そして自分たちの分を減らして夫に食べさせた。

餃子は50個作る。わたしと娘で20個食べる。夫は30個平らげる。

義理妹もよく夕飯食べにきたよね。今も来るけど。当然のように食べてくよね。

夫の同僚夫婦も、子供が小さいのに夕飯招待して、やってきたよね。

一度、わたしが高熱出して無理かもってなったら怒鳴られたよね。

「どうするんだよ!」って。

で、午前中にひとりでふらふらしながら歩いて病院行って、解熱剤飲んで接待したよね。

なんで呼ぶんだろうね、自分は何もしないのに。

その夫婦から呼ばれたことなんてないね。

だいたい、子供小さいうちにご飯食べにくるなよって思うよね。わかんないんだよね、子供居ない人は。

でもこれから産まれるみたいだから、やっとわかるかな。

なんでわたしも断らなかったんだろうね。きっと洗脳されてたんだよね。おかしいって思えなかったもん。

 

ほんと、考えるといろいろ出てくる。

最初から、おかしかったんだよね。今から考えたらわかる。

わたしのことなど、はなから愛してなんていなかったんだって。

 

もう夫とは暮らせない。

はっきりとわかる。

わたしは、7年かけて枯れてしまった。

もう限界なのだ。

 

お医者様も「環境を変えられたら変えた方がいいですよ」って言ってた。

本当にいろいろ面倒だし大変なのだが、枯れてしまうよりずっといい。

ふと、このまま行けるのかな?って思うこともある。

でも、あの夫の冷たい言葉を思い出すと、もうこの人とは一緒にいられない、と思う。

娘にも良いだろう。

本当に、助けてって思う。だれか助けて。

ここから連れ出してって。

 

でも自分でやるしかない。

ご飯を、愛情を与えてもらえる、与えられる環境へ、逃げなければ。

 

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山手線を半周。

2014-11-12 10:45:11 | うつ病

もう11月ですね。

イベントがやっと終わり、忙しい時期が過ぎ、一山超えられました。

波があるのは変わらず、予定が2つ重なったりするとちょっと疲れてきてしまう感じです。

以前だったらこともなく、まあ少し大変だけど!と乗り越えられたことが、今は出来ない・・・

悲しいことです。

11月あたまに、両親が上京して、ある漢方医さんの診察を受けることになっていました。

それにわたしが付き添うために、子供の行事を早く切り上げて上京。

前日まで「行けるかな・・・親になんて言ったらよいのだろう」と不安でした。

姉にはうつ病になってしまったことは知らせてあったのですが、親には言えなくて。

両親はふたりとも不治の病に罹ってしまっているので。

でもその漢方医でわたしも診てもらうことになっているので、言わないわけにもいかず。

山手線をほぼ半周する間に、父と母の間に座って、久々に話をしました。

母はその前日に後楽園のホテルで催された同級会に出席して、その時のことを嬉しそうに語ってくれました。

母は10歳に父を脳溢血で亡くし、それまで世田谷で乗用車がある生活をしていた人でした。

行政関係だった祖父が満州に渡り、そこで産まれた母は、あやうく置いてこられるところだったそうですが、2歳の母が必死になって祖母のあとを着いてきて、「置いてこれなかった」と祖母は言っていました。

満州では宝石や毛皮をたくさん持っていたけど、全部置いてきた、とも言っていました。

戦後史を大学で学んだわたしとしては複雑な気持ちではありましたが。

その後、東京で生活していたのですが、大黒柱が急逝し、祖母は実家のある地方に帰り、そこで母は育ちます。

当時、東京から来た転校生は「マドンナ」だったそうで。

母は私のことを見に、休み時間になると教室の窓や扉に人だかりが出来た、と言っていました。

ある時母の同級会に父が付いていったら「奥さんはマドンナだったんですよ!」と同級生たちに言われ、父は「本当だったんだ」と態度をあらためて、母を丁重に扱うようになったとか?

そして今回も、スピーチをさせられちゃった、と嬉しそうに話していました。

いつも話題に上るのが、Aさんという男性のことなのですが、この方はある有名人女性の旦那様で、今はご自分で会社を経営されているのですが、母の初恋の男性なのです。

母は自分の病気のことを、同級会のお開きの直前に打ち明けたそうです。

そしたらその方は自分の奥様も20年も患っている。頑張れ、と言って、別れ際背中をさすってくれたそうです。

気持ちが優しい人なんだなあ、と思いました。

母はとても嬉しかったらしく、また、マドンナとしての自覚に再度目覚め、

「みんなまだ現役で頑張ってる、わたしも頑張らなくちゃ!」

と元気を出してました。その時に撮った写真は、とても綺麗な母で、少し驚きました。

あと少しで着く、という時に母に「実はいろいろとあって、調子が悪くなって、うつになってしまった」と打ち明けました。

母は

「わたしもお母ちゃまが亡くなった時にうつになって病院に行ったよ。

薬もらって飲んだけど、変にハイになっちゃって、飲むのやめたけど。

もし旦那さんと一緒にいるのがつらいなら、こっちに来ればいいじゃない」

と言ってくれました。

その時、わたしは老いた両親を知らないところに連れて行かなくてはいけない、という緊張感もあり、しっかりしていたと思います。

でも母は「大丈夫そうじゃないの、なに言ってるの!」などと言わず、受け止めてくれました。

その後、漢方医に見てもらい、後日診察の予約をして帰りましたが、父の病気は得意な先生らしく、

「良くなりますよ!大丈夫!」

と言っていただきました。わたしも

「あなた、目がしっかりしている。大丈夫、良くなりますよ!」

と言われました。

久々に両親と会い、途中でゆっくりお茶を飲んで、また山手線を半周して帰宅しました。

姉が餃子をたくさん作っておいてくれ、それをたくさん食べて、また新幹線に乗って帰ってきました。

昼に着いて、8時ごろ帰宅、短い滞在でしたが、「本来のわたし」に戻ったようでした。

娘を置いてきたので、姪も「りおちゃんいないと、前に戻ったみたいだね」と。

そう、わたしはこうやって、両親と姉の家族と一緒にいつも居たのです。

楽しかった。

わたしは仕事から帰ってきて、姉は食事を用意してくれ、みんなでご飯を食べる。

そう、こういう生活をしていたのです。

今回、弟家族が近くに引っ越してくれたので、この冬から両親は姉と同じマンションの部屋で避寒生活に入ります。

弟家族が出た部屋は、わたしが以前住んでいた時のようでした。

そう、ここがわたしの居場所だったのだ。

わたしがかつて居たところは、元に戻ったのです。

 

 

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