晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

井上ひさし 『四千万歩の男 忠敬の生き方』

2024-11-21 | 日本人作家 あ

先週の日曜日、関東南部は日中は汗ばむ陽気でしたがその次の日は一気に十二月の気温。それまで布団は毛布と薄手のかけ布団だけでしたがさすがに寒くて厚手の羽毛布団を引っ張り出しました。この羽毛布団、そこそこ高くていいやつなのでものすごくあったかい、のはいいんですが、猫が布団にもぐってきても七〜八分くらいしたら熱くて出てっちゃうので、それがちょっぴりさみしいですね。

以上、ネコと庄造と。

さて、井上ひさしさん。この本は伊能忠敬を描いた「四千万歩の男」という小説があって、それの経緯とか出版後の対談とかが収録されていて、まあ小説ではないのですが、それでも読み応えじゅうぶんです。

まず伊能忠敬さんの人物像から。江戸中期の延享二年(一七四五)、上総の九十九里沿岸、現在の千葉県九十九里町で生まれますが、十七歳で下総の佐原の名主、伊能家に婿入りします。婿入りしたときは伊能家の身代(財産)はそこまで多くはなかったのですが、忠敬さんは米の仲買などで商才を発揮(文中では「かなりあくどいことをして儲けた」とありますが)し、二十倍以上に増やしたそうです。佐原は天領(幕府の直轄地)で、領主から苗字帯刀を許されます。伊能忠敬の有名な肖像画で裃を着て刀を大小、というのはもともと武士の出ではなかったのですね。

そうして、五十で隠居します。そこで天文学、当時は星学といったそうですが、の勉強をはじめます。当時は鎖国状態ではありましたが、現在の北海道あたりにロシアの船がたびたびやってきていたそうで、幕府から蝦夷地へ測量に行くことになったのですが、じつは本来の目的は、地球の大きさを知るためだったのです。

まず、A地点から北極星の位置を調べて、そこから真っ直ぐ北上して北極星が一度上がった位置をBとして、その距離を測ります。その距離かける三百六十で地球の円周がわかるということで、なんとほぼ正確に計測されたそうですが、しかし問題があって、当時の日本は大名家とかが治めている領内は今でいう国であり、その境界線はつまり国境で、現在と同じく国境を超えるのはフリーでは無理でした。ところが幕府の仕事で測量をやってますと通行札を見せればハハーとなって大手を振って国境を通過できるのです。

またしても問題が。測量に使うものなのですが、縄や竹だと雨や湿気で長さが変わってしまうという難点があるのですが、そこで忠敬さんは自分の歩幅を使って距離を測ります。まあ昔の大工さんなども指先から肘までとか親指と人差し指とか自分の体を使ってやっていたそうで、何歩だからこのくらいの距離だとやってたそうですが、真っ直ぐ歩かなければダメなので、途中に水たまりや穴、さらに馬のウ●コが落ちててもあーこのままいったら踏んじゃうと分かっていても避けることは許されず・・・

そんなこんなで日本の海岸線をすべて歩き回ります。それがこのタイトルの四千万歩なわけですね。じつは完成の前に忠敬さんは亡くなってしまいます。残りの伊豆諸島は弟子が引き継ぎますが、なんとこの地図、幕府の図書館に貯蔵されます。そこであの、シーボルトが国外持ち出ししようとした事件が起こります。明治に入って正確な地図がほしいとイギリスの測量隊にお願いします。イギリス人たちはもともとあった日本地図を見せてくれといって、伊能忠敬の地図を見せるとあまりに正確な地図だったので自分らは必要ないわといって帰国します。

井上ひさしさんがなぜ伊能忠敬の小説を書こうと思ったのかというのは、日本人の寿命が伸びて老後の「第二の人生の過ごし方」が大事なテーマになってくるのではないか、伊能忠敬は老後、当時は隠居ですが、隠居したあとに大事業を成し遂げたわけですから、二人分の人生ですね。

二人分の人生、といえば、仕事もしつつ大学生(通信制ですが)もやってて、いちおうは二人分の人生のような生活を送っていますが、ハッキリいって楽しいです。おそらく忠敬センパイも楽しかったのではないのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デカイ&ウルサイ

2024-11-14 | 自転車

先週末のサイクリングの投稿を忘れてました。

今回の目的地は、成田空港の滑走路のすぐそばにある公園でピクニックランチ。

出発は空港近くのスーパー銭湯。空港の外周をサイクリングした感じですね。

「さくらの山公園」に着きました。

 

