晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

井上ひさし 『四千万歩の男 忠敬の生き方』

2024-11-21 | 日本人作家 あ

先週の日曜日、関東南部は日中は汗ばむ陽気でしたがその次の日は一気に十二月の気温。それまで布団は毛布と薄手のかけ布団だけでしたがさすがに寒くて厚手の羽毛布団を引っ張り出しました。この羽毛布団、そこそこ高くていいやつなのでものすごくあったかい、のはいいんですが、猫が布団にもぐってきても七〜八分くらいしたら熱くて出てっちゃうので、それがちょっぴりさみしいですね。

以上、ネコと庄造と。

さて、井上ひさしさん。この本は伊能忠敬を描いた「四千万歩の男」という小説があって、それの経緯とか出版後の対談とかが収録されていて、まあ小説ではないのですが、それでも読み応えじゅうぶんです。

まず伊能忠敬さんの人物像から。江戸中期の延享二年(一七四五)、上総の九十九里沿岸、現在の千葉県九十九里町で生まれますが、十七歳で下総の佐原の名主、伊能家に婿入りします。婿入りしたときは伊能家の身代(財産)はそこまで多くはなかったのですが、忠敬さんは米の仲買などで商才を発揮(文中では「かなりあくどいことをして儲けた」とありますが)し、二十倍以上に増やしたそうです。佐原は天領(幕府の直轄地)で、領主から苗字帯刀を許されます。伊能忠敬の有名な肖像画で裃を着て刀を大小、というのはもともと武士の出ではなかったのですね。

そうして、五十で隠居します。そこで天文学、当時は星学といったそうですが、の勉強をはじめます。当時は鎖国状態ではありましたが、現在の北海道あたりにロシアの船がたびたびやってきていたそうで、幕府から蝦夷地へ測量に行くことになったのですが、じつは本来の目的は、地球の大きさを知るためだったのです。

まず、A地点から北極星の位置を調べて、そこから真っ直ぐ北上して北極星が一度上がった位置をBとして、その距離を測ります。その距離かける三百六十で地球の円周がわかるということで、なんとほぼ正確に計測されたそうですが、しかし問題があって、当時の日本は大名家とかが治めている領内は今でいう国であり、その境界線はつまり国境で、現在と同じく国境を超えるのはフリーでは無理でした。ところが幕府の仕事で測量をやってますと通行札を見せればハハーとなって大手を振って国境を通過できるのです。

またしても問題が。測量に使うものなのですが、縄や竹だと雨や湿気で長さが変わってしまうという難点があるのですが、そこで忠敬さんは自分の歩幅を使って距離を測ります。まあ昔の大工さんなども指先から肘までとか親指と人差し指とか自分の体を使ってやっていたそうで、何歩だからこのくらいの距離だとやってたそうですが、真っ直ぐ歩かなければダメなので、途中に水たまりや穴、さらに馬のウ●コが落ちててもあーこのままいったら踏んじゃうと分かっていても避けることは許されず・・・

そんなこんなで日本の海岸線をすべて歩き回ります。それがこのタイトルの四千万歩なわけですね。じつは完成の前に忠敬さんは亡くなってしまいます。残りの伊豆諸島は弟子が引き継ぎますが、なんとこの地図、幕府の図書館に貯蔵されます。そこであの、シーボルトが国外持ち出ししようとした事件が起こります。明治に入って正確な地図がほしいとイギリスの測量隊にお願いします。イギリス人たちはもともとあった日本地図を見せてくれといって、伊能忠敬の地図を見せるとあまりに正確な地図だったので自分らは必要ないわといって帰国します。

井上ひさしさんがなぜ伊能忠敬の小説を書こうと思ったのかというのは、日本人の寿命が伸びて老後の「第二の人生の過ごし方」が大事なテーマになってくるのではないか、伊能忠敬は老後、当時は隠居ですが、隠居したあとに大事業を成し遂げたわけですから、二人分の人生ですね。

二人分の人生、といえば、仕事もしつつ大学生(通信制ですが)もやってて、いちおうは二人分の人生のような生活を送っていますが、ハッキリいって楽しいです。おそらく忠敬センパイも楽しかったのではないのでしょうか。

