日々の健康チェックを大切にということで毎日体重と体脂肪率を記録しているのですが、なぜかたらふく食べた次の日に減ってたり、ごく普通の食事で1.5キロも増えてたりして、そういえば今使ってるデジタル体組成計っていつ買ったんだと思い返してみたらおそらく10年近く前でさすがに寿命だろうということでさっそく新しいのを買ってこようかと。今まで使ってた体組成計、ありがとう。
春は別れと出会いの季節。
さて、井上靖さん。以前に「敦煌」を読んで、シルクロードつながりで次は『楼蘭』を読もうと思い幾年月。長安を出て黄河を渡り敦煌から西に行けば楼蘭へ、北に行けばトルファンで、楼蘭から天山南路と西域南道に分岐します。三蔵法師玄奘はインドからの帰りにすでに廃墟と化していた楼蘭に立ち寄っています。マルコ・ポーロは楼蘭を経由せず別ルートで敦煌に行ったとされています。
二千年ほど前、砂漠地帯(タクラマカン砂漠)にあった小国、楼蘭。遊牧民族の匈奴の侵略に手を焼いて、超大国の漢に助けを求めるも当時の皇帝は砂漠地帯の防衛に真剣に対応してくれません。しかし、漢の都から見て西の砂漠の向こう側に大国があって貿易をするために西域街道を安全に行き来するべく匈奴を追っ払いますが、漢の使者が楼蘭を訪れて「これからは漢のいうことを聞け」と命令します。それから漢の都合で西域に関心を持つときは漢の言いなりに、西域への関心が薄れてきたときは匈奴の侵略に怯えるといった日々が続きます。が、ある年、漢から衝撃的なニュースが。今の楼蘭の都からだいぶ南方に国ごと移動しろ、と無茶苦茶な要求。楼蘭の都の近くにはロブ湖があり、楼蘭人にとってロブ湖とは神であり祖先であり生活の一部で、離れて暮らすことは考えられません。何日も議論が交わされ、最終的に、ひとまず漢に従って南方に移動し、漢の庇護のもと国力も武力も発展させ、頃合いを見てまた楼蘭の地に戻ろうということになります。そうして、南方の鄯善という場所に移動し、国名も「鄯善国」と改名させられて・・・
西暦1900年、スウェーデンの探検家ヘディンが砂漠の真ん中に都があった痕跡を見つけますが、この時点ではそれが楼蘭だとは断定できませんでした。文献によれば楼蘭は「ロブ湖のほとりにあった」とされていますが、近くに湖はありません。その後研究が進み、ロブ湖は近くを流れるタリム河の土砂の堆積と強い風によってできるラグーン(砂州やサンゴ礁により川や外海から隔てられた水深の浅い水域)であることがわかり、およそ1500年周期で南北に移動するのです。これがのちに「彷徨える湖(ロプノール)」と呼ばれるようになります。1927年、ヘディンはふたたび調査に赴き、遺跡の近くに水路を発見し、ここが楼蘭の都があった場所だということになります。
という表題作『楼蘭』と、漢から砂漠地帯に派遣された兵の話「洪水」と「異域の人」、秦の始皇帝時代の伝記「狼災記」、インド南部の伝記「羅刹女国」と「僧伽羅国縁起」、漢の時代の宦官の話「宦者中行説」、笑わない王妃の話「褒 娰の笑い」、明智光秀の話「幽鬼」、和歌山県の寺僧の話「補陀洛渡海記」、会津地方の話「小磐梯」、陸奥の絵図の話「北の駅路」というふうに特にこれといって決まったテーマの短編集というわけでもない短編集となっております。
全部面白かったのですが、個人的にハマったのは「宦者中行説」と「補陀落渡海記」で、「宦者~」は漢から和解の印として匈奴に派遣された中行説という宦官が匈奴のリーダーを気に入ってブレインになるという話なのですが、東の海の向こう側から来た肌の白い口髭の(侵略者)がネイティブアメリカンと暮らす「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を思い出しました。
「補陀落~」は、紀州南部、熊野にある補陀洛寺の僧は六十一歳になると南に拡がる大海原のさらに向こう側にあるとされる(観音浄土の無垢世界補陀落山)に行くために少しの食糧だけを積んで南方に船出するという儀式があり、住職の金光坊がもうすぐ六十一になるのでどうしようかという話なのですが、金光坊の渡海以降、生きながら渡海するという行為は無くなり、住職が亡くなると死骸を海に流すというふうに変わります。ある意味ちょっと怖い話です。
井上靖さんの短編を読んだのはこれが初めてで、どの作品も小説というよりはノンフィクションノヴェルとまではいきませんがルポルタージュぽいですね。