お花も咲いててきれいですね。猫もいました。

ちょうど飛行機が離陸した直後の真下に公園があるので、まー飛行機のデカイこと、そしてエンジン音のウルサイこと。

まあ、ウルサイことを除けば、風は冷たかったですがポカポカ陽気で気持ちよかったです。家族連れが芝生でシート敷いてお昼食べたり。

前日に家でベーグルを焼いて、それでベーグルサンドを作って、ポットにお湯を入れて紅茶、というピクニックランチです。

公園の名前が「さくらの山」というくらいで桜の木がいっぱいあって、花見シーズンは人がすごそう。空港の周囲には他にも「ひこうきの丘」や「さくらの丘」もあります。食べ終わってからしばらくボーっとして自転車で戻ってスーパー銭湯に入ってきていい湯だな。

距離的には片道5キロで往復10キロと短かったですが、なだらかな坂が地味にあって疲れました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉室麟 『神剣 人斬り彦斎』

2024-11-11 | Weblog

まだ確定ではありませんが、おそらく来年には転職して、その際に引っ越すかもしれません。今から引っ越す予定の市の物件情報を見てどこがいいかなーなんてけっこう楽しんでます。ただ問題がありまして、家にある本をどうしようかなと考えてます。いっそのこと全部売っちゃおうかと思ったのですが、今まで読んだ本は自分の人生の一部、血と肉、といってはオーバーですが、少なくとも人生に楽しみと彩りを与えてくれたことは間違いないので、今のところは引っ越し先に持って行く予定でいます。もっとも今より歳を取ってヨボヨボになっちゃったらさすがに売ろうかと。

以上、歳は取りたくないですねえ。

 

さて、葉室麟さん。タイトルの「人斬り」とは幕末の不穏な情勢の中で活躍?した名うてのヒットマン、ヒットマンは銃ですが、幕末なら刀ですね。

物語は、幕末におきた大事件「桜田門外の変」から始まります。井伊直弼を殺害した浪士のうち何人かは細川越中守の屋敷に向かいます。そこに出てきたのは若い茶坊主で、彼らから井伊大老を斬ってきたと告げると「あなたがたはまことの義士です」と褒め称えます。傷の手当や食事、酒までも用意してくれて浪士たちは感動し、名を訊くと「川上彦斎」と名乗ります。

この彦斎、天保年間に肥後国、熊本藩に生まれ、十歳で養子に出され、茶坊主になります。剣術は道場で習わず、独学で習得します。先述の桜田門外の変より十年ほど前、彦斎は熊本である男と出会います。長州藩士で九州を遊学しているという吉田寅次郎。藩の兵学師範の家に行くと、話題はアヘン戦争に。欧米列強に好き勝手にされてしまった清国のように日本もされてしまうのでは、そうなる前に備えがなければ、といった熱いトークに彦斎は影響されます。吉田寅次郎とは、のちの吉田松陰。日本史でおなじみ「安政の大獄」で吉田松陰は危険思想の持ち主とされて江戸で獄中死します。

彦斎は京都へ。このときに他の「人斬り」で有名な岡田以蔵、中村半次郎、田中新兵衛らと遭遇します。そして、日本史でおなじみのメンバーと会ったりしてます。当時のゴタゴタに何かしら関わっていて、長州へ行ったりと大忙し。

なんだかんだいろいろあって彦斎は明治になるまで生き残って最終的には処刑されるのですが、新しい時代とは彦斎の求めていたものとは真逆のもので、蓋を開けてみたら政治体制から軍隊まで何から何まで外国をお手本にして、天皇が国家のトップとはいえ「まるで薩長幕府やないか〜い!」とシャンパングラスで乾杯したくなっちゃうってなもんです。

自分が斬った佐久間象山の理想とした国家になってしまうのか、高杉晋作の言っていた「あなたの望むような将来は来ないよ」なのか・・・

この時代のトレンドだった「尊王攘夷」とは、天皇を尊ぶ尊王論と外国を斥けようとする攘夷論が合体した思想で、もう徳川幕府も限界だったので新しい政治体制にならないと海の向こうの大陸のように大変なことになっちゃうよ、といったもので、賛成側も反対側も武士ならではの解決方法、つまり相手を斬って殺害するという血なまぐさいナントカの変だとかナントカ事件だとかがあちこちで起こります。さすがに市中で銃をパンパン撃つわけにはいかないので、そうなってきますと「人斬り」が重宝されるわけですね。

しかし不思議なもので、葉室麟さんが書くと血生臭さがあまりないといいますか、ああこれが直木賞の某選考委員の「文章が清廉」ってことか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする