魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

世界が変わる

2015-01-25 13:30:34 | 日々のこと

こんにちは。

ISISに捕われていた2人の方の消息について、昨夜遅くに報道がありました。

私はツィッターを見ていて知りました。

遠い国での出来事だったのが、突然隣にやってきた、というか。

世界が変わってしまった気がしました。

70年続いた平和が、いよいよ終わりになるかもしれないな、と感じます。

私には5歳の子供がいるのですが、この子を無事に大きく育てるために、今までとは違う注意を払って行こうと思います。

どうか、後藤さんは生きて帰ってきてほしいと祈っています。


先週、亡くなった21歳の猫のお葬式に、行ってきました。

弟夫婦のうちに、新幹線を乗り継いで着いたのは、お葬式の2時間前でした。

和室に、ふかふかなクッションの上に横たわっている猫を見ました。

周りにはお花やご飯の缶詰などが供えられていて、弟夫婦、特に奥さんの優しい気遣いに感謝しました。

私が持ってきたお花をそえて、猫を撫でた時、冷たくて、固くて、ああ、死んでしまったのだ!と事実を突きつけられ、涙が溢れました。

それから子供たちが再会してにぎやかに遊ぶ声を聴きながら、最後のお別れをさせてもらいました。

綺麗なピンク色だったお花と肉球は、少し色褪せていた。

丸い頭は冷たくなっていたけれど、首の後ろの毛はふさふさで、ああ、変わらない、と嬉しくなった。

閉じられた瞳が少し見えた。緑の瞳はもう開く事がない。

触ると怒るので触れなかった、真っ直ぐなシマシマの尻尾。

横たわっているのであまり触れないが、白い胸毛。

肉球は、生涯家猫であったので、すべすべのままでした。

いつまで触っていても、飽きる事なく、この綺麗な猫が、もう失われてしまうのか、と思うと涙が止まらず。

ごめんね、ごめんね、ありがとうね。

生きているうちに、最期のお別れをしたかった。

でもこうして来られてよかった。

うつが悪化するかも、と危惧したけれど、実際見ずにいる方が良くなかったと思う。

わたしが拾った小さな命。ここに終わった。

ずっと一緒にいて、守ってくれた。小さな身体で。

ありがとう、ありがとう、と繰り返した。

弟が万事手配してくれていて、みなで一緒に車に乗って、斎場へ向かった。

途中、少し迷ったら弟が

「ルカちゃん、まだ一緒にいたいのかもね」

と言った。

風の強い、青い空だった。

「天国ってどこにあるの?」

「空のずっと上の方だよ」

「今日は風が強いから、ルカちゃん流されてっちゃいそうだよね。」

「どうやって天国に行くの?」

「タタタター!って走っていったんだよ」

子供たちはタタター!と繰り返して笑った。

そう、気の優しい猫だった。外に出たら、5匹の猫に囲まれて、弟に助けを求めて鳴いていた。

斎場に着いて、綺麗に飾られた。一通りの仕来りが終わり、最期に撫でて、お別れをした。

娘がぽろぽろと大粒の涙を流していた。

いよいよお別れの時が来て、扉の向こうに消えた。

1時間ほど待っているときに、猫と人間の年齢対比表を見たら、20歳以上の猫は

「国宝級」

とあり、本当に長く生きてくれたんだな、と思った。

真っ白なお骨になった猫。

頭に黒い部分があり、もしかしたら麻痺が出たのは、何か悪い物が頭にあったのかもな、と思った。

食べなくなって1週間ほど、寝付いたのもわずかな期間だった。

急に悪くなって、あっという間に逝ってしまった。

あんなに元気だったのに、なぜ?という悔いが、今回お弔いに参加した事で腑に落ちた気がする。

心の整理が少し出来た。

小さな骨壺になって、猫は帰ってきた。受け取った弟の涙が止まらなかった。

一番長くいた、弟。深夜に帰宅した弟につきあってくれたのは、猫だった。

「ただいま」

と声をかけて、ああ、もういないんだな、と思った。

ずっと声をかけ続けた生活が、終わったのだな、と。

それから、弟夫婦と猫のことを語り合った。

元気だった頃から、最期の様子を聴かせてもらって良かった。

最期の治療や、お弔い、というのは、つくづくあとにのこされた人たちが悔いなく悲しみを日常に慣らして行くためのものなんだな、と思う。

今回の事をお友達に話したら、