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井上靖 『後白河院』

2024-10-29 | 日本人作家 あ

もう十月も終わりですね。今年もあと二ヶ月「しかない」のか「もある」のか、コップの中に水が半分ってやつですね。物事を悲観的に見るのも楽観的に見るのも結局は自分次第なんだってことですか。とはいえ精神的に余裕がないと気持ちの切り替えすらできないというケースもありますので「結局は自分次第」って人によっては重い言葉になってしまいます。気をつけないといけませんね。

以上、はりきっていきましょう。

さて、井上靖さん。今年の大河ドラマが紫式部で、この作品はそのちょっと後になりますね。『後白河院』は歴史だと後白河法皇という名前で出ていることが多いと思いますが、まずその前に天皇が存命中に譲位したら上皇になります。で、上皇になって出家したら法皇になります。法皇が上皇より上というわけではありません。

 

後白河院の六代前の後三条天皇の前までは、貴族の藤原氏が天皇家と縁戚関係になって天皇が幼いときに摂政、大人になると関白となって「摂関政治」と呼ばれ、政治の実権を握るようになります。しかしその栄華も続かず親戚関係が途絶えてしまうと、後三条天皇は藤原氏の権力を天皇の管轄にしていきます。そして後三条天皇の皇子の白河天皇が即位、さらに白河天皇は皇位を譲ったあとに上皇になります。この時代あたりから、摂関政治から「院政」へと政治形態が変わります。

 

そして鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位して上皇になり、ここからがものすごく複雑でめんどくさいのですが、長期実権を目論んだ鳥羽上皇はまだ三歳の近衛天皇を即位させて崇徳天皇が譲位して崇徳上皇に、そして鳥羽上皇は鳥羽法皇になります。近衛天皇というのは鳥羽法皇の実子なのですが崇徳上皇にとっては異母弟で、崇徳上皇の養子になります。しかし病弱でわずか十七歳で亡くなると、鳥羽法皇の四男の雅仁親王が後白河天皇になります。こうなると崇徳上皇はいつまでたっても自分に実権が回ってこないので後白河天皇と対立します。これが「保元の乱」で、このときに実際に対決したのは武士で、それまで政治のゴタゴタは時間がかかってドロドロしたものでしたが、武士の対決だとあっという間に勝敗が決まって崇徳上皇側が負けて島流し。勝った後白河天皇側についた平清盛と源義朝は存在感が増していきます。

 

ところが、後白河天皇が守仁親王に譲位して後白河上皇、守仁親王は二条天皇になると今度は後白河派と二条派が対立。これが「平治の乱」で、日本史でおなじみの、平清盛が勝って源義朝が負けて息子の頼朝は伊豆に流され、清盛は太政大臣に出世、自分の娘を天皇に嫁がせてとかつての藤原氏みたいなことになります。例の「平家にあらずんばズンバドゥビドゥバー」でしたっけ、ちなみにこのとき清盛は二条派になって後白河上皇は寺に逼塞します。

しかしここで終わらないのが後白河、二条派の政権が危うくなると清盛がさらに力こそパワーとなりますが、世間ではアンチ平家の機運が高まってきて「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれるクーデターが起きますが首謀者が後白河院で幽閉されてしまい・・・と、まあツラツラと書いていくときりが無いのでここらへんにしますが、この作品はあくまでも後白河院が中心ですので、清盛の死、木曽義仲の都入りや頼朝が東国で力をつけてきて、そして義経が逃げる平氏を追いつめて、その義経が頼朝に追われ・・・というあたりはサラッと紹介しているくらい。

物語の構成は、近くにいた人たちの証言というか回想といった形式になっていて、途中で一人称が変わって「あれ?」となったのですが、証言者が変わったと気付きました。皇室は「禁裏」というくらいですから何重にもベールに覆われて実情みたいなのは知らされていませんし、さらに千年前。徳川家康とかもそうですが、最終的に生き残るのってすごいですよね。

 

 

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安部龍太郎 『開陽丸、北へ 徳川海軍の興亡』

2024-09-05 | 日本人作家 あ
八月が終わってしまいました、ということは一年の三分の二が終わってしまったのです。なんだか某政治家構文みたいになってしまいましたが。我が家には猫がおりまして、寒い時期には寝るときにベッドで人間にくっついて寝るのですが、暑くなってくると廊下や風呂場など涼しい場所で寝てまして、それが数日前からベッドに乗ってきて足元で寝るようになってきたのですが、まあ多少は涼しくなってきたということなんでしょうね。

以上、動物の本能。

さて、安部龍太郎さん。歴史小説というと戦国時代か幕末が多いのですが、シンプルにこの時代が面白いということなのでしょうけど、大河ドラマもそうですが、過去に放送されたのは戦国と幕末が半分以上なのだそうで、まあ伊達政宗とか坂本龍馬とかカッコいいですもんね。

ペリーが日本に来て十年ちょっと、海防の強化を急いだ当時の幕府が、オランダに軍艦の造船を依頼し、その船は開陽丸と名付けられます。その船に乗ってオランダ留学から帰国したのが艦長の榎本武揚と副艦長の沢太郎左衛門。ところが帰国した半年後には大政奉還、つまり江戸幕府が終わります。開陽丸は新しく開港したばかりの兵庫港に停泊している欧米の軍艦や商船を監視するために大阪湾にいます。ちょうどこの頃、薩長と朝廷の新政府が徳川家の処遇を決めていて、なんとか徳川家がいち大名家に留まることになります。ところが江戸では薩摩藩士を筆頭に倒幕派と称する浪人たちが乱暴狼藉を行います。鳥羽・伏見の戦いで幕府側が朝敵となり、時の将軍徳川慶喜は大阪城から脱走して開陽丸で逃亡します。それからのゴタゴタをぜんぶ書いているとキリがないので、なんだかんだで無血開城、そして上野戦争となります。そこでも負けて開陽丸はほかの幕府所有の軍艦といっしょに東北へ向かうのですが、途中で嵐に遭い・・・

史実のとおりにいきますと、このあと東北でも仙台藩が新政府側について負けて、敗残兵を乗せた船は蝦夷の箱館(函館)へ。そこでまた嵐に遭って沈没するのですが、じつはこの物語の冒頭、昭和五十一年に行われた開陽丸の引き上げ作業が行われ、そこに南雲さわという八十近いおばあさんが作業を見守っている、というシーンからはじまるのです。さわがまだ小さい頃に祖母の富子から開陽丸のことをよく聞いていていました。太郎左衛門がまだ貧乏御家人の息子だったころ、隣に住んでいた御家人の娘、南雲富子と夫婦になる約束をしていたのですが、富子の母が病気になり、太郎左衛門もオランダ留学が決まって延期となります。しかし留学から帰ってきたら南雲家は一家ごといなくなっています。はたして二人は・・・というロマンスの話もあります。ちょっとタイタニックっぽいですね。ラストシーンに思わず涙。

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井上ひさし 『四捨五入殺人事件』

2024-08-07 | 日本人作家 あ
オリンピックやってますね。ローマ教皇庁が開会式にクレーム入れたり選手村が暑くて食事がまずいとかセーヌ川が汚くてトライアスロンの選手が吐いたとか話題に事欠かないですが、それにしても柔道ってなんか毎大会揉めてますね。もともと柔道って武士が刀での斬り合いから身体を組んだ状態になっての戦い方で地面に背中をつく、または抑え込めたら相手を殺せるという考えで、それを嘉納治五郎という人がルールを決めて柔術から柔道になったので、まるでレスリングかラグビーのタックルみたいにしてきてとにかく相手を倒せばいいというのは、まあある意味「原点回帰」といえますよね。

以上、暗くてあったかいところが落ち着くのは胎内回帰。

さて、井上ひさしさん。この作品は本格ミステリ、っぽい作品です。

東北地方にある成郷という市に講演会へと向かう石上克二と藤川武臣というふたりの作家。宿泊する場所は、鬼哭(おになき)温泉。近くに鬼哭川が流れています。なぜこんな珍しい名前なのかというと、かつて年貢の取り立てがあまりに厳しいので鬼さえも泣いたとのいわれが。この日は大雨で、川が増水して橋を渡るのも怖いほどですがどうにか鬼哭温泉の旅館に到着します。旅館の女将は厳しい年貢の取り立てをしていたという領主の子孫。すると、鬼哭川の橋が流されてしまったとの知らせが。鬼哭温泉は三方が山に囲まれ鬼哭川にかかる橋からしか成郷市へは行けませんので、橋がないと陸の孤島状態。

藤川は温泉に入ろうとすると、中に女性が。女将かなと思ったのですが別人で女将の妹。この妹というのがヌードダンサーで、女将としては身内の恥。

話は変わってその夜、藤川はどこかから尺八の音を耳にします。すると「ぎゃーっ」という叫び声が。浴場に行ってみると、脱衣場に石上が倒れています。水をかけて目を覚ました石上に話を聞くと鬼を見たので気絶したというのです。浴場に入るガラス戸は内側から鍵がかかっていて、ガラスを割って中に入ってみると、そこには女将の死体が・・・

女将はなぜか石上の万年筆を握ったままになっています。これはいったいどういうことなのか。すると、今度は女将の妹が川から水死体で見つかったと・・・

本格ミステリ「っぽい」と書いたのは、オチがまさにその通り。
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阿部龍太郎 『葉隠物語』

2024-08-04 | 日本人作家 あ
暑いです。と書いたところで涼しくなるわけでもありませんが。健康のために週に二、三日ほどウォーキングをやってまして、といっても雨の日と、それからこの二ヶ月ほどは熱中症になりたくないので控えてます。じゃあ夜中か早朝にやればいいだろという話なんですが、こう暑いと睡眠時間が短いので涼しいときにしっかり寝ないと。自転車にも乗れてませんね。はやく涼しくなってほしいものです。

以上、運動不足。

さて、阿部龍太郎さん。この作品は、現在の佐賀県、肥前佐賀藩(鍋島藩)に伝わる武士の心得が書かれた書物「葉隠」の誕生秘話、内容の説明が短編形式で描かれています。まず序章で、佐賀藩士の田代陣基が藩のゴタゴタに巻き込まれて「こうなったら腹でも切ってやる」となりますが、その前に会っておきたい人がいて、その人の庵に行きます。その人物とは山本神右衛門。二代藩主鍋島光茂に仕え、古今和歌集を丸暗記していたことで、光茂が生前古今伝授を受けることができた立役者。光茂の死後、出家して常朝と名乗って山奥に庵を結んで隠遁生活。陣基は腹を切るのをやめて常朝に弟子入りします。

戦国末期、肥前を治めていたのは龍造寺家で、佐賀藩の藩祖、鍋島直茂は家臣でした。しかし直茂が実権を握って豊臣秀吉の後ろ盾で肥前の領主に。朝鮮出兵、関ヶ原の合戦、江戸幕府、島原の乱、出島の防衛など歴史上の出来事に鍋島家がどう関わったのか。有名な化け猫騒動も出てきます。

古今伝授とは、宮中に伝わる和歌の秘伝奥義で、武士で古今伝授を受けた有名人といえば細川幽斎。光茂が古今伝授を受けたのは戦乱の世も終わり武士は武断派から文治派へとシフトチェンジしなければならなくなったちょうど転換期で、後世の評価では光茂は先見の明があったとされていますが、しかし藩の財政が苦しい中で立派な書庫を作ったり風雅な別邸を作ったりして、家臣や領民に目は向いていなかったようです。

それと、光茂のもうひとつ大きな功績が「追腹禁止令」。殿が亡くなったら追腹といって、まあようは後追い自殺をするんですが、初代藩主勝茂が亡くなったときには三十名以上の藩士が追腹をして、当然中には有能な方もいたわけで、これじゃちゃんと継承できないじゃんというわけで「お前らやるなよ」となります。それが幕府の耳に入って全国的に追腹が禁止となります。

葉隠が誕生したときからおよそ三百年後、佐賀県生まれの有名人が公表してないと歌われたり、全国一マイナーな県に選ばれたり、佐賀は笑いや自虐のネタになってますが、個人的にすごく行ってみたい場所です。そういえば、佐賀は長崎と福岡の途中でにあって、昔は砂糖が運ばれた「砂糖街道」なるものがあり、その影響なのか佐賀の料理は味付けがとても甘く、他県から来た嫁が作った料理を姑が食べて「長崎の遠かね」長崎から遠い、つまり砂糖が足りない(ケチくさい)と嫌味を言うそうな。性格悪いですね。

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井上ひさし 『不忠臣蔵』

2024-06-10 | 日本人作家 あ
気がつけばもう六月。今年に入ってそれなりに充実した時間を送っているので時が過ぎるのが早いとはあまり感じませんね。年齢を重ねると時が過ぎるのが早く感じるのを「ジャネーの法則」といって、堅苦しい言い方をすれば「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」ということだそうです。あくまで(感じる)であってそこらへんはひとそれぞれですからね。そんなんじゃねー、などとくだらないダジャレを言いたがるのは確実に年を取った証拠です。

以上、年は取りたくないですね。

さて、井上ひさしさん。もうタイトルからして面白そう。

「忠臣蔵」といえば雪の夜に消防士のコスプレをした人たちが他人の家の門をぶっ壊して中にいたおじいさんを殺害するという、これだけザックリ書くとちょっと頭のアレな人たちの話になってしまいますが、四十七士といいますが、じつはけっこう直前まで脱退者が多くて、招待状のご出席・ご欠席のところの(ご)に二重線を、(欠席)にマルをつけて、みたいなことをした元赤穂藩士がいたわけですね。
この時代は庶民の間に閉塞感といいますか、なんかいやな時代だなアとため息もつきたくなるようなもんで、特に「生類憐みの令」は日本史上に燦然と輝く天下の悪法として有名ですが、現代的解釈だとあれは動物愛護法の先駆けとして考え方としては素晴らしい、だたちょっとやり過ぎた(最終的に蚊や蝿にも及んだ)、そんな中で、勧善懲悪のスーパーヒーローアイドルグループAKO47(エーケーオーフォーティーセブン)が登場して、当時の人たちの熱狂ぶりはすごかったようで、となると、このイベントに参加しなかった人たちは不忠者、卑怯者、人でなしなどと蔑まれていたとか。
しかしそんな彼らにも事情があったわけで、そんな十九人を描いています。ひとりひとりを紹介すると大変なのでかいつまんで書くと、中にはみずから嫌われ役になることを買って出て参加しなかった者、例えば第一陣が不首尾に終わった場合の第二陣、それから頼まれて遠方に行ってて当日に江戸にいなかった、こういうケースもあったわけで、これらの人たちはつまり参加したくても物理的あるいは時間的な問題でできなかったわけですね。のちに調べたらそういう事情があったのねと判明しますが、そもそも釈明する機会も与えてもらえません。

だいたい殿様からして「この間の遺恨覚えたか!」とかいうくらいならなぜ脇差しなんかじゃなくて太刀で斬るか突き刺すかしなかったのか。殿中でそんなことをすればただちに切腹そして御家取り潰しになること必定で、「癇癪持ち」「短慮」でけっこうひどい目にあってたという家臣もいて、そんな「すぐキレるパワハラ社長」に忠臣もへったくれもありません。

資料や文献に基づいた部分と想像の部分とがうまい具合にミックスされてシリアスとユーモラスのちょうどよい加減になっています。そしてこの時代の脚本家や放送作家は歌舞伎、落語、浪曲、講談が素養としてあるので、読んでてリズミカルです。
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井上靖 『石濤』

2024-05-18 | 日本人作家 あ
いつの頃からかものすごい心配性になってしまい、出かけるときにカギ閉めたっけな、ストーブ消したっけな、と不安になって家に戻るのはしょっちゅうで、でも今までカギが開いてたりストーブが点けっぱなしだったことはないんですが。あとは特に「時間」ですね。仕事に行くのに職場までに通勤時間だいたい1時間くらいなんですが、2時間前には家を出ます。学校に行くのも10時なんですが8時半には最寄りの駅に着いて、早すぎるので駅前のカフェでコーヒー飲んで時間を潰します。遅刻するよりマシですからね。もう心配性っていうより不安神経症のレベルかもしれませんが。

以上、お父さんは心配性by岡田あーみんさん

さて、井上靖さん。この作品は短編集です。といっても物語というよりはエッセイというか紀行文というか。すべて晩年の作品。

ある日、出かけてて家に帰ると応接間に風呂敷包があって、開けてみると中国、清朝初期の画人、石濤の作品。お手伝いさんに聞くと、背の低い痩せた老人が置いていって数日後に取りに来る、というのですが、その老人はどこの誰か見当がつかず、約束の日になっても現れません。妙にその絵に惹きつけられて、夜になると絵を眺めながらウイスキーを飲んでいると、ちょうどその頃アレルギーの痒みに悩まされていたのですが、その絵を見ていると不思議と痒みがおさまります。そして絵を置いていった謎の老人と想像で会話をして・・・という表題作「石濤」。

シベリアのレナ川、オビ川、エニセイ川、そしてアフガニスタンのカブール川、など、川の思い出や行ってみたい場所について語る「川の畔り」。

また川の思い出話なのですが、インダス川の話になったときに、急にジェラル・ウディンのことが浮かびます。13世紀はじめにアフガニスタン・イラン一帯を収めていた人物で、モンゴルの侵略で滅ぼされて、その後、ゲリラ戦でモンゴル軍と戦うのですが・・・という「炎」。

パキスタンのカラコルム山脈に行き、フンザを目指してジープに乗っていると、現地の少年がジープの後ろにしがみついて、それをはがそうとしたら、その少年の顔が孫に見えてきて・・・という「ゴー・オン・ボーイ」。

食道がんの手術をして、「老い」を意識するようになり、人生観が変わったというかそれまでの人生を出来事を見つめるように・・・という「生きる」。

年を取るというのは別にネガティブに捉えなくてもいいのでは、と思わせてくれます。


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安部龍太郎 『冬を待つ城』

2024-05-03 | 日本人作家 あ
前回の投稿が3月3日。ずいぶん間をあけてしまいました。反省してまーす、などとスノボの人も出てくるってなもんですが、もちろん忘れてたわけではなく読書から遠ざかってたわけでもありません。じつは今回投稿する作品の前にとある海外文学をずっと読んでたのですが、自分の読解力の無さを棚に上げては承知の上で、とにかく読みづらくて内容がぜんぜん頭に入ってこなく、でも途中でやめるのはよくないとなんとか最後まで読み切ったのですが、ただの苦行でした。はっきりいって辛かったです。つらたん。そういえばハッピーターンの激辛味で「つらターン」ってのがありますよね。まだ食べてないので今度買いましょう。

以上、お菓子の宣伝。

さて、安部龍太郎さん。けっこう読んでますね。お気に入りの作家の作品が書棚に増えていくと、なんだか嬉しいものです。

この話は、豊臣秀吉が北条家との戦いに勝利し、奥州では伊達や南部といった大名家も豊臣家に使えることになり、いよいよ天下統一となったのですが、東北各地で一揆などの反乱が起こります。秀吉側はこれを鎮圧するために大規模な軍勢を東北に送り込むことになるそうな・・・といったところから始まります。

東北、二戸の城主、九戸政実の弟、政則は、九戸家の四男として生まれ、幼い頃に仏門に入り、京で修行をするなどしたのち、長兄の政実の命により還俗し、久慈家に婿入りします。が、政則の兄政実も義父の久慈直治も南部氏の一門でありながら秀吉のやり方に反対し、正月参賀に行かないと決めます。このままでは九戸と南部が争うことになって共倒れになり、その隙をついて東北地方がまんまと豊臣家に掌握されてしまうことを恐れた政則は、仏門に入って修行した時代の師匠である薩天和尚に頼んで争いを避けるようにします。

しかし、政実は南部家と争うことを選ぶのです。秀吉と争ったところで勝ち目がないのは承知のはずの政実は、なぜそこまでして南部の下につくのを拒むのか。それは、秀吉が東北一帯の平定を終えたのちに朝鮮半島への出兵を計画していて、朝鮮半島の冬は大河も凍るほどの寒さなので、寒さに強い東北の領民たちを大々的に人狩りをして朝鮮に連れて行くという噂を聞いたからで、領民が安寧に過ごすことこそが城主の役目で、秀吉の考えに従うわけにはいかん、というわけ。それだけではなく、石田三成は東北にあるという(お宝)をどうしても手に入れたいようで・・・

東北地方は坂上田村麻呂の時代から蝦夷(征伐)と称して中央に蹂躙されてきた歴史があります。征伐といっても、別に悪いことはしていません。東北の雄大な自然とともに過ごしてきた蝦夷の末裔として中央に対するレジスタンス。文中ではファンタジーっぽい話もあったり。
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宇江佐真理 『酒田さ行ぐさげ』

2024-03-03 | 日本人作家 あ
ようやく寒さのピークが過ぎたと思ったら、今度は花粉症の季節です。じつは10年ほど前にだいぶ大人になっての花粉症デビューしまして、それまでは花粉症で苦しんでる人を見ては生活の乱れ、食事の栄養バランスが悪い、だから花粉症になるんだ自業自得だと下に見てたのですが、もう心の底からごめんなさい。

以上、反省してまーす。

さて、宇江佐真理さん。この作品はサブタイトルに「日本橋人情横丁」とあります。

日本橋富沢町にある「上総屋」は、葬儀で亡くなった人の形見の着物を加工して棺を覆う天蓋を作る店で、娘のおすぎはケチで他人の悪口が大好きな両親のことがいやだと考えるようになります。じっさい、手習所に通いたいと言ったときも「おなごに学問は必要ない」といって認めてくれず、といって同業者に娘の自慢をされて悔しくて急に「明日から手習所に行け」と言い出したり。ところがおすぎは「わたし行かない」と・・・という「浜町河岸夕景」。
北町奉行所の同心、戸田勝次郎は妻を亡くして一周忌が過ぎても後添えをもらう気になれずにいます。さらに気が滅入る御用を命じられます。それは、筆頭同心の森川が奉行所の金を持ち出して金貸しをしているという噂があり、それを調べてくれ、というもので・・・という「桜になびく」。
呉服屋「一文字屋」は、古びた狭い貸家に引っ越します。というのも、番頭が金を持ち逃げして一家は夜逃げ同然で引っ越したのです。近所に挨拶にまわっていると、裏店の長屋にお武家と思われる一家がいて、じつはかつて一文字屋で買ったことがあるというのですが・・・という「隣の聖人」。
花屋の「千花」の息子、幸太は、父の仕入れの手伝いで駒込や巣鴨まで行きますが、ある日のこと、仕入れに行った途中に蕎麦屋によって食べてると、知らない男が「滝蔵じゃねえか」と父の名前を呼び、父は「久しぶりです」といいます。こいつは倅で、などと話してその男は去りますが、父は幸太に「今日のことはおっ母にはいうんじゃねえぞ」と言われて・・・という「花屋の柳」。
蚊帳商「山里屋」大女将の美音は、近所の娘たちにお稽古ごとを教えています。じつは美音は武家の娘でしたが父が浪人になり、女中奉公に出て山里屋に嫁ぎます。さて、教え子のひとり、小普請組の娘のあさみが「本意ではない縁談はお断りしてもよいのか」と聞いてきて、なにごとかと思いますが、じつはあさみに還暦近い隠居の後添えにならないかという話があって・・・という「松葉緑」。
廻船問屋「網屋」の一番番頭、栄助は、掛け取りから戻るとお客が来ています。聞くと「酒田の番頭が江戸に来てる」といいます。じつはこの酒田の番頭とは権助といって栄助とは網屋に同じ時期に奉公に入った仲間でしたが、仕事が遅く失敗ばかりで支店の出羽の酒田に飛ばされたのです。栄助は権助の尻拭いをやらされてばかり迷惑だと思っていました。ところが、そんな権助はなんと酒田の店主になったというのです・・・という表題作「酒田さ行ぐさげ」。

江戸時代の日本橋といえば商業の中心地でしたが、メインストリートから一本裏に入ると、そこには裏店があり煮売屋があり銭湯があり、といった庶民の暮らしがありました。江戸というビッグシティのなかの武家や商家にフォーカスを当てた作品も好きですが、こういった市井の人々のハートウォーミングな作品はドラマチックな展開こそありませんが、年を取ってくると、こういうのがなんともいいですね。
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安部龍太郎 『生きて候』

2024-02-11 | 日本人作家 あ
今年度の学校関係のテストやらレポートやらが全部終わって、ひとまずホッとしてます。いちおう卒業は今年の9月なのですが、履修期間の延長をして来年の3月を予定しています。すでに卒業に必要な単位は取ってしまってるので、あとはやり残した科目をいくつかやろうかなと。仕事と試験対策勉強以外は時間ができるので、思い切り本を読もうかと考えてますが、年間100冊はきびしいとしてもせめて月に5冊くらいは読みたいですね。

以上、今のところ積ん読はありません。

さて、安部龍太郎さん。この作品の主人公は倉橋長五郎政重。どなた?はじめは架空の人物かと思いましたが、実在の人物でした。

戦国末期、徳川家康の家臣である御先手組の槍奉行、倉橋長右衛門の養子である政重は、同じ御先手組の鉄砲組のひとりと対決しているところに長右衛門危篤の知らせが。政重にかけた言葉は「与えられた命は美しく使い切るように。生き急いでも死に急いでもならん」と言い残します。通夜が終わると政重と一緒に長右衛門から兵法を教わっていた戸田蔵人がやって来て一緒に酒を飲んでいるところに妹の友達の絹江が長右衛門の好きだった梅干しを運んできます。蔵人は絹江に一目惚れしますが、絹江は蔵人の父と政敵、岡部庄八の娘。そこに本多佐渡守正信がやって来ます。正信は政重の実の父親。政重はなぜ自分が倉橋家に養子に出されたのか理由を知りません。

葬儀の日、江戸にいた重臣はもちろん、榊原康政、井伊直政、本多忠勝といった徳川四天王が使者をよこすだけでなくなんと家康自身も弔問に訪れ、あらためて長右衛門の偉大さに感じ入ってるところに本多正純が話があるといってきます。正純は正信の息子、政重にとっては異母兄。政重に本多に戻ることを断った理由を聞いてきます。すでに理由は正信に話していたのですが、正純は大番頭で一万石として迎え入れるから戻ってきてくれと誘うのです。家康が江戸に入城してはや七年、家臣団の中で正信と正純が苦しい立場に追い込まれていることは政重も知っています。戦場で目立った活躍もしてないのに家康から目をかけられていることを四天王や武断派は良く思ってなく「腸腐れ」「佐渡の腰抜け」と罵るほど。そんな中にあって武断派内で政重の評価は非常に高く、正信と正純にとっては喉から手が出るほど戻ってきてほしいのです。

ある日のこと、戸田蔵人の父親が岡部庄八と対決し、斬られて絶命したという衝撃のニュースを聞いて政重は蔵人の家に行きますが扉は閉ざされています。ところがこの一件は喧嘩両成敗にならず戸田が賄賂をもらっていたとして所領没収と江戸追放、岡部は何もなし。賄賂というのはもちろんでっち上げでこれに不満を持った蔵人は家に立て籠もることに。このままでは総攻撃になるので政重は蔵人を訪ねて勝負を挑みます。実力は互角、そのうち政重は死なすのが惜しくなり勝負をやめて「考えがある」といって蔵人が火薬庫に入って自爆するぞといって屋敷の周囲の人を避難させて政重は馬に乗って屋敷から出ます。しかしその背中には風呂敷で隠した蔵人が乗っていたのです。
でっちあげの証拠をつかんだ政重は蔵人の代わりに岡部庄八と勝負し庄八を斃し・・・

政重は京、伏見にいます。蔵人は西国のどこか。すると「政重どのではありませんか」と声をかけてきたのは、加賀の前田利家の次男利政。かつて政重は利政の指南役だったのです。翌日、前田家の大坂屋敷に出向くと、久しぶりに利家に会います。この頃、天下統一を果たした豊臣秀吉は朝鮮出兵を各大名に命じていましたが、前田家は出兵していません。そこで利家は現地の情報が欲しいので、政重に密偵となって朝鮮に行ってほしいと頼みます。
政重の愛馬、大黒とともに九州へ。前田家の書状には、馬を朝鮮に渡すために政重を朝鮮に送ってほしいとありますが、馬を運べるのは大名家専用の船でしか運べず、宇喜多秀家の船で渡ることに。そこに銃声が。なんと追手として絹江が・・・

このあと、朝鮮に渡った政重が見た、聞いた朝鮮半島の現状とは。そして日本に戻ってきた政重は石田三成に会いに・・・

政重が実在の人物なのはいいとして、描かれている出来事がどこまでが史実でどこからがフィクションなのかよくわからないので、なにがどうしてどうなったという部分はだいぶ省略しまして、なんだかんだで最終的に政重は加賀藩の家老にまでなります。
物語内に適度なロマンスもあり、あと隠し味のように歌(短歌)が物語にアクセントとして効果的で、とても読み応えのある作品でございました。



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