久々にビートルズを聴いた。
日曜の午後。
娘の耳に英語を聞かせるのもいいかな、と思ったし、何より自分も聞きたかった。
東北の両親から送られてきた讃岐うどん(わたしの好物)を茹でて、CMに影響されて味の素を振った卵にうどんと万能ねぎ、創味のつゆを少したらしていただきます。
節電のため、日中はエアコンをつけない。午前中にエアコン、換気扇、空気清浄機のフィルターを洗いまくる。
風が通って気持ちよい。
娘は2歳になって、フォークを使ってうどんを食べている。野菜スープのなすやキャベツを口に入れてやる。
ポールの声が響く。「ありのままで、そのままで」
ふと思う。何が足りないものがあるというのだろうか。
過不足のないこの日曜の、娘とふたりの午後。二度とない、人生のこの時間。
月並みだがビートルズのベスト盤のラスト、「The long and winding road」。
人生は続く。来年は四十路に入る。ひとは死に向かって生きている。
そんなことをふと考えた午後。
さて、続きです。
結局、代表の方から連絡はなく、もう一週間をきったのでこちらから電話した。
「今、おこたえしなくちゃいけませんか」
というのが答えだった。
しかし来てもらえないのだったらもう一週間切っているので、こちらも手をうたないと困る。
そしたらこういう答えだった。
要約すると、私が書いた手紙を、今まで派遣したシッターさん7名のうち、半分(これも3名なのか4名なのかはっきり言わない)に読ませた。
そしたら全員「伺いづらい」ということだった。だから派遣できない。来週は派遣するが、これで最後にしてほしい。
そしてわたしが聞いた「託児がいらないと判断したのはなぜか」などという答えには一切答えない。
ただ「あの手紙がすべてです」「リツコさんのお幸せを心からお祈りしております」(←ちょっと気持ち悪い)と繰り返すばかり。
とにかくはっきり言わないのだ。
例えばわたしが「何人の方に見せたのですか?3人ですか、4人ですか?」
「・・・」
「3名ですか?」
「そのくらいですね」
みたいな感じ。
「来てもらったシッターさんたちは資格を持っているのか、保険はどうなっていたのか」
と聞いても「お答えする義務はありません」とのこと。(でも最初に聞いているのだ。4回の講習を受けさせて派遣しているので、保育士の資格を持っている人と持ってない人がいる)
まあ話していても仕方ないな、と思ったのだが最後にわたしはこう言った。
「だからなぜ見てもいないのに『託児が必要ない』と判断したのか分からないのです。」
「それは最初に伺ったときに、レッスンしていないほかのお母さん達が見てくれていたからそう思ったのです」
と言う。しかし、他のお母さんがずっと責任持ってみていてくれるわけではない。だからこそ託児を頼んでいるのだ。
それをわかっていながら、この人は言っている。ふと、この人はお金もらってないのかな、と感じた。
わたしが「託児してもらいたいんです、お願いします、そちらの仰るとおりにしますから来てください」と言うと思っていたんじゃないかな?それなのにクレームまで言ってきて、頭にきたんじゃないか?
「お会いして、筋が通った方と思ったし、知人もあなたのことをそう言っていた。そのギャップが納得いきません。」
「・・・」
「しかしもうここまで来てしまったらお聞きしてもせんないことですね。」
それで今までのお礼を言って電話を切った。
それから思ったのだが、普通、代表個人に宛てた手紙を、クレームを付けられた本人を含めて見せるなんておかしくないか?
こちらは個人情報や子供の顔を知られている。改めてこわくなった。
この人は素人だ。そう思った。
その後、もう一度シッターさんの人数を改めて伝えるため電話した。そしたらいつも聞かれなかった子供の年齢を聞かれた。普通ちゃんと聞くよね~。急にちゃんとしてきた感じ。
しかし、レッスンの日に遅れてきたシッターさんが1名。その方は以前来てくれたことがある方で、その時11時からだったので、そう思っていたらしいが、遅刻は遅刻。
ちゃんとしろよな~やっぱり素人だ。
その方に、一応今までお世話になった感謝の手紙と、菓子折りを代表に渡してくれるように言付けた。
しかし夕方、遅刻シッターさんから電話がかかってきて「代表は『今までこういうものは受け取っていないから、返してくれ。手紙ももう電話で話したからいい』と受け取らないから、住所を教えてください。返しに行きます」と言う。
わたしも返されても困るし、受け取ってください、と遅刻シッターさんに言い、ちょっと聞いてみた。
彼女の話。
「代表はシッターから月々経費として200円もらうだけである。自分がシッターとして行ったときは報酬はもらうが、NPOである。
シッターは1時間800円と200円の交通費はそのまま貰っている。だから代表はほとんどボランティアである。
手紙はクレームの部分だけファクスで送られてきた。」
やっぱりな~。
「今までのシッターさんには感謝している」という部分や、電話でいきなり『託児必要ないでしょ』と言われたという部分とかは見せてないわけだ。
そう話したら「それは知らないわ~」と遅刻シッターさん。
会社だと思って話していたし、管理者だと思ってこっちは話していたから。
ただの仲介だけだったわけだ。だからシッターさんを教育する義務も責任もないし、サービスという概念はない。
「保育サポーター保険」というものに入っているらしいが、なんかよく分かっていないみたいだった。
あらためて、何かあったときこの代表だったら、責任はどこにいくのだろうか、と思った。
シッターさんは「直接お金をいただくママの意向に添った託児をする」気持ちがあるが、この代表はそんなサービスを提供する義理はないわけだ。だって自分の利益にはならないから。
「自分はほぼボランティアでやってやってる。だから自分に逆らうような人には提供してやらない。」
そんな気持ちがあるのじゃないかな、と思った。
まあ気持ちはわからないでもないな~。
多分、なんか虫の居所が悪いところにわたしが電話をしてむかついていたので意地悪を言った。
しかし謝るどころかクレームをつけてきた。手紙までよこしてきた。頭にきたので、もう助けてやらない。
そんなとこだろう。
わたしは、母親くらいの年齢の女性が苦手。
自分が母親と上手く関係を築けてないということもあるんだと思う。
礼を尽くしたつもりなので、これはもう縁がなかったということで、終わりにすることにした。
ヨガレッスンの仲間と相談して、代わりの保育士さんを捜し、今、徐々に確保出来ている。
保険の点とか、とても面倒くさいのだが、以前、保育サポーター養成講座を受講したことがあったので、市の保育支援課の方に相談したりしてなんとかなりそうだ。
これをきっかけにわたしも託児ボランティアをすることにした
また新しいステージに出て行くきっかけになった。
村上春樹の「沈黙」では、主人公がたまに妻の胸で慟哭することがある、と書かれている。
自分を同級生や教師から無視される存在、卑怯な存在と見られるように貶めた一人の同級生。そしてその策略のままに、彼を判断し、避けたたくさんの人たち。
顔がない、世間の人々。「みんな」と言われる人たち。
あの代表の女性は、成人した子供が2人いる、多分社会的には信用されていて、彼女に感謝している人もたくさんいるだろう(事実、わたしの知人は彼女を『第二の母』と言っていた。それなので、今回の経緯は『とても信じられない』そうだ)。
人にはいろいろな面がある。それは私にも。夫に対してなんてとても人には言えない。
わたしは顔がない「みんな」とならないよう、せめて自分の会ったその人、自分が感じたその感覚でその人を見たい。