晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

髙田郁 『あきない世傳金と銀(十二) 出帆篇』

2022-08-31 | 日本人作家 た

早いもので今年も3分の2が終わろうとしています。個人的にはけっこう充実した3分の2でしたが、そんな東洋の島国のいち小市民の暮らしはさておき、世界レベルではいろいろ大変です。

8月31日といえば一部の子どもたちにとっては己の計画性の無さと怠惰を猛烈に後悔、反省しなければならない日ですが、だいぶ昔コンビニでバイトしていたとき、その日の夜「原稿用紙売ってますか!?」と半狂乱で駆け込んできた女性客。まあ、子の読書感想文でしょうが、そんな宿題しない子のためになんで親が駆けずり回ってあげてるんだと呆れていたのですが、在庫に無くて「すみません、売り切れですね」と言うと「他の店舗に問い合わせてください」と無理難題を要求され、できませんと断ると「じゃあどうすればいいんですか」と逆ギレされたという今となってはとてもいい思い出。

 

さて、あきない世傳。田舎の村から女中奉公のため大坂の老舗呉服店(五鈴屋)に入った幸(さち)。大番頭に商才を見込まれてなんと店の主人と結婚しますが主人は事故死。今度は店を継いだ弟と再婚しますが従業員や取引先の信用を失い家出。店は画家を目指していた3男が継いで、幸は3男と再々婚。が、3男は病死。3番目の主人と約束していた五鈴屋の江戸進出もはたし、はや10年。

ある事情から絹織物を扱う呉服仲間を追い出されて江戸では売れなくなり、木綿のみを扱う太物仲間に入ります。しかし五鈴屋のアイデア商品が大ヒット、仲間の店も売上を伸ばすことに。寄合の席で呉服も扱えるようになったらどうかという提案があり、幕府に申請を出します。なんだかんだあって認められ、五鈴屋はふたたび呉服を扱えるようになります。

新作デザインの反物ができたのはいいのですが、さてこれをどうやって売ろうと考えてた幸ですが、ある日のこと、酒屋で「酒切手」なるものがあることを知ったのですが、現在で言う商品券で、この酒切手を取り扱い店舗に持っていけばいつでも酒と交換できるといったものです。お祝いにいちいち重い樽酒を持っていく手間を考えたらこりゃ便利だと思った幸はさっそく仲間に呉服切手を扱ってはどうかと提案を・・・

そんな中、ある武家が五鈴屋にやって来て、婚礼の衣裳を仕立ててほしいとお願いします。婚礼の日を聞くと「あれ、その日は確か」と幸はある手紙を見ます。それは大坂にいたときに世話になった学者先生からの手紙で、その日は日食が起こると書いてあったのです。当時は日食は不吉で慶事は控える風習がありました。江戸時代の暦はいちおう正式には幕府が出してる「江戸暦」があったのですが、全国各地でバラバラだったのです。江戸暦ではその日に日食があるとは書いてありませんが、学者先生のもとに天文学の学者がいて独自に割り出したのです。それを武家に告げると「なんと失礼な」とブチギレられます。が、その日の朝、晴天だった空がどんどん薄暗くなって・・・

さて、次の巻でどうやら完結ということらしいのですが、どうなるんでしょう。

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帚木蓬生 『守教』

2022-08-21 | 日本人作家 は

お盆を過ぎて、関東南部はさすがに猛暑日になることがなくなってきて、朝晩と過ごしやすくなってきました。夜になると庭からリンリンと虫の声が。これから徐々に寒くなっていき、夕日の沈む時間がだんだんと早くなってくるこの季節が一年のうちで一番好きです。食べ物も美味しいですよね。お菓子作りが趣味なのですが、真夏はオーブンを極力使いたくないのでお菓子作りはせいぜいスコーンを焼くくらい。涼しくなってくると秋の味覚を使った焼き菓子を作るのが楽しみです。

以上、女子力高男(じょしりょくたかお)です。

 

さて、帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの作品を読むのはだいぶ前に「閉鎖病棟」を読んで以来。医師で小説家という方は結構好きでして、我が家の書棚にあるのは森鴎外、加賀乙彦さん、海堂尊さん、川田弥一郎さん、あと海外だとマイクル・クライトンがそうですよね。ちなみに渡辺淳一さんの作品は読んだことがありません。

 

永禄十二(一五六九)年、豊後(現在の大分県)の戦国大名、大友宗麟は、豊後日田の一万田右馬助の屋敷を訪れます。大殿は「お前が養子にしたあの子は元気か」と訪ねます。すると右馬助は養子を呼んで大殿の前に連れてきます。今年で十歳になる米助。「アルメイダ様の名前からメイをいただいて米の字をつけました」と右馬助。すると大殿は米助に向かって「お前の進む道はイエズス教だ」と言います。米助は幼い頃から養父母といっしょに毎朝「天にましますデウス・イエズス様、日々の恵みに感謝します」と唱えていたのです。

大友宗麟とキリスト教の出会いは、天文二十(一五五一)年、宣教師フランシスコ・ザビエルとの面会に遡ります。のちに洗礼を受けますが、このときにキリスト教に心動かされたわけではなく、主目的は交易でした。その後、豊後にやって来たアルメイダ修道士が「孤児院を建てたい」と希望しているので、大殿は、戦で足を負傷した大友家の重臣の右馬助に協力してくれと頼みます。ある日のこと、アルメイダは右馬助に「うまのすけさまは、こどもがいないので、ひとり、もらいませんか」とお願いします。このときの子が米助。

大殿が右馬助のもとに来た目的は他にあって、筑後領の高橋という村の大庄屋になって欲しいというのです。そして「わしの望みは九州一円をイエズス教の国にすることだが、たとえその夢が消えても右馬助が統べる村々でわしの夢を継いでほしい」とお願いします。そして右馬助は大殿からザビエル師から授かったという絹布を譲ってもらいます。

そして、高橋村の大庄屋になった右馬助のもとに、アルメイダがやって来ます。アルメイダが説教を行うというので、庄屋や村人たちが来て、説教を聞き、次々とデウス・イエズスに帰依したいという者があらわれます。村人の大半が信者となり、大殿との「小さくともデウス・イエズスの王国を築いてくれ」という約束を守ります。米助は元服して久米蔵と名乗り、結婚して子が生まれます。

しかし、日本の各地ではキリスト教の弾圧があり、布教も順調にはいきません。キリスト教に寛容で、やがて天下を取るであろうと目されていた織田信長が家臣に殺され、後釜についた豊臣秀吉は、はじめは静観していたのですが、いきなり「伴天連追放令」を出します。といっても、海外から来た神父や修道士の国外追放で日本人のイエズス教の信仰については特に何もありません。しかしイエズス教の教徒を公言している高山右近(ジュスト右近)は秀吉の怒りを買ってしまい領地召し上げになってしまいます。

やがて「禁教令」も出されて、締め付けは厳しくなる一方。時代は秀吉から徳川家康へ。家康が熱心な仏教徒ということもあって、おもねるというか忖度というか、とりわけ外様大名がキリシタン弾圧に熱心になります。しかし、家康はどちらかというと「黙認」で、二代将軍の秀忠は是とも非とも言いません。そんな中、久米蔵が亡くなり、大庄屋は長男の音蔵が継ぎ、弟の道蔵は今村の庄屋に。

が、幕府は「切支丹禁教令」を発布します。これからさらに取り調べが厳しくなる中で、音蔵はロザリオや十字架は隠して棄教を装ってはどうかと提案しますが、兄以上に熱心な信者の道蔵は自粛せず逆に目立つぐらいに布教に励みます。

郡奉行が各庄屋にすべての住民にキリシタンではないという証文を出せと命令してきます。道蔵のところではどうするかと心配していた音蔵のところに、道蔵の息子の鹿蔵が訪ねてきて、家督を継ぐと告げます。ああ良かったと思った音蔵でしたが、数日後に道蔵が訪ねてきて、息子の鹿蔵と兄の音蔵に、自分を訴えてくれというのです。それによって高橋村は信用されるようになるから、と・・・

これによって、道蔵は捕まり、磔刑に処され・・・

それから、島原と天草で信徒の一揆が起きたときも、音蔵と鹿蔵は藩からの人馬拠出の要求に応えます。音蔵が病に倒れ、高橋村の大庄屋は息子の留蔵に。庄屋をはじめ村人たちは隠れて信仰は続けていたのですが、藩からの取り調べも緩かったのは、ひとつには高橋村産の米が藩内はもとより江戸屋敷でも評判が良くて、藩から信頼されていたのです。というのも、よその村ではそれぞれ勝手に植えて田に水を引くときに争ったりして、そうなるとどうしても収穫時に玉石混交となって米の質が悪くなるのですが、高橋村と今村は村人が「デウス様の筆先」として勤勉に働き、村人総出で暦通りに田植えをし、水で争ったりもせず、六日ごとの休日(ドミンゴ、安息日)はきちんと休んで英気を養ってまたしっかり働くので、米の出来が非常に良かったのです。

さらに、村内で行き倒れの人や捨て子がいたら助けます。飢饉が起きても備蓄していた稗や粟、蕎麦を惜しみなく供出します。これもデウス様の教え。高橋村では村人の逃散(夜逃げ、家出)がほぼありません。

時代は過ぎ、幕末から明治維新となり、明治十四(一八八一)年、磔刑に処された今村の庄屋、道蔵の墓の上に教会が建てられます。五代目の神父の本田保神父はドイツに寄付を募る手紙を送り、多額の献金が集まって、大正元(一九一二)年に今村カトリック教会の起工式が行われます。完成したロマネスク様式の赤レンガ建築の教会は、平成十八(二〇〇六)年に福岡県の有形文化財に、平成二十九(二〇十七)年には国の重要文化財になります。

全国各地に「隠れキリシタンの里」というのがありますが、二百年以上というあまりに長い潜伏期間だったため、中には、ほぼ仏教のお経に聴こえる、でもその内容は暗号化されたキリスト教のオラショ(祈り)になっている、といったのもあります。

歴史の教科書にも出てくる「踏み絵」ですが、高橋村の村民もやらされます。しかし事前に大庄屋から「あれは魂が込められてないただの板じゃ」といって村人ははじめは裸足で、そのうち草鞋を履いたままで踏む者まで出てきて郡奉行も「うーむこの村は立派じゃ」なんてことになるのですが、それにしても踏み絵っていかにも日本人らしいといいますか、ものすごーく陰湿ですよね。

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井上靖 『額田女王』

2022-08-08 | 日本人作家 あ

先月は1回しか投稿できませんでした。といいますのも、大学のレポートをまとめて作成していまして、寝る前にちょっとでも読みかけの本でも読もうとするのですが、脳が疲れてるんでしょうね、本を読む気力がなくてそのまま寝落ち。

そんな言い訳はさておき。ここ最近、卵焼きにハマってます。といいますのも、この前、職場の方から卵かけご飯専用のお醤油をお土産でいただいたんですね。卵かけご飯はもちろんなんですが、釜玉うどんにかけてもおいしかったですし、他になにか使えないかしらと思っていたところ、そうだ卵焼きはどうだろうということで、卵2個に対して卵かけご飯専用のお醤油大さじ1に味醂大さじ1で作ってみたらこれが美味しいのなんの。朝ごはんのときに焼いて4等分にして食べたら美味しくて仕事のお弁当に持っていこうと思い2切れだけ食べて残りをお弁当に。お弁当に卵焼きが入ってると嬉しいですよね。こんなんでQOL高いと感じることができるんですから安上がりです。

 

さて、井上靖さん。この前読んだのはモンゴルのチンギス・カン。そして今作は額田女王。(がくでんじょおう)ではありません。(ぬかたのおおきみ)と読みます。絶世の美女だったという説がありますが、見た人がいるわけではありませんし、写真もないので今となっては「きっとそうだったんだろう」と思うより他ないのですが、それ以前に生年も出生地も定かではありません。そうなってくるといよいよ実在性が疑わしくもなってきますが、万葉集に歌が収められていますので、いたことはいたのでしょう。

冒頭、大化6(西暦650)年に長門の国司が白い雉を朝廷に献上しに来たところからはじまります。これは良い知らせだということで、元号を「白雉(はくち、びゃくち)」に改めます。現在では改元は新天皇の即位によってですが、昔は世の中的に悪い空気をリセットするといったもので、江戸時代なんて改元のオンパレードでしたからね。

この年から5年前、何があったかというと、あるクーデターが起きます。皇極4(645)年、中大兄皇子と中臣鎌足が当時イケイケで権勢を誇っていた蘇我入鹿を大極殿で暗殺します。その翌日、入鹿の父、蘇我蝦夷が自害します。これが昔の日本史では「大化の改新」、現在では「乙巳の変」ですね。クーデターじたいを「大化の改新」といってるわけではなく、その後の一連の政治改革を指します。余談ですが、教科書にある、有名な大化の改新の絵巻ってありますよね。あの蘇我入鹿の首がぴょーんて飛んでるやつ。実はあれ、だいぶ後世になって書かれたもので、なぜなら絵巻というのは平安時代以降になってできたもので、つまりそれより以前の装束はわからなかったのです。だからあの絵の登場人物は描かれた時点で一番古い情報だった平安貴族の装束なんだとか。

それはさておき、中大兄皇子の弟、大海人皇子が件の白い雉を見ていると、そこに美しいと噂の額田女王がやって来ます。額田女王は神事に奉仕をする女官、いわゆる「巫女」のようなことをしていて、神の声を聞いて天皇に代わって歌を詠むという特殊な職業。それから2年、もう大海人皇子はいてもたってもいられなくなり、ある祭儀の夜、額田女王に声をかけますが、近くに別な人物の気配が。一方、額田女王のほうも、ふたりの男が近くにいた事はわかっていたのですが、名前を読んだ声の主は大海人皇子として、もうひとりは誰だったかわかりません。

その翌年の2月、額田女王のもとに、大海人皇子から梅見の宴の誘いをうけます。なにしろ皇太子の弟君からの正式な招待なので断るわけにはいきません。そこに、額田女王の姉の鏡女王がやって来て、衝撃的なことを告げます。なんと中大兄皇子が額田女王を所望しているとの噂があるというのです。そこで、あの夜、大海人皇子ともうひとりの人物はひょっとして中大兄皇子だったのでは、と考えるように。

梅見の宴の日。誘われた場所につくと宴は行われてないばかりか梅もありません。そこにいた大海人皇子に「帰ります」というと「じつは近くに梅が満開の場所がある」といって連れて行かれて・・・

それから半年くらい経って、額田女王の体の変化が誰の眼にも明らかになってきます。そうこうしているうちに額田女王は宮仕えを退きます。老女官がそれとなくお腹の子のパパは誰か訪ねますが、額田女王は「わたしのほうでお訊きしたいくらいです」とすっとぼけます。姉の鏡女王が訪ねてきたときも、姉はてっきり相手は大海人皇子と思ってたのですが「あの夜、梅の花に包まれた夢を見て、それから体がこの様になった」と意味不明な発言。さすがに姉は妹がとうとうアレになっちゃったと嘆きます。

大海人皇子はこの知らせを聞いて、本人に会いますが「お腹の子のお父さんは精霊、梅の花の精ですわオホホホホ」と言われても信じるわけにはいかず「俺の子だ」「どうして信じてくれないの」「俺の子だ」「いいえ、神の・・・」と言い合い。そのうち頭にきた大海人皇子は「じゃあ俺の子じゃないってことはお前ひょっとして他の男と」とサイテー発言。それを聞いた額田女王も「ああそう考えるの。だったら●ぬわ●ねばいいんでしょ」と、こいつはヤバイことになったということで大海人皇子は「はい、お相手は神の精霊です」と認めます。

白雉4年春、額田女王は女の子を産みます。のちの十市皇女です。周囲の人は女の子のパパは絶対にアノ人と思ってますがそれを口に出すことは出来ません。しかし、いつまでも「この子のパパは神の精霊」というわけにもいかず、いつの間にか世間も「まあ大海人皇子でしょ」と、いわば公認のようになってしまい、十市皇女は大海人皇子の側近の女官に引き取られることに。

ちょうどその頃、遣唐使の話題が都で持ち切りに。そんなこんなでゴタゴタしていると、とうとう中大兄皇子から「嫁に来ないか僕のところへ」と正式に誘われます。

海の向こうでは新羅と唐の連合軍が百済と高句麗に戦を仕掛けるというニュースが飛び込んできて・・・

まあ、額田女王が天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)ふたりに寵愛されたというのは飛鳥ロマンスとして有名ですが、確たる証拠はじつはありません。この兄弟の不仲の原因は額田女王だったんじゃないかという説もあるのですが、この小説では河合奈保子の「けんかをやめて」みたいなそこまで露骨には描かれていません。で、天智天皇が病気になったときに大海人皇子が出家して吉野に行って、天智天皇が崩じてのちに第一皇子の大友皇子が天皇に即位しようとしたら吉野にいた大海人皇子が挙兵して大和と戦になった「壬申の乱」が起こります。結果、大海人皇子が勝って天武天皇に・・・というのが、いちおう史実となっていて、それに則って物語は進行していきますが、壬申の乱が終わって数年後にはあらゆる文献記録から額田女王に関する記述は消えます。臣籍降下したとかいろいろ説はあります。

ところで、日本が百済の味方について唐と新羅の連合軍と対戦して壊滅した「白村江の戦い」ですが、超大国の唐にケンカを売ったわけですから「ガチでヤバイ」と国防に力を入れます。さらに全国的な戸籍制度を確立させて徴兵や納税に漏れがないようにします。結局のところ、唐は日本に攻めてこなかったわけですが、その理由というのが、高句麗と百済に勝った新羅が朝鮮半島の支配をすることになったのですが、のちに新羅と唐が揉めて戦となって、日本を攻めるどころじゃなくなったのです。まあじっさいのところ、唐(その前の隋の時代から)と日本の付き合いは古いしいろいろメリットもあるし、海の向こうの島国にわざわざ出かけて戦をする理由もこれといって無かったのでしょう。ところがこれが大和朝廷が日本全国隅から隅まで支配をする足掛かりとなったわけでして、朝鮮半島のゴタゴタが日本にとってプラスに働くということが「朝鮮特需」の1,000年以上も昔にもあったんですね。

額田女王の歌はこういう状況で作られた(もちろん井上靖さんの創作ですが)というのがとても興味深かったですね。物語の合間合間に歌が挿入されていて、いわば文字で表現するミュージカルといいますか。

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