「動物って、病気やけがを代わりに持って行ってくれるって聞くよ」

と言われたんだけど、今回のことは、両親が避寒にくるために猫の環境を変えてしまった事、それに当たるかと思った。

両親の寿命を伸ばした事が、猫の寿命を縮めてしまったのだろう。

そして、11月末に私が1週間、猫と一緒にぬくぬくと過ごしたことで、わたしの病いも癒してくれた。

優しく、美しい猫だった。

いろいろな想いはあるが、小さな猫に支えてもらった私たち家族。

ひとつの歴史が、彼とともに終わった。

そして、猫がいない世界が始まった。

わたしが泣いていると、娘が気遣って言ってくれる。

「天国で、また会えるよ」

さようなら。また会おうね。




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虹の橋を渡る

2015-01-16 10:54:09 | 日々のこと

お久しぶりです。

訳あって、しばらくブログの公開を制限していました。

またほとぼりが冷めたら、理由を書いていきたいと思います。

阪神淡路大震災から明日で20年という節目の年を迎えるにあたって、テレビなどでしきりに神戸の映像が流れていますね。

わたしは、大学生だった20年前に被災しました。

そのあとに東京に就職が決まっていたので、神戸の街は卒業式に出た時に見た光景で止まっています。

10年くらい、地震が起きた時刻になると目が覚めていましたが、もう大丈夫だろう、と思っても、ふいにテレビでその映像が流れると、「観たくない!」という気持ちで胸がきゅっとなります。

「あさイチ」で、一人娘を亡くした男性が

「(災害で)人生変えられるとは思っていなかった。」

とおっしゃっていました。わたしは身内を亡くしたわけでも、家が倒壊したわけでもないですが、本当に地震はわたしさえも変えました。

遭わなくても良いものに遭ってしまった人、見なくても良いものを見てしまった人、というのは、もうあとには戻れないんですね。

そうでない人もいるかもしれない。

でも、確実になにかを変えてしまうもの、そのひとつが災害だと思います。

さて、今日はわたしが震災の前の年に拾った猫のことを書いておきたいと思ってアップしています。

わたしが大学生で、就職活動をしていた1994年5月に、家の近所で茶トラの猫を拾いました。

鼻水と目やにでカピカピになっていた顔をした小さな猫は、それから21年、家族として支え、慰めてくれました。

わたしは猫が喜んでいるとき、ゴロゴロ喉を鳴らすのを初めて知りました。

震災の時も、一緒に体育館に避難しました。ぶるぶる震え、毛布から出てきませんでした。

飲まず食わずでやっと落ち着いたのは、母の実家に避難してからでした。

それから猫は、関西から東北、埼玉の弟家族のうちに落ち着いて、毎日寝てばかりの生活だと聞いていました。

弟夫婦に赤ちゃんが生まれてからも、猫は一度も手を出したりすることなく、見守ってくれました。

しかし避寒にくる両親のために、弟家族が引っ越したのはペット禁止のマンションで、やむ終えなく置いていってお世話だけはしていたのですが、その間にわたしが1週間行った時は、朝方に鳴いて、撫でてやってだんだん横になり、一緒に寝て過ごしました。

元気で、ご飯も少なくてもちゃんと食べていました。

その後、両親が来て、年末、わたしに母から

「猫がご飯も食べなくなって、夜も鳴いていて介護猫になった。うるさくて休めない。

拾ったのはお前だから、お前が引き取れ」

という連絡が来ました。

その後、スープ状のご飯に代えたら、また食べるようになったのですが、この大晦日にフェイスタイムで見た猫の片目が、瞬膜が出たままになってしまっていました。

びっくりしたわたしが病院に連れて行ったか聞くと行ってない、もう寿命だから病院に行ってもお金がかかるし、とのこと。

その後、わたしは不安定なのでお正月もどこも行かずに過ごしたのですが、猫がうるさいという理由で、弟夫婦が引き取りました。

そして一昨日猫のことを聞いたら「近日中に亡くなると思います」とやせ細った画像が弟から送られてきました。

わたしはびっくりして、なぜ?こんなになってしまったの?と信じられない思いで、ツイッターで「危篤の猫がこの水を飲んだら持ち直した」ということを知り、その水を送る手配をしました。

そして昨日、その旨をメールしたら、弟の奥さんから着信があり、なぜか携帯が固まり、出られませんでした。

かけ直したら、猫が午後に亡くなったと。

いよいよとなったので、弟が半休を取り、可愛がってくれた弟の奥さんが仕事から帰宅したすぐあとに、吐血してそのあと亡くなったと。

突然すぎて、なんとも言えませんでした。

弟家族に看取られたことは、本当に有難かったです。

送ってもらった画像は、静かに横たわっていました。

ピンクだった肉球や鼻も、少しうすい色になって、うすく、小さくなったその姿を見たときに、涙が止まらなくなりました。

今も、泣き過ぎて頭が痛いです。

白い胸の毛に顔をうずめて慰めてもらった、ざらざらの舌で涙を舐めてもらった、ピンクの肉球は、お日様の匂いがした。

ぴんと立った尻尾、緑の瞳。甘えた声。

いきなり、弟夫婦がいなくなって、どんなにか寂しく、不安だったことだろう。

両親の寿命は永らえたかもしれないが、猫の命を縮めてしまったのかもしれない。

寿命とはいえ、血を吐いて亡くなったということは、どこか悪くなっていたのかもしれない。

そしたら病院に連れて行ったら、新しい環境で大好きな弟家族と一緒に、もう少し穏やかに暮らせたかもしれない。

仕方がなかったとはいえ、人間でいえば100歳を超える高齢である猫の環境を変えてしまった事が悔やまれてならない。

この涙は後悔の涙。

まさかあんなに元気だったのにという油断から、できるだけのことをしなかったという悔い。

最期だと思ってお別れしてこなかった悔い。

もう抱っこして、撫でてあげられない悔い。

さみしい思い、不安な思いをさせてしまったのではないかという悔い。

もの言わぬ動物は、だからこそちゃんと人がみてやらなくてはいけないのだ。

彼らからあたえてもらった愛情は、返せないくらい大きい。

犬猫ではない、家族だった。

目やにを綺麗にしてくれた獣医さんが驚くほど、可愛い猫だった。

綺麗になった猫をみて、飼うのを反対していた家族が手のひら返すくらい、美しい猫だった。

真っ白だった腹毛は、一度も汚れることなく、臆病なので、逃げ出すこともなく、家猫で生涯を通した。

うちには、もうひとり、猫がいました。その猫は、両親が遠出する時に連れて行った車から、窓を開けて逃げてしまい、見つからないままです。ずいぶん捜しましたが、もう10年になります。

きっとその子が待っていてくれると思います。

天国の手前に、虹の橋があるといいます。その橋のたもとには、かつて愛された動物たちが飼い主たちを待っていて、生涯を終えた飼い主は、動物たちと一緒にその橋を渡っていく、といいます。

ふたりは、そこで会えたでしょうか。待っていてくれるでしょうか。

 

わたしたちきょうだいが、一緒に暮らしていた時代から家族だった動物は、この猫で最後となりました。

猫のたまらない可愛さ、どちらかというと人間が猫のお世話をさせていただく、という感じである猫との生活。

毛玉を知ってしまったわたしは、毛玉をとても懐かしく感じます。

でも、きっともう動物を飼うことはないでしょう。

わたしが拾った命でしたが、天に返すことはできませんでした。

ごめんね。

たくさんもらったよ、小さい身体で今まで支えてくれて、本当にありがとう。

わたしたちはあなたがいてくれた21年間、幸せだったよ。

あなたは幸せだったかな。

さようなら、ルカちゃん。

本当にありがとう。ゆっくり、休んでね。

 

 

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