晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

池井戸潤 『花咲舞が黙ってない』

2020-10-29 | 日本人作家 あ
今年、世界中を取り巻いているこの状況で、読書という趣味があって良かったなあとしみじみ思います。
複数人が集まらなければ成立しない趣味、スポーツですとか囲碁や将棋といった対戦形式のゲームは、インターネットがあれば成立できるものもあるのでしょうが、それでも「家族以外の他人となるべく会わない」というこの状況ですと難しいですね。

ある個人的に尊敬してる人が「年を取る前に一人で成立する趣味を持っていたほうがいい。年取ると出かけられなくなるだろうし周りの人も死んでいくし」と言っていて、妙に納得です。

まだ早いですが、2020年を振り返ってみたところで。

池井戸潤さんです。

この作品は、もともと2004年に出版された「不祥事」という短編小説があり、それが2014年に「不祥事」ともう一作品が原作のテレビドラマが放送され、「不祥事」の続編として2016年に連載、翌年に文庫本出版、となったそうです。

東京第一銀行の本部ビルに「臨店指導グループ」というセクションがあり、なにをするかというと、各支店に赴いて、ミスの指摘や改善などをするチーム。ある日の朝、花咲舞と上司の相馬の耳に入ってきたのは、赤坂支店の情報漏洩疑惑。取引のある外食チェーンの内部情報が競合他社に漏れているのではないか、ということなのですが、本来は支店が対処しなければいけないこの手のトラブルを、本部のお客様相談室に駆け込まれたというのは、支店にとっては恥ずかしいこと。ところがこの問題を調べていくうちに、いち支店だけの問題ではないことがわかります。

・・・とまあ、これが第一話で、連続短編の形式で進んでいくわけですが、銀座支店のトラブル、大分の別府支店に飛んでライバル銀行との融資に関する攻防、四谷支店のトラブル、神保町支店での謎、営業本部と不正会計の企業との問題、そして最終話、となるのですが、臨店指導グループの活動と同時に描かれている、東京第一銀行と産業中央銀行との合併の話、さらに「企画部」という謎のチームが花咲や相馬の報告書をことごとくひねりつぶしていくのですが・・・

池井戸潤さんの作品は、読み終わった後に「ちょっとだけお利口になった気がする」感があります。銀行というふだん利用している割にはよくわかってないシステムを勉強できて、さらに重苦しくない程度にさらりと問題提起もあり。
そして一番「読んでよかった」と思えるのが、読後のスッキリ感。勧善懲悪とまではいきませんが、最終的に大事なものは何ですか、という問いにちゃんと答えているのがいいですね。
まだ全作品を読んだわけではないので、中にはモヤモヤした終わり方もあるのでしょうかね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇江佐真理 『河岸の夕映え 神田堀八つ下がり』

2020-10-23 | 日本人作家 あ
ついこの前まで熱帯夜だ猛暑だいってたのに気が付いたら朝晩は冷え込んで、もうすっかり秋ですなあ、と思ったらもうストーブ出して押し入れから羽毛かけ布団引っ張り出してクローゼットの奥からコートを手前に移す・・・あまり秋を満喫できなかったような。なんだかここ数年は四季のうち春と秋を感じる時間が短くなってるような気がします。

そんな地球の気候変動を憂いたところで。

宇江佐真理さんです。短編です。テーマは「河岸」。明治時代以前の東京つまり江戸はお堀が縦横無尽に張り巡らされていて、中央区、台東区、墨田区、江東区あたりですと当時のお堀の名前が地名や通りの名前となって残ってたりしますね。船イコール海という発想は現代人のそれだそうでして、戦前くらいまでは船イコール川だったそうです。

神田にあった水菓子屋(果物屋)の娘おちえは、今日もため息。というのも火事で店は消失、父親は死亡、母と弟と店の番頭さんの4人で命からがら浅草・御厩河岸近くに移り八百屋をはじめ、おちえと弟はそれまでの生活から一変、セレブリティから八百屋の下働きに。近くの船宿の女将は「どやの嬶」というあだ名の、男勝りというより男そのものという人がいて、おちえはその女将の息子に見初められ・・・という「どやの嬶」。

日本橋・竃河岸近くに住む貧乏御家人の三土路保胤は、小普請組つまり無役。趣味の一中節は玄人はだし。そんな保胤、ひょんなことから都都逸の名人と対決することになってしまって、しかもその日に限って小普請組支配役から仕事が舞い込んで・・・という「浮かれ節」。

外神田の佐久間河岸近くを縄張りにする岡っ引きの伊勢蔵は、七つか八つくらいの娘が薄汚い格好でひとりでいるのを保護しますが、「身は姫じゃ」しかしゃべらず困ってしまいます。伊勢蔵の女房は「お女中ごっこ」とばかりにこの娘の世話をします。はじめこそ「頭がアレ」かと思っていたのですが、いちおう奉行所に報告して・・・という「身は姫じゃ」。

本所・一ツ目河岸たもとに住む横川柳平は、近所の子どもたちに習字を教えています。しかし横川はもともと津軽の百姓の息子で、書も上手で学問もでき、藩に頼んで江戸に遊学させてもらいます。順調に出世したのですが、藩内の抗争の影響で藩を追われ、現在は江戸に出てきた弟の金吉とふたり暮らし。そんなふたりの住まいに、旅姿の男が。なんと故郷の津軽から来て、ふたりの姉からの手紙や土産を持ってきて・・・という「百舌」。

日本橋・小網町から箱崎町あたりの行徳河岸近くの居酒屋で女中をしているお幾は魚河岸で人足をしている年下の旬助とふたり暮らし。お幾は出戻り(バツイチ)で、旬助は今は勘当されてはいますが、じつは廻船問屋の息子。そんな旬助、お幾と結婚を真剣に考え、家に戻ろうと決意し、番頭にお幾のことを話すのですが・・・という「愛想づかし」。

神田・浜町河岸近くの薬種屋の主、菊次郎は町医者の桂順と話をしていると、旗本の次男坊、青沼伝四郎が通りかかります。伝四郎は勉強熱心で人柄も立派で、ぜひとも養子にという話はあるのですが青沼家は金が無くまともな着物すら持っていないということで縁談はオジャン。そこで菊次郎と桂順、そして伝四郎の通う剣道場の師匠と三人で伝四郎に幸せになってもらいたいと話し合いを・・・という表題作「神田堀八つ下がり」。

あとがきで知ったのですが、この作品は直木賞の候補作に選ばれたそうでして、宇江佐真理さんはたしか4度か5度くらい直木賞の候補に選ばれたものの直木賞とは縁が無かったですね。あとがき解説の縄田一男さんの「しかしながら、直木賞もまた、華を逸した、というべきではないだろうか」という評価が小気味よいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上靖 『おろしや国酔夢譚』

2020-10-19 | 日本人作家 あ
今月に入って初めての投稿。

「環境が変わって~」などという毎度おなじみの言い訳もそうなのですが、個人的な話をしますと、十月一日より通信制の大学に入りまして、休日や空いてる時間は読書というよりは大学のテキストを読んでおりました。
なにぶん働きながら勉強する苦学生なもので、趣味に時間が回らないのですが、まだ不慣れといいますか、まあそのうちペース配分というか時間の上手な作り方が出来てくると思いますので、ノンビリいきましょう。

というわけで、井上靖さん。

この作品は、江戸時代に大黒屋光太夫という人の船が漂流してロシアに着き、それから十年後に光太夫ともうひとりは日本に帰るのですが、だいぶ前に読んだ三浦綾子さんの「海嶺」という作品の主人公、音吉も漂流してアメリカに流された話で、光太夫ともうひとりは日本に帰国できたのに対し、音吉は帰国できませんでした。「海嶺」の音吉らは尾張の熱田の港から、光太夫らは伊勢から江戸へと向かう途中で遭難するという似たような境遇だったのですが、片やアメリカ、片やカムチャッカ半島。
この大黒屋光太夫という人物、じつはこの本を読む前から知っていまして、十一月一日は日本の「紅茶の日」でして、光太夫が当時のロシア帝国の女帝エカテリーナ二世の招きで紅茶を飲んだ日ということになっています。それが記録に残ってる最初に日本人が紅茶を飲んだ日、ということですね。

天明年間(一七八十年代)、伊勢白子の浦から、神昌丸という船が出帆します。船乗りは船頭の大黒屋光太夫はじめ十六人。駿河沖で嵐に遭い、舵が折れて、八カ月の漂流(この間に一人が死亡)ののち、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。しばらくすると島民がやってきて光太夫らを囲みます。
敵意が無いことを示すために船に積んであった木綿を差し出すと「付いて来い」といってるらしく、行ってみると、こんどはさきほどの島民とは別の人種が。これがロシア人で、彼らはラッコやアザラシの皮を求めてこの島に来ていたのですが、光太夫たちはこの時点では当然そんなことは知りません。

この島で過ごすこと一年、その間に船乗りは飢えと寒さで六人も亡くなり、生き残りは九人に。この間、日本人漂流者は島民たちの仕事を手伝ったりして、そのうち彼らの言葉も片言ですが覚えて、それから二年後、先述したロシア人たちの迎えの船が来るのを待ちますが、来たと思ったら船が座礁。こうなったら自分らで船を造ろうということになり、ようやく船が完成。なんだかんだで日本人九人は島に四年もいたことになります。

船はカムチャッカ半島のウスチカムチャツクという港に着きます。そこで光太夫らはカムチャッカ政庁の役人に連れられて別の船に乗り、ニジネカムチャツクという街に着きます。そして光太夫はオルレアンコフ長官の家に、他八人は秘書の家に泊まることに。ここでも長期間留め置かれ、その間に三人が亡くなり、生き残りは六人に。

一年後、六人は川船に乗り、カムチャッカ半島を横断し、オホーツク海を西に進んで、大陸のオホーツクという港町に着きます。そこから川を遡ってヤクーツクへ、そして次は陸路で、冬のことですから橇で移動、彼らが伊勢を出帆してから六年余り、イクルーツクに到着します。

この街で、光太夫たちは日本語を話すふたりのロシア人青年と出会います。なんと彼らは、光太夫らよりもずっと前にロシアに漂流した日本人の息子で、自分たちがロシア入りした初めての日本人ではなかったと知り驚きます。
ここで、光太夫らはイクルーツクの役人にお願いして、中央政府(サンクトペテルブルク)に帰国の嘆願書を送りたいと頼みます。そこでラックスマンという学者を紹介してもらいます。ラックスマンは彼らの話を聞いて、帰国嘆願書を出し、さらに「家にいつ来てもいい、そのかわり手伝ってもらいたいことがある」といいます。手伝いとはラックスマンの持っていた日本地図の違う箇所の訂正と、正確な地形や地名を書き込む製作。ラックスマンは地質学者で植物学者なので、日本という島国に非常に興味があり、国の機関である科学アカデミーと繋がりのあるラックスマンと出会えたことで、光太夫らに帰国の可能性が・・・

先述したように、光太夫はエカテリーナ二世に会っています。つまりサンクトペテルブルクに行って、帰国の許可がもらえたというわけですが、日本に帰国するのはもうひとり。では他の船乗りたちはどうなったのでしょうか。

ロシアも日本が他国(中国とオランダ以外の)との交易をしていない鎖国状態であったことは知っていて、しかし日本との交易を強く望んでいて、日本人漂流者たちを厚遇していたのです。そして当時の中央政府(つまり幕府)への親書を携えて、光太夫ともうひとりを乗せた船は日本へと・・・

日本史ですと、一八五三年に浦賀沖に黒船が「突如」やって来てそりゃあもう上へ下への大騒ぎになったという感がありますが、その前にもイギリスやロシアなどの外国船は交易を求めて日本に来ていました。その都度「外国との交易はできない」と突っぱねてきたわけですが、ペリーはちょうど幕府の求心力も落ちて日本国内がガタガタになろうとしていた頃にナイスタイミングで来たんですね。

寒くなってきたことですし、光太夫が飲んだであろうロシアンティーでも飲みますